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2017.04.10

『翻訳家の蔵書』大瀧啓裕 特別公開 第一回 疾風怒濤の時代(1/4)


大翻訳家、大蔵書家の噂、今日から噂じゃない。紙本、NET本ふたつ駆使し、知と蒐集の大快楽時代をひとり体現した「超人大瀧啓裕のつくり方!」
由良君美に驚き、荒俣宏に励まされて生きた僕にして、大瀧に育てられたのか!
と思い知る。三人、僕の驚異の部屋、そう、僕のナイアガラ・トライアングル!!
 ――高山宏氏推薦

世界レヴェルの蔵書を背景にしてあらわれる、集書、読解、翻訳の奥の院。愛書家、翻訳家、編集者、校正者必読の書。

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疾風怒濤の時代(一部抜粋)

 高校はミッション・スクールに進学した。受験勉強に明け暮れる生活を送るほど莫迦ではないつもりだったのに、中学の担任には名うての進学校に行けといわれ、かなりくさっていたところ、父が面白いことをいって方向づけをしてくれたのである。西洋とつきあう つもりがあるなら、早くからキリスト教の考え方を身につけておいたほうがよいかもしれない。厄介な条件が付帯していたとはいえ、父のこの達見に従って入学することになった高校は、最初のうちはとまどうばかりの別天地だった。
 一八八四年にイギリス人宣教師が創立した男子校で、校舎の横にはすっきりした教会があり、大きな階段講堂はカンタベリイ(正しくはキャンタベリイ)・ホールと呼ばれ、学院付きの牧師が校庭や校舎でやたら目につく。入学祝いとして聖書と礼拝式文集を渡され、毎日始業前には校内放送で聖書の朗読がおこなわれるし、春には宗教週間があって、一週間にわたって通常の授業が中断され、キリスト教がらみの映画や演劇の鑑賞を主体とする演目がつづく。いま思いだしたが、副校歌のように位置づけられていたのが、十字軍のテーマ(英語としてはシーム)・ソングのような賛美歌、STAND UP, STAND UP FOR JESUS だった。
 こうしてわたしはいささか不安な思いで宗教の授業を待ちかまえた。はじめての授業はいまなお記憶に新しい。教師は出欠を取りおわるや、「地球が丸いと思う者は手をあげなさい」といったのである。わたしたちがとまどいながら挙手すると、教師は間髪を入れず、
「それを自分で確かめた者はいるか」と畳みかけた。血気盛んなわたしたちはこの挑撥に黙っていられない。月蝕や水平線の現象をはじめ、思いつくかぎりのことをいいたてたが、教師はにこりともせずに耳をかたむけつづけたあと、そういったやりかたで本当に確認したといえるのか、地球は丸いという常識に導かれての推測にすぎないのではないかとまくしたて、いとも易やすとわたしたち未熟者を一蹴した。止めの言葉はこうである。では、知ることと信じることはどう違うのか。
 このようにしてはじまった宗教の授業は、いままで経験したことのないものだった。もっぱら新約の講義がおこなわれ、時代背景や周辺事情が詳しく紹介されるのはもちろん、ときには原語のギリシア語やヘブライ語まで解説されたうえで、教会や宗派の見解がもちだされるが、押しつけがましいところはなく、教師はわたしたち生徒の顔色を読みとっては、君たちはどう思うのかといって議論をしかけてくるのである。大学の講読にもひけをとらないレヴェルの高さだったが、専任牧師である教師が巧みに誘導してくれるので、緊張充実した授業はまことにスリリングだった。
 わたしの読書と集書はいよいよ黄金時代を迎えることになるが、その幕を切って落としたのが宗教の授業であったといってよいだろう。聖書の講義はまさに読解のお手本だったからである。『西遊記』の完訳と対決したことをきっかけに、語彙と用例の蒐集をおこなうようになっていたが、言葉を多く知ることはきわめて重要なことではあれ、読解という高度な技術においてはその土台でしかない。聖書の講義はこの事実を端的に示してくれた。言葉を知っているだけでは、書かれていることしか理解できないが、それでわかったような気になると、テクストのなかの蛙になりはてる恐れがある。
 読解の骨法とは、テクストの内部だけではなく外部にも目を向け、必要な知識を総動員して、さまざまな角度から検討することだが、これが一筋縄でいかないものであることは、教師との議論で否応なく思い知らされた。必死にやりあおうとしても、いざ主張を裏づける段になって、頼みの綱の知識があやふやであったり間違っていたりしていることを鋭く指摘され、矛を納めるしかないことがよくあったからだ。以前にアキッレウスと亀の競争のパラドクスでふれた、わかっているつもりで実はわかっていないという愚かさが、ついに切実な問題として浮上したのである。
 原因は実に単純であって、誰しも自分の知っていることは正しいと思いがちだが、頭のなかはインターネットも同然で、知識だと思っているものの大半はただの情報でしかない。正、誤、判別不能のいずれであるかを確かめてはじめて、うかつには使えない情報が思考に組みこめる本物の知識になる。information を精査した後にintelligence があらわれるということだ。ただし深く考えるまでもなく、この精査は正しい情報によってしかおこなえない。ところがこの厳密さが無視され、でたらめな情報が使われることが多く、こうして根拠のないインテルもどきがあらわれると、これが新たなインテルもどきを量産するという悪循環におちいってしまう。
 調べた気になっているだけに、狂った物差しで測っていることに思いがいたらず、あげくには批判精神が空回りするどころか失われてしまい、間違いを指摘されても頑として受けつけないばかりか、インテルもどきを得得と吹聴することにもなりかねない。つける薬がないといわれる所以だが、よほど自分に厳しくしないと、つまりまず自分を批判することを身についた習性にしないかぎり、この底無し莫迦症候群は回避しがたい。実は翻訳においても、誤訳や珍訳の大半はインテル不在の貧しいインフ(あるいはインフォウ)から 起こるのだが、このあまりにもお粗末な翻訳もどきの実体については、あとで詳しくふれることにする。
 くれぐれも誤解しないでいただきたいが、正しい情報だけが本物の知識になるわけではない。誤った情報や正誤の定かでない情報も、そのように分類しえたかぎりにおいて正しい知識なのである。宗教の教師はさまざまな情報を巧みに使い分け、ときにわざと誤った情報や正誤の定かでない情報を使い、食いついた者を血祭にあげるという老獪な策を弄するので、わたしたちフレッシュメンは教師との議論で手もなく負かされていたが、おかげで議論のやりかたが徐徐に身についてきた。ついでながら、四年制のハイ・スクールでは、学年は大学と同様に、フレッシュマン、サファモー、ジューニャ、スィーニャと呼ばれ、三年制のハイ・スクールにはサファモーがない。
 読解においてさまざまな角度から検討しなければならないことについては、聖書を題材にしているおかげで、実にすんなりと理解することができた。たとえばイエスの処刑にいたる経緯にしても、ユダヤ教の各派閥やローマ人といった当事者の視点を取ることにより、同じ状況の捉え方が大きく変化する。インテルは視点や優先事項に応じて千変万化するということだが、これを聖書の読解として理路整然と示されることにより、まさに目から鱗が落ちる思いをすることもしばしばで、優れた推理小説の醍醐味を満喫しているようなものだから、宗教の授業は実に楽しかったのである。





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