Science Fiction

2017.05.24

渡邊利道/アーサー・C・クラーク『地球幼年期の終わり』(沼沢洽治 訳)解説(全文)

五〇年代SFを代表する古典的名作であり、
オールタイムベストの投票結果では
つねに上位にランクインし続けている、
いまなお輝きを失っていない傑作だ。

渡邊利道 toshimichi WATANABE


 世界中の大都市上空に突如として現れた巨大宇宙船団は、人類の宇宙進出の夢を砕き、戦争や飢餓といった深刻な問題をすべて解決した。超高度な文明を持つ異星人は、国連の陰に隠れ、誰にも姿を見せないままで人類を平和と安寧に導いていく。しかし、そこには隠された目的があった……。

 本書は、イギリスの作家アーサー・チャールズ・クラークが一九五三年に発表した長編小説Childhood's Endの全訳である。作家自身にとってのみならず、五〇年代SFを代表する古典的名作であり、オールタイムベストの投票結果ではつねに上位にランクインし続けている、いまなお輝きを失っていない傑作だ。
 日本でも夙(つと)に六〇年代から翻訳紹介され、創元SF文庫では六九年に翻訳が刊行(九二年に新カバー)、今回は新たに御遺族の了解のもと訳文を見直した新版の登場ということになる。大空に突如出現する巨大な宇宙船団という超越的なイメージは、先例があったらしいが(たとえばアメリカの作家シオドア・スタージョンには四七年に「空は船でいっぱい」というそのものズバリのタイトルの短編がある)、やはり本書をもって嚆矢(こうし)とされ、映画『インデペンデンス・デイ』(九六年)をはじめ、さまざまな作品で変奏される、SFというジャンルにとっての、いわば原型的なシーンである。また、本作で提示される人類進化のヴィジョンは、驚くほどに現在でもアクチュアルな思弁性を湛えている。時代を超えた普遍性を有した作品なので、半世紀以上昔の作品だろうと不安に思っている読者の方がいれば、安心して手に取っていただきたい。

 しかし、そんな『地球幼年期の終わり』は、なかなか完成まで時間のかかった作品だったらしい。
 一九四六年、クラークは中編「守護天使」を執筆。〈アスタウンディング〉誌に投稿したが拒否され、改稿を重ねてようやく五〇年に〈フェイマス・ファンタスティック・ミステリーズ〉誌に掲載される。そしてこの中編をほぼそのまま第一部として組み込んだ三部構成の長編小説を構想し、何度かの改稿の末、ようやく五三年に発表したものが本書である。
 当時の世界情勢は、第二次世界大戦が終結し、アメリカ合衆国といまはなきソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が、覇を競って激しく対立していた。互いに核兵器を持ち、第三次世界大戦は世界の終わりを意味していると誰もが考えており、「冷戦」と呼ばれる膠着状態に陥って、宇宙開発競争がまるで戦争の代用のように激化していたのである。米ソの対立は八九年のソ連解体で終わりを告げ、本作のプロローグはいくらか前提が変わってしまった。それを意識してか、九〇年に刊行された新版ではプロローグを削除し、二十一世紀に入り、六カ国共同の火星探査ミッションに出発する直前と設定を変更した上で第一部に組み込んでいる(註1)。とはいえ、変更点はほぼそれだけで、他の部分はまったく旧版と変わっていない。また、その後二〇〇一年に出た版ではふたたび元通りのヴァージョンで刊行されたということだから、作者自身これはこのままでいいと判断したのかもしれない。実際、冷戦という歴史的な知識さえあれば、旧ヴァージョンでまったく問題ない、というよりもむしろ全体のバランスからいえば、旧ヴァージョンのほうが世界の破滅を意識した時代を反映した心性が読み取れる分、物語に説得力が増すように思われるのだ。
 もちろん、この小説は読んで単純に面白いものである。
 たとえば第一部のミステリ的な展開、とくに姿を見せない異星人カレレンを一目見ようと登場人物たちが試みる方法のいかにも技術者的な記述や、第二部で描かれる南の島の海や潜水艇による海洋探査の場面、聖書のイメージを意外性のあるアイディアで転倒させるユーモア感覚や、もちろん第三部での壮大な人類進化のヴィジョンを、まずは入り組んだ伏線を駆使して明らかにしていき、クライマックスでは科学的考証に支えられた緻密さで描写し切ってしまう強靭な想像力など、クラークの持つ多様な魅力が縦横に発揮されていて、まさにマスタピースというに相応しい。
 また、この「人類進化のヴィジョン」の構造が、非常にクラークという作家の特徴を現していて面白い。内容的には神秘主義あるいはオカルト的と言っていい展開になっているのに、あえてわざわざ誰かによって見られている場面を設定し、前述したように科学的考証に裏付けられた視覚的描写で記述している。「SFは絵だ」という野田昌宏(のだまさひろ)の名言があるが、まさにクラーク作品の真骨頂は、このような「風景」の描写にある。
 英文学者の高山宏(たかやまひろし)は、十八世紀から十九世紀にかけて栄華を誇ったロマン派を準備したものとして、ニュートンの光学による「描写」の問題化と、十八世紀に外交問題が解決し、大量のイギリス人がヨーロッパ大陸へと旅した「グランド・ツアー」と呼ばれる現象によって、「風景」を発見したことを挙げている(註2)。「風景 landscape」とは、ただ目に入るものではなく、観念的なバイアスのかかった世界の「像」である。この「像」の捉え方のモデルとなるのが絵画であり、「美学」が成立する。一般にロマン派は、近代科学がもたらした理性偏重や合理主義に対し、感受性や主観を重んじて「自然に帰れ」というスローガンを謳ったとして知られているが、まさにそこで前提された「自然」こそ、自然科学のバイアスのかかった観念的な人工物なのである。そしてSFは、そのような精神風土の中で、メアリ・シェリーやエドガー・アラン・ポオを始祖として生まれた文芸ジャンルであった。
 クラークが、神秘主義に接近するような人類進化のヴィジョンを、なぜ緻密な科学的考証に裏付けされた描写で、読者に「見せる」のか。それは、そのような「風景」こそが、SFというジャンルにあらかじめ埋め込まれた、近代以後の文学・芸術の言説における、ある観念史的パースペクティヴを背負った欲望だからなのである。

 さて、新しい読者のために、作者について少し詳しく紹介しよう(註3)。
 一九一七年、イングランド西部サマセット州の港町マインヘッドに、四人兄弟の長男として生まれる。父親は郵便局の電気通信技師だったが、第一次世界大戦に従軍し、帰還後に同州の内陸部の小さな村ビショップズ・ライデアードで農園をはじめたため転居。その父親にプレゼントされた煙草の景品のカードに描かれたステゴサウルスに魅了され、古生物学に興味を持ち、化石収集をはじめる。二七年に小学校を卒業し、州都トーントンのグラマー・スクールに進学。この学校で天文学を知り、自作の望遠鏡で天体観測に熱中。そして三〇年、学校の勉強部屋で偶然アメリカのSF雑誌〈アスタウンディング〉誌を見つけ、たちまち熱狂的なSFファンになった。雑誌のコレクションをはじめ、その文通欄でイギリスだけではなくアメリカにも友好の輪がひろがっていく。また何よりこの三〇年の夏は、マインヘッドの公立図書館でオラフ・ステープルドンの『最後にして最初の人類』(三〇年)を読んで大きな衝撃を受けた。二〇億年にわたる巨大なスケールの未来史であり、世界戦争や火星人襲来、ウィルスによる絶滅、太陽系の惑星への移住といった波瀾万丈の事件の中で、テレパシーを獲得したり身体が小型化したり巨大化したりと、どんどん変容していく人類の姿を描いた、高度に哲学的・瞑想的な幻想叙事詩というべき作品である。クラークの世界観を大きく変えたというこの作品からの影響の痕は、とくに本作『地球幼年期の終わり』にも顕著に見られるので、本書が面白かった人は探して読んでみるといいだろう。
 さて、三四年には前年に創設されたばかりの英国惑星間協会に参加、自作のロケットによる発射実験を行うなど活発に活動(のちには会長も務めた)。またすでに創作にも手を染めていて、SFファン仲間のあいだで、その個性から「エゴ」というニックネームで呼ばれるようになる。三六年には優秀な成績で公務員試験に合格、グラマー・スクール卒業後はロンドンで大蔵省に勤めた。第二次世界大戦がはじまると、徴兵に先んじて空軍に志願入隊。将校としてレーダーの開発に携わる。四五年に有名な人工衛星による電気通信システムを考案、このとき「地球外電波通信」すなわち衛星放送のアイディアを公表しており、後年、特許を取っていれば大金持ちになっていたとユーモアを交えて語った。
 四六年、〈アスタウンディング〉四月号に短編「抜け穴」を発表しSF作家として商業誌デビュー。同年除隊し、ロンドン大学のキングス・カレッジに入学、物理学と数学を修めた。卒業後の四八年、長編『銀河帝国の崩壊』が雑誌に掲載。宇宙からの侵略者に敗れた人類が引きこもった閉鎖都市で、不死を実現し未曾有の繁栄を築いた遠未来。その退屈な楽園にあきたらず外部を目指す少年の冒険を描いた、『地球幼年期の終わり』にも通じる壮大なスケールの作品である。五〇年には、はじめての書籍であるノンフィクション『惑星へ飛ぶ』を刊行。好評を得て、テレビの科学啓蒙番組にも出演する。以後もノンフィクションはクラークの仕事の大きな柱となり、テレビ番組への出演もあって、英米ではむしろ科学解説者としての認知の方が大きいとさえ言われることもあった。実際クラークの宇宙開発事業とその啓蒙にかける情熱は生涯にわたって決して衰えることはなかった。
 また、この頃英国惑星間協会のたまり場だった酒場で、五〇年代の後半から一緒にダイビング関連のベンチャーを起業し、生涯のビジネス・パートナーとなる水中カメラマンのマイク・ウィルスンと出会う。ウィルスンはクラークにスキューバ・ダイビングの面白さを教え、クラークと海との身体的な交歓もまた生涯にわたって続くこととなった。
 五一年、人類初の月面着陸計画を描いた長編『宇宙への序曲』を刊行。SFとして最初の著作となるこの作品は、緻密な科学的考証に基づいて執筆されたハードSFで、アポロ計画の二十年近く前に書かれたものでありながら、そのディティールの確かさに支えられた詩情はいまも色あせない傑作である。前述した『銀河帝国の崩壊』のような、遠未来を舞台にした、壮大なスケールで大胆なヴィジョンを提示する、ときには思弁的でもある作品の系列と、『宇宙への序曲』からはじまる、技術者としての経験とそこで育まれた論理性に裏打ちされた、広範囲の科学知識を応用した近未来ハードSFの系列は、クラークの作品を特徴づける車の両輪のようなものだが、それらがデビューの頃からほぼ完成されたかたちで備わっていたと見ることができるのが興味深い。
 さて同年に刊行されたノンフィクション『宇宙の探険』は国際幻想文学賞ノンフィクション部門を受賞。続いてハードな火星SFの嚆矢となる長編『火星の砂』も刊行した。翌五二年にはじめてアメリカを訪問。世界SF大会に参加するなど、多くのSF作家、関係者と親交を結ぶ。そして五三年、本書『地球幼年期の終わり』を刊行。発表二ヶ月で二十万部を超えるベストセラーとなり、批評家からも好評を得た。ことにかねてより親交のあったイギリスの文学者C・S・ルイスは、ジャンルを超えた傑作として絶賛した。同年、二度目のアメリカ訪問で知り合った女性と電撃結婚。そのままイギリスへと連れ帰るが、ほどなくして結婚生活は破綻をきたし、翌五四年には別居生活に入る(正式に離婚が成立するのは六四年)。傷心の彼を慰めたのもまたフロリダの海でのダイビングであった。
 五五年の短編「星」が、ヒューゴー賞短編部門を受賞。五六年からほとんどダイビングを目的としてスリランカ(当時はセイロン)に移住。この年にはまた、実質的な処女長編である『銀河帝国の崩壊』を全面改稿した『都市と星』を刊行。クラーク自身は出来栄えに満足だったが、かつてのジュブナイルの雰囲気が濃厚だった作品のファンも多く、そのままどちらの作品も同時に書店に並び続け、さらに後年、『銀河帝国の崩壊』をそのまま第一部として組み込んだグレゴリイ・ベンフォードとの共作『悠久の銀河帝国』が刊行されるなど、複雑で数奇な運命をたどることとなった。
 五七年、長年にわたる海への憧憬を具現化した長編『海底牧場』が刊行。以後、海洋SFもクラークの重要なレパートリーとなる。
 六二年、体調を崩し、のちにポリオに感染したと判明する。ユネスコのカリンガ賞を受賞。科学エッセイ集『未来のプロフィル』刊行。数々の未来技術に関する予言・名言が収録されており、大きな話題を呼んだ。ことに同書で定式化されたクラークの三法則、

 第一法則  著名だが年配の科学者が、なにごとかが可能だと言えば、それはまずまちがいなく正しい。しかし彼が不可能だと言えば、たいていの場合は間違っている。
 第二法則  可能性の限界を知る唯一の方法は、それを越えて不可能の段階に入ることである。
 第三法則  充分に進歩した科学は、魔法と区別がつかない。
(山高昭(やまたかあきら)訳)

 ことに第三法則はいまも多くの人が引用する名言だろう。
 六四年、アメリカの映画監督スタンリー・キューブリックからSF映画への協力を要請され、最初はすでにあった短編「前哨」をベースに制作される予定だったが、紆余曲折あって映画制作と原作の新作長編小説の執筆が同時進行することになる。そしてついに六八年、映画『2001年宇宙の旅』が封切り、続いて同タイトルの小説版も刊行された。それまでのSF映画のイメージを一新する映画版は、わかりやすい説明を一切省いた前衛的な映像美で「人類の進化と異星人の文明」という哲学的でもあるテーマを描くというコンセプトで賛否両論を巻き起こし、再上映を経て評価がぐんぐん高まって映画史上の傑作と遇されるようになったが、クラークの思惑とはまったく違った作品であった。とはいえ、小説版ではすべての場面に明快な説明がつき、のびのびと描かれていて、のちに年月をおいて続編が次々に書かれていったようにクラークのライフ・ワーク的作品となる。また映画のヒットとこれまでの科学解説者としてのキャリアへの信頼も手伝ってか、ちょうど目前に差し迫っていた人類初の月面着陸を迎えるにあたってメディアに重用されるようになり、とくにテレビを通じてその知名度はどんどん大きくなっていった。七〇年には日本で開催された国際SFシンポジウムに参加。大阪万博を見学し、小松左京と対談した。
 七三年に発表した五年ぶりの長編『宇宙のランデヴー』は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ジョン・W・キャンベル記念賞、ジュピター賞、ローカス賞、英国SF協会賞を受賞。全長五十キロ、直径二十キロ、自転周期四分で内部が空洞になった巨大な円筒形物体〈ラーマ〉が、毎時十万キロ以上のスピードで太陽系をおとずれた。それにランデヴーし内部を探検するが、なにひとつ謎は解けないままに近日点に近づいて探検隊は撤収し、〈ラーマ〉はただ去っていくだけという物語。まったくシンプルで、しかしそれ以上何を求めると言うのかと反問したくなるような傑作である。七九年には、スリランカを舞台に軌道エレベーターを建設する人々を描いた長編『楽園の泉』を発表。『宇宙のランデブー』に続いてヒューゴー、ネビュラのダブルクラウンに輝いた。クラークの技術系SFのおよそ集大成と呼べるような作品であり、またスリランカでの生活に取材したいきいきした細部も豊かな、やはりこれも大傑作だ。そしてここでクラークは一度SF創作の筆を擱(お)こうと決意したという。しかしエージェントが『2001年宇宙の旅』の続編を書くことを熱心に勧め、またコンピューターを導入したことによって執筆の意欲が再燃。八二年に『2010年宇宙の旅』が刊行され、その後もシリーズは『2061年宇宙の旅』(八七年)『3001年終局への旅』(九七年)と続いた。
 八六年にはふたたび危機的な体調不良に襲われ、それが過去に感染したポリオによるものとついに判明、最終的には車椅子生活を余儀なくされることとなる。過酷な闘病を続けながら、中編を長編化した『遥かなる地球の歌』(八六年)や、タイタニック引き上げの物語『グランド・バンクスの幻影』(九〇年)などの長編を発表するが、しだいに後輩のハードSF作家であるグレゴリイ・ベンフォードやスティーブン・バクスターなどとの共作が創作の中心となっていく。
 九八年にエリザベス女王からナイトの称号を叙勲、またノーベル平和賞にノミネートされるなど、晩年はさまざまな栄誉に輝き、二〇〇八年にスリランカのコロンボ市内の病院で呼吸不全のため死去した。遺作となったのは同年に完成し、死後刊行されたフレデリック・ポールとの共作『最終定理』だった。享年九〇。
 その名を冠した賞はいくつもあり、SFでは八七年からはじまる、前年にイギリスで初刊行された作品からもっとも優れた長編小説に授与される「アーサー・C・クラーク賞」のほか、八三年に設立されたアーサー・C・クラーク財団が運営する、クラークの価値や業績を”具体的に立証した”人物や団体に与えられる「アーサー・C・クラーク生涯功労賞」(二〇〇二年〜)、衛星通信分野での業績に対しての「アーサー・C・クラーク発明家賞」(〇三年〜)、また財団とは関係のないところでも、〇五年には宇宙探査に貢献のあった英国の個人・団体などに贈られる「サー・アーサー・C・クラーク賞」などが設立されている。これらの賞の多くは、クラークの作品(想像力)が、単に文学・SF関係者のみならず、科学・技術者たちにもよく理解され、愛されていることを示しているだろう。
 ふりかえってみれば、つねに最新の科学知識によってアップデートされていったとはいえ、クラークの作品はそのスタイルと思想がつねにほぼ一貫していたように思える。争いごとが嫌いで、自作ではほとんど暴力的なシーンを描いたことがないと語るクラークは、つねに確信を持ってみずからがしたいと思ったことだけを着実に実行してきた、非常に稀な幸福なSF作家なのである。
 今年二〇一七年はクラークの生誕百周年にあたり、そのような記念すべき年に『地球幼年期の終わり』の新版が刊行されるのを言祝ぎたい。

 (註1)九〇年の改稿版は、光文社古典新訳文庫から『幼年期の終わり』(池田真紀子(いけだまきこ)訳、二〇〇七年)として刊行されている。
 (註2)高山宏『近代文化史入門 英文学講義』(講談社学術文庫、二〇〇七年)
 (註3)クラークの伝記的記述は、クラーク自身の自伝的エッセイ『楽園の日々』(山高昭訳、ハヤカワ文庫SF、二〇〇八年)と、牧眞司(まきしんじ)氏作成の詳細な年譜(『ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 1〜3』中村融(なかむらとおる)編、ハヤカワ文庫SF、二〇〇九年)を参考にさせていただきました。



■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。




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