わたしの読書時間が増えたのは三年生になってからだが、語るも涙の悲惨な二年間を過ごしたことによる。入学してすぐに蛸壺と同義語である部活に身を投じたところ、専門語学とゼミ(これはドイツ語を短縮したもので英語としてはセマナー)以外の卒業必要単位は最初の二年間で取っておけと四年生にいわれた。三年生になれば部活の幹部として授業に出られないことも多いし、四年生になれば後期は卒論にかかりきりになるからである。これは代代の申し送りなのだが、どうやらこの年の四年生は「できるだけ」という言葉をいい忘れたようだ。事実はどうあれ、大学の体育会における最上級生のお言葉は神託にひとしい。逆らえば祟る。
 いまはどうだか知らないが、土曜日も午前中は講義のあった時代なので、当時の神戸外大ではその気さえあれば可能なことだった。留年するかどうかは専門語学の成績しだいであって、ほかの講義は一般教養科目でさえ何年生であろうと履修できたからである。わたしは高校のときと同じやりかたを取って、復習をせずにすむように講義に集中したが、九〇分という長さはさすがにきつく、コートでボールを引っぱたいて憂さ晴らしをしたので、とうとうストップ・ヴォレー(英語としてはストップ・ヴォリイあるいはヴァリイ)は身につかなかった。
 専門語学の一部と兼修語学だけは予習しなければならなかったし、週に三日も家庭教師をやっていたので、読書に費やせるのは通学時間と夜中の二時間程度にすぎず、たまりゆく本や雑誌は部活からも解放される夏休みと冬の季節に読みふけった。六甲山からかなりくだった麓とはいえ、六甲おろしにさらされる冬のテニス・コートで練習はできない。こうして苦闘の二年間がおわり、晴れて自由な時間がたっぷり取れるようになると、兼修語学のドイツ語とロシア語や興味のあった商業英語や海外保険といった講義だけを気楽に履修した。
 三年生になるとゼミを受講しなければならないが、英文学がらみでまともなものはなく、文法や辞書づくりに明け暮れるのも嫌なので、読解という点では同じようなものだろうと安易に考え、外大一の切れ者という憲法学者の古林稔教授のゼミを選んだ。無事に採用されて最初の講義に出席するや、恐るべき事態が待ちかまえていた。古林先生は二年に一度しかゼミを開講されないというのに、受講生はわずか五人だけだったからだ。あとで知らされたことだが、憲法の講義で優を取った者に限るという隠し条件によって、応募者の大半が門前払いを喰らったのである。
 おかげでゼミは地獄も同然だった。逃げも隠れもできず、研究発表はほぼ毎月まわってくる。普段は温厚な古林先生も、ゼミのあいだは鬼と化した。唯一の救いとして、好きなテーマを選べばよいといわれたので、わたしは統治行為に狙いをしぼり、わずか二件の裁判に目をつけ、判決文の表現の細部まで吟味して、裁判官の頭のなかをうかがおうとしたものだ。高校の宗教の授業で教わった読解の技法を、否応なく磨きあげるべきときが訪れたのである。
 先に述べたように、テクストの内部だけではなく外部にも目を向け、できるだけ多くの視点から捉えなければならないので、裁判にかかわる世評や政治情勢をも把握しておく必要がある。統治行為を受け入れるか退けるか範囲を定めるかの判断は、司法の機能を問うことになるので、わたしは読解に別の物差しも用意した。三権分立と三権癒着のどちらにどれほど傾いているかである。そして自分なりの考えがまとまってはじめて、判決文に対する法学者の見解にも目を通し、自分の考えに穴がないかどうかを確かめた。
 いまにして思えば、恐ろしいほどの幸運に恵まれつづけたようだ。それまでの読解は頭のなかの作業であったのに対し、必要に迫られて考えこみながら書きとめるという形でおこない、それを識者の見解に照らして点検した後、久生から学んだ論理に徹する推敲を重ねたからである。最初からうまくいったわけではないが、この作業を二年間持続したことによって、少なくとも読解という技術の土台だけは堅固につくりだされた。翻訳家にとって必須の要件にほかならない、読解のスイッチができあがったのである。何年か先に年に何度か上京して泊めてもらったとき、荒俣さんは理論武装について力説され、サンリオ文庫の編集長だった佐藤守彦さんは方法論という言葉をよく使われたが、お二人とも読解の局面を語られているのだと受け取ることができた。
 大学にいるあいだの空き時間を利用したので、ゼミの準備もさほど負担に感じることはなかったが、部活の幹部を務めなければならない三年生のあいだは、大学の近くで下宿住まいをすることにした。新築の家の三畳一間で朝夕のまかないつきなのに、下宿屋をするのははじめてということで、驚くほどの格安料金だったとはいえ、自分のわがままで親に負担はかけられない。学生課で選り取り見取りの家庭教師を二つ確保したあとは、ビルの宿直のアルバイトを見つけた。
 午後六時前に三宮のトーアロードにある貸ビルに行き、昼勤の管理人と交代して、指定の中華料理屋に電話をして出前を頼み、届いたものを食べながらテナントが帰るのを待つ。オフィスの鍵が全部揃うと、大きなガラス・ドア(英語としてはグラース・ドー)を念入りに施錠して、各階のトイレと給湯室を見まわり、誰もいないことを確かめたあとは、もう何もしなくてよい。仕事としては実に簡単で、実働時間は二〇分もないが、わたしがこれを引き受けるまで、アルバイトを雇ってもすぐに辞めてしまい、家族経営のビル管理会社の息子さんたちがしぶしぶやっていた。
 午後六時から午前八時まで空調も停まったビルに拘束されるのは、普通の人にはかなりきつい仕事なのだろうが、わたしにとっては読書のはかどるありがたくも静かな環境だった。ただし一度だけでよいとはいえ、無人のビルを夜に見まわるのは、神経の張りつめるひとときであって、何度やっても慣れることはなく、テニスのラケットを握りしめて巡回したものだ。当時のわたしは弓道部員の射た矢を払いのけられる程度の動体視力と反射神経があった。これくらいできなければ、ダブルスの前衛は務まらない。
 幼いころのデパート体験が再現するどころか、トイレや給湯室に入る際の緊張感は甚だしかったが、家庭教師のある日とあわせて一日置きくらいにやりつづけた。アルバイト料は一回につき二五〇〇円と夕食だったので、下宿代の食費分を少し減らすこともできたの である。それにこの宿直の仕事で実績を積んでから、夏休みのあいだはビルの窓拭きの仕事をやらせてもらい、これはとんでもない命がけの重労働だったが、昼は大衆食堂で食べ放題のうえ、実働わずか四時間足らずで五〇〇〇円もらえたので、普段の金欠病を解消してあまりあった。
 宿直の際には長編小説をもっていくことにした。短編集の場合は、一篇読みおわるたびに、深夜のビルにひとりきりでいるという現実に立ち返りかねないからだ。最初のうちはゴティック・ロマンスをもっていき、高校生のときにゲリイから買ったグロウヴ・プレス版の『マンク』も深夜の管理人室で読みあげ、一八世紀の英語がわたしには読みやすいものであると知ったが、読書に没頭するとまわりのことも忘れてしまうので、深夜の無人のビルで怪異小説を読んでも、雰囲気が高まるわけではないとわかった。
 トーアロードを少し進んだところには、輸入品をあつかうアメリカン・ファーマスィというドラッグストーアがあって、ペイパーバックの回転ラックも常設されていたので、宿直に行くときには必ず立ち寄って物色した。目当てにしていたのは、当時日本では絶大な人気を誇った、バランタイン・ブックスのアダルト・ファンタシイ・シリーズである。入荷数が限られ、早い者勝ちのありさまだったため、アメリカン・ファーマスィは入手しやすい穴場だったのだ。
 バランタイン・ブックスはエイス・ブックスとペイパーバック化権を争い、ジョン・ラヌルド・ルーエル・トールキン(正しくはトルキーン)の『ホビット』と『指輪物語』を出版した後、エリック・リュッカー・エディスンの『無限の大蛇ウロボロス』とズィミアムヴィア三部作、マーヴィン・ピークのゴーメンガースト三部作、デイヴィド・リンズィの『アルクトゥールス(英語としての発音はアークテュラス)への旅』等、イギリスの重厚な幻想小説を順次刊行しつづけ、さらに裾野を広げるべく、ベティ・バランタインがつくりだしたとおぼしき、「アダルト・ファンタシイ」という言葉を冠したシリーズの発刊に踏みきった。
 表紙にユニコーンのマークをつけたこのシリーズは、一九六九年五月からほぼ毎月一冊ずつ刊行されたが、監修者リン・カーター(本名リンウッド・ヴルーマン・カーター)の好みが露骨に出てしまい、いわゆるライト・クラシックを主体にして、パルプ雑誌に発表されたものまで含めるという布陣を取ったため、古くからのマニア(英語としてはメイニア)は苦笑していたかもしれないにせよ、ウィリアム・モリス、ダンセイニ卿、ジェイムズ・ブランチ・キャベル等を若い読者に紹介するという功績をあげた。
 いまの目で見れば、作品選定にかなりの偏りがあって、浅薄な解説には誤りが多く、校閲がおろそかで改竄までなされているので、うかつに引用してはならないし、著者が校正したと考えられるキャスリン・カーツ等の新作以外は、翻訳のテクストとして使うこともできない。たたけば埃の舞いあがるシリーズではあるが、ただ小説を読んで楽しむだけであれば、これらの欠陥もさして問題にはならないと申しそえておく。
 ライアン・スプレイグ・ディ・キャムプの浩瀚な『ラヴクラフト伝』にしても、いまや随所に誤りが潜んでいることが判明しているように、時代の限界による誤りもあるとはいえ、リン・カーターにまつわる問題の多くは、東西を取りちがえるといった類の軽率さによるものなのである。カーターも若いころはもう少しまともなことをしていたのに、長ずるにつれて仕事が雑になっていったのは、読書の醍醐味が何であるかを見失ったまま、速読や流し読みが身についた習性になったからだと見てよいだろう。
 さまざまな問題をはらみながらも、水瓶座の時代の風潮にうまく合致して、アダルト・ファンタシイ・シリーズはそれなりの成功をおさめた。アダルトという言葉を使っていることで、あらぬ誤解を招かないようにするためもあったかもしれないが、斬新な表紙絵を使うバランタイン・ブックスにあっても美しい表紙絵に飾られて、とりわけフラワー(英語としてはフラウア)・チルドレンに支持されたのである。日本で絶大な人気を博したのは、ハードバックを購入する読者は少ないし、わざわざ英米の古本屋に注文する読者はさらに少ないからであって、安価な新刊書しか買わないという傾向はいまもなおつづき、翻訳小説の解説にでたらめが書きなぐられる原因にもなっていることを指摘しておこう。
 一九七二年にはイギリスのスフィア・ブックスから、デニス・ウィートリイの名を冠したオカルト・ライブラリイの刊行がはじまり、こちらはオカルティズム全般を対象にして、小説のみならず評論や研究書まで揃える布陣を取った。第一弾がブラム・ストウカーの『ドラキュラ』、第二弾がガイ・エンドア(本名サミュアル・ゴウルドスタイン)の『パリの狼男』だったので、当初は何をいまさらの感がしないでもなかったが、第三弾としてアレイスタ・クロウリイ(アメリカではクラウリイと呼ばれることが多い)の『ムーン・チャイルド』、第四弾としてヘレナ・ブラヴァツキイの『オカルティズム研究』が出版されるや、にわかに注目度が高まったのである。
 アダルト・ファンタシイとは異なり、同じ作家のものばかりが何冊も出版されることはなかったので、多彩な著者の顔ぶれが何よりもありがたく、ロバート・ヒュー・ベンスン、エリアット・オウドヌル、アルフリド・エドワード・ウドリイ・メイスン、ジョン・ウィリアム・ブロウディ=イニス、ジョウン・グラーント、マージャリイ・ボウアンといった作家を、わたしはこのシリーズではじめて知った。小説以外にも興味深いものが数多く、実在した幽霊ハンターの活動を詳細にたどったポール・タボーリの『ハリイ・プライス伝』や、イギリスの秘密結社の実体を明らかにしたドヌルド・マコーミクの『ヘル=ファイア楽部』等を楽しんだものだ。


(2017年4月11日)