Science Fiction

2017.02.21

渡邊利道/ピーター・ワッツ『エコープラクシア 反響動作』(嶋田洋一 訳)解説(全文)

ジャンル作品の傑作の条件のひとつが、
ジャンルそのものの本質を問い直すような
ラディカルさにあるとすれば、
本作はまぎれもなく傑作SFと呼ぶにふさわしい作品だろう。

渡邊利道 toshimichi WATANABE


 本書は、2014年にカナダ人の作家ピーター・ワッツ Peter Watts によって発表された長編小説Echopraxiaの全訳である。二〇〇六年に発表された長編『ブラインドサイト』Blindsightの続編だ。併録の「大佐」"The Colonel" は、『エコープラクシア』刊行直前に、ウェブサイト Tor.com で発表された本編の予告編的内容の短編。いわゆるスピンオフとは違って、『ブラインドサイト』『エコープラクシア』のあいだをつなぐ橋渡し的作品となっており、本編よりも先に読まれることを強くオススメしたい。

『ブラインドサイト』は、ヒューゴー賞、ローカス賞、ジョン・W・キャンベル記念賞、サンバースト賞、オーロラ賞の最終候補/ファイナリストとなった超話題作で、世界のいくつかの国で翻訳が刊行され、ポーランドの2008年スフィンクス賞翻訳長編部門およびNAST賞、ロシアのSF雑誌ミール・ファンタスチキの2009年ベスト海外長編、フランスの2010年 Grand Prix de l'Imaginaire 翻訳者部門、スペインの2010年 Xatafi-Cyberdark 賞海外長編部門、フィンランドの2014年 Tähtivaeltaja 賞を受賞。日本でも2013年に本文庫から日本語訳が刊行され、翌年の星雲賞海外長編部門に輝き、早川書房の『SFが読みたい!』ベストSF2013海外部門で第2位にランクインした。
 知性にとって「意識」は必然的なものではないとする刺激的な主題のファースト・コンタクトSFで、吸血鬼や感覚器官を機械で置き換えた人間、脳の半分を失った男など特異な登場人物たち、映画『エイリアン』を思わせるホラー的な展開と、さまざまなジャンルからのクロスオーヴァーな引用を鏤(ちりば)めた、謎の多い語りで読者を幻惑するゼロ年代を代表する作品といってよいだろう。
 原著では8年ぶりという、決して短くはないインターバルで発表された続編は、宣伝文句によくある「前の作品を読んでいなくても問題なく楽しめる」というものとはまったく違う。物語が前作の続きであることはもちろん、いくつかの細部は伏線として機能し、謎がいくつか解かれ、逆に前作で事実のごとく語られたことが謎に転じる、といったさまざまな展開を示す。
 また登場人物は一人をのぞいて再登場するものはいないが、前作のそれときれいに対応づけられて意図的に配置されている。SF的な主題は前作の「意識」に対して本作は「自由意志」と、科学哲学的な同じ地平にあり、そこに「宗教(神)」という要素も盛り込まれることでより深みを増したものとなっている。
 もっとも前述した通り『ブラインドサイト』は非常に語りに特色があり、あえて曖昧に引用や暗示で展開している部分が多く、読了した人でもはっきりと内容を細部まで理解したという人は少ないようで、以下、参考までにいくつかの解釈を補足し、また未読の方が『エコープラクシア』を楽しむために必要な前作のおさらいを書いておこう。

  以下の文中で、『ブラインドサイト』および『エコープラクシア 反響動作』のストーリー展開の核心に触れています。

薄暮の空一面に突如として出現した65536個の流星は、正体不明の異星人の探査機だった。現代の技術によって人間に害を為すことがないように条件づけられた上で再生された吸血鬼を指揮官とし、四重人格の言語学者、平和主義者の軍人、感覚器官の大半を機械化した生物学者、そして語り手でもある、脳疾患の治療のため脳の半分を失い特殊な観察力を得た「統合者」と呼ばれる男。それぞれ特異な技能を持ったトランスヒューマンなメンバーが乗り組んだ宇宙船〈テーセウス〉が、謎めいた探査機の正体の調査を目的として送られることになる。彼らは、太陽系外縁の予定外の地点であきらかに人類以外の知性体のものである巨大な構造物ロールシャッハに遭遇。内部へ潜入し接触を試みるが、人類とまったく異質な進化の階梯(かいてい)を登った異星の知性体は、人類の脳の器質的欠陥を利用する恐るべき存在で、クルーたちは壊滅状態に陥る。吸血鬼はそこで起こった出来事を地球に伝えるために統合者を救う。失われた共感能力も取り戻させられた統合者は、脱出したシャトルに乗ってこの小説それ自体となるメッセージを語りだす。
『ブラインドサイト』の物語の大枠は以上のようなもの。語り手は「自分が誰々だと想像してみてくれ」と何度も繰り返しアイデンティティーを揺らし続け、小説の半分を地球での家族や恋愛の回想に費やす上に、時には「信頼できる語り手などというものが存在するのかどうかもわからない」とさえ嘯(うそぶ)く。
 敵となる異星人は意識の隙間を攻撃してくるし、吸血鬼の知性は人間の十倍高く、多重世界を同時に見ることができ、過去形を使わない超感覚の持ち主で、そこに〈テーセウス〉を制御するAIも絡んだ攻防は語り手の理解を遙かに超えているのだから、語りはさらに錯綜することになる。また宇宙SFとしてきわめてハードな考証が行き届いており、宇宙船の設計や異星人の生物学的な構造などの記述も見事で、出来事/物語の曖昧さとその背後にあるさまざまな計算の緻密さが、いろんな要素が分裂したままで同居している不思議な印象を与える。
 さらにもうひとつ、おそらくキリスト教圏の読者にはおなじみだが、本邦ではなかなか理解しづらいのが聖書の引用・暗示の部分だろう。貝光脩(かいこうおさむ)氏によれば(*1)、物語終盤での吸血鬼が語り手を救い、生き延びて事の経緯を地球に伝えよと命ずる場面は、サウロ(パウロ)の回心のパロディであり、吸血鬼の、ユッカ・サラスティ Jukka Sarasti という命名自体 Jesus Christ の擬似的なアナグラムになっているとも読めるほか、さまざまな場面で聖書のイメージが利用されているのである。またそういう視点から見直せば、一見無駄に見えるいろいろな細部が、周到に計算された伏線であることが理解されるようにもなっている。原著では多く候補にとどまったのに、その翻訳が各国でさまざまな賞を獲得しているのは、小説の語りの表面的なわかりにくさと、物語の骨格の確かさを示してもいるのだ。

 そして、本作『エコープラクシア』は、〈テーセウス〉が消息を絶って七年後から物語がはじまる。前作の終わりで、地球では吸血鬼たちが捕食者としての地位を取り戻し、人類を虐殺していると語られているのと呼応するように、本作の冒頭”前兆(プレリュード)”で弱点を克服した女吸血鬼ヴァレリーが登場し、人々を虐殺する。犠牲者の一人の名前が「グレーゴル」。ある朝不安な夢から覚めると巨大な一匹の巨大な毒虫になっていた男の名前であり、すでにそこからして本作の大きな主題のひとつ、「変身」のモチーフが現れている。そして続くこの場面のディスコミュニケーションに満ちた会話はたとえようもなく美しい。
 挫折した過去をもった生物学者ダニエル・ブリュクスを中心的な視点人物にした三人称の物語は、前作の信頼できない一人称の語り手に比べればかなり読みやすいが、物語の起伏はずっと激しいので章が変わるごとに話の様態も変容して驚かされる独特の構成になっている。セクションごとに付けられた虚実様々な文献からのエピグラフが物語の背後にひろがる世界設定の思弁性を際立たせ、印象的な場面が象徴的な伏線になるという語りの特徴はさらに冴えわたっているので、一読どういう意味かわからないような細部も最後まで読み終えたときに新たな意味を持って読み直すことが可能になる。
 物語の主軸になるのは、「両球派(りょうきゅうは)修道会」と呼ばれる脳をネットワークして融合し巨大な集合精神を構築する宗教団体と、軍用ゾンビを従えた吸血鬼、さらにベースラインと呼ばれる現生人類による三つ巴の抗争と、〈テーセウス〉からのメッセージを受信した太陽近傍にあるイカロス衛星網への旅だ。あいかわらずハードな科学考証は厳密で、チラッとしか出てこない施設や宇宙船、また多くは説明されない技術などにも非常によく練られた設定が用意されている。参考文献であげられるさまざまな概念についての記述を読めば、この同じ世界でまだ一ダース以上の短編が書けるのではないかと思われるほどだ。
 前作同様、宇宙空間での登場人物たちによる思弁的な議論は大変読み応えがある。前作では異星知性体との接触を通して、意識は生存戦略において不利に作用するという苦い認識が浮かび上がってくるという構成になっていた。今回は、主要登場人物が何らかの意味で「原罪」のような人生の苦悩を背負っており、それぞれに救済を求める「思想」を持って対決する構成をとる。ことに両球派修道会に所属するウイルス神学者リアンナとブリュクスのあいだで交わされる神と信仰をめぐるほとんど堂々巡りの議論は、そこに仄かな性愛心理が透けて見えることもあって、一種の思想的メロドラマとでもいった迫力がある。それは〈テーセウス〉に息子を送り出したという軍人のムーア大佐や、ブリュクスを「ゴキブリ」と呼ぶ遺伝子改変を受けた宇宙船の操縦士セングプタ、そしてもちろん吸血鬼のヴァレリー、さらにはイカロスで待ち構える異星知性体「ポルティア」をも加えたサバイバル・ゲームへと発展する。
 前作では「意識」という主題がメインに据えられていたが、本作では、まず「神と信仰」が、ついで「自由意志」が、というふうに複数の哲学的問題がスパイラルしながら展開する。
 科学と哲学のエッジを切り結ぶこのダイナミックな議論は、いくつかの前提に沿って展開しており、そのヒントは小説本文中に実に無造作に鏤められている。しかし、前作でもそうであったように、語りの中心となる人物が事態をなかなか理解しないままで進んでいくこともあって、どうしても難解な印象を拭えない。またやはり前作同様結末に至っても、いくつかの問題が曖昧なまま放置されているようにも見える。
 そこで、ここではすでに本文を読まれたが、ちょっと理解が追いつかないという読者のために、物語の核心に触れた解釈を書いておこう(*2)。

 まず神についていえば、前提として、本作を貫く宇宙のイメージはデジタル物理学に基づいているということを理解しなければならない。デジタル物理学とは、「宇宙(あるいは現実)とは本質的に情報であり、したがって記述可能、計算可能である」という仮定によって導かれる理論物理学的な宇宙論の展望である。そこでは宇宙は巨大なコンピュータであり、みずから自身を計算の結果として出力しているものとして理解される。宗教的に見れば、このような世界観は一種のプラトニズムに近似しているだろう。ガリレオは、世界は数学の言語で記述されていると言い、デカルトは運動を時間と空間の関係で関数的・解析的に捉え、代数学の基礎を築いた。魂が身体を支配しているように、宇宙というコンピュータを動かすアルゴリズム(=物理法則)が存在するのだ。
 そういった宇宙観の中で、では「神」とは何か。作者はそれを「ウイルス神学」という言葉でほぼ簡潔に表明している。つまり、神が超自然的なものであるならば、それは物理法則を破壊するもの(奇蹟)を伴っていて、デジタル物理学に対応するように比喩的に表象するとすればコンピュータ・ウイルスだろうというわけである。ここには前作同様のキリスト教的世界観に対するアイロニカルな悪意がうかがえる。また、サラスティがイエスであったように、本作におけるヴァレリーはモーゼなのである(砂漠から現れ、同族を解放する)。
 両球派が目指すのは、その意味ではウイルス性の神が生み出した生命というバグ(局所的規則)、および人間原理の解消であって、実質的には涅槃(ねはん)の実現に他ならない。それゆえイカロスに侵入してきた異星知性体「ポルティア」は、彼らにとっては「神の手」である。ブリュクスは、その目的のためにあえてイカロスに連れて行かれ、ポルティアを感染させられる。
 一方ヴァレリーにとって重要なのは人為的・遺伝的な拘束から仲間の吸血鬼たちを解放することである。そこで彼女は両球派を出し抜き、ブリュクス=ポルティアを利用しようと目論む。ラストでの印象的なキスの場面は、ブリュクスの状態を確認するためのものであり、それに続く再プログラム版ポルティアの注射を攻撃と見なしたポルティア=ブリュクスに彼女は殺害される。
 ブリュクスはポルティアに完全に支配される前に自殺を試みるが、ヴァレリーによって改変されたポルティアはブリュクスの肉体を再生させ、仲間の吸血鬼たちを解放するために「使節」として旅立つ。かくして神の手(ポルティア)を地球にもたらすという両球派の目的は達成され、それに仲間の解放というプログラムを忍び込ませたヴァレリーの企みも成功。ポルティアにとっても、情報収集のため地球に潜入するのが目的だったのだからやはり成功、ということになる。そして、地球には新しい時代が到来するのだ。
 こういった視点から作品を再読すれば、情報過多で曖昧に見えた物語が、いかに首尾一貫した価値観に貫かれているか了解できるだろう。そしてまた同時に、そのような「世界の法則」とでもいえるものから徹底的に無意味なものとして排除されてしまうように見える登場人物たち、ブリュクス、リアンナ、大佐、セングプタ、またブリュクスの妻ローナや大佐の妻ヘレン、そして前作の語り手であるシリ・キートンにいたるまで、その存在の儚さが生々しく蘇ってくることだろう。
 シンギュラリティやポストヒューマンという華やかなSFテーマを、ひたすらアイロニカルに朗らかなペシミズムとでもいった調子で人間性の消滅として語るフィクションに仕立て上げてみせる作者の技量は見事なものだが、では何故、このまったく救いのないような物語に、読者は(ここではむしろ「私は」と書くべきかもしれないが)感動してしまうのか。
 それは、単なる消えゆくものへの感傷だけではなく、人間の限界の外部に、人間が消滅したあとにも大きく世界がひろがっているという想像に、いまある世界を超えた絶対的な自由の可能性を感じ取るからではないだろうか。
 それはたとえばクラークの『地球幼年期の終わり』のような、地球人類や異星の知性体が、ある大きな進化の階段をそれぞれ担っているという必然性の観念に基づいているのとも異なり、徹底的に偶然的な存在として描かれていることからも強く感じられる「自由」である。それは自然科学という思考体系が有している「非人間性」に魅了される、SFというジャンルそのもののひとつの傾向を示しているように思える。
 ジャンル作品の傑作の条件のひとつが、ジャンルそのものの本質を問い直すようなラディカルさにあるとすれば、本作はまぎれもなく傑作SFと呼ぶにふさわしい作品だろう。

 作者についての詳しい紹介は、『ブラインドサイト』の訳者あとがきにあるので興味があれば参照していただきたい。新しい情報としては、2016年にCBSのテレビドラマ『パーソン・オブ・インタレスト 犯罪予知ユニット』のノヴェライズを依頼されて初稿を書き上げたものの、諸事情によりキャンセルとなったことがブログで公表されている。
 なお、『ブラインドサイト』『エコープラクシア』Firefallというタイトルのもとに合本されたエディションが刊行されている。

*1 貝光脩「解説」(ピーター・ワッツ著・はるこん実行委員会翻訳班 訳『神は全てをお見通しである』はるこん・SF・シリーズ、2014年)。
*2 原著刊行1ヶ月後に、ソーシャル・ニュースサイトReeditで著者が読者に向けて実施した公開Q&A(https://www.reddit.com/r/SF_Book_Club/comments/2hzpmt/echopraxia_qa_questions_fended_off_by_peter_watts/)と、著者のブログ(http://www.rifters.com/crawl/?p=5253)での補足を参照した。



■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。




バックナンバー