Science Fiction

2014.07.05

渡邊利道/レイ・ヴクサヴィッチ『月の部屋で会いましょう』解説(全文)[2014年7月]

渡邊利道 toshimichi WATANABE


 本書は、すでに翻訳家岸本佐知子氏によっていくつかの作品が翻訳紹介され、熱心な小説愛好家たちから注目を集めている、アメリカ合衆国オレゴン州在住の作家レイ・ヴクサヴィッチ待望の本邦初作品集である。
 多くは十ページにも満たない、短編としても非常に短い作品を中心に33編が収録されている本書の特徴をひとことで言えば、ほとんど現代アート作品のように突拍子もない奇想と、恋人同士や家族たちの愛情のすれ違いといった普遍的な切なさや恐怖を絶妙にブレンドさせた小説集ということになるだろうか。
 まず奇想に関して言うならば、英語版のWikipediaなどで、R・A・ラファティやドナルド・バーセルミなどといった、とても一筋縄ではいかないワン・アンド・オンリーの魅力を備えた作家たちと比較されているほどの強者である。どれでもいい、ともかくパラパラとページをめくって目についた作品をひとつでも読んでいただければ、そのめくるめくような世界に圧倒されること請け合いだ。なにせ一編が短いので大した手間がかからないのも素敵だ。
 たとえば冒頭の「僕らが天王星に着くころ」は、皮膚が宇宙服にゆっくり変化していき、完成するや宇宙に向って飛び立ってしまうという奇病が流行している世界の物語。続く「床屋(バーバー)のテーマ」では、美容師の女性が嫌な親父の髪をかき分けると猿でいっぱいのジャングルや寒風吹きすさぶシベリアの平原がひろがっていたりする(ちなみに作中に出てくるテーマソングが印象的な映画というのは『ドクトル・ジバゴ』である)。その他、家に帰ってみると同居している彼女が頭から茶色い紙袋をかぶってソファーにじっとしたまま動かなかったり、休暇旅行に人々がつねに金魚鉢を抱えて生活している世界へテレポートしたり、赤ん坊のおむつの中から鳥だのネズミだのがわんさか出現したり……、33の作品のすべてに、ページを開けば空いた口が塞がらないようなシュールな世界がひろがっている。
 しかし、その奇妙な世界で展開するのは、前述した通り本当にどこにでもいるようなありふれた恋人たちや家族のディスコミュニケーションの物語なのである。
 ふたたび「僕らが天王星に着くころ」を見てみよう。恋人のモリーの皮膚が宇宙服に変容していくのに、ジャックはきわめて理知的に対応しようとする。病気はとめどなく流行しているのでいつか自分も宇宙に飛び出していく。けれどモリーのほうがずっと早い。どうにかしてモリーが飛び立つのを遅らせることはできないかとジャックは果敢にもさまざまなアイディアを考える。しかしモリーにはそんなことはどうでもいい。彼女はもはや逃れられぬ運命とあきらめていて、ただ最後の時までジャックの肌の温もりを感じていたいだけなのだ。皮膚が宇宙服になって地上から飛び立ってしまう奇病が流行している世界と、それに抵抗する主人公のむなしい試みを丁寧に描写しながら、同時に、ありふれた恋人同士のすれ違いをすっとぼけたユーモアにくるんで、切なさに満たされた恋の物語にしてしまうのだ。
 多くの読者にとって、ここで描かれるような親しい人間同士の間での感情の行き違い、価値観のすれ違いといったものは、ずいぶん身に覚えのあるものではなかろうか。何か変わったものを見つけ、その仕組みに夢中になって恋人や家族を置いてけぼりにし喧嘩になったり気まずくなったりといった経験のひとつやふたつは、誰しも持っているに違いない。「あなたは普通じゃない」とか、「そういうことを言ってるんじゃない!」などと親しい誰かになじられたことがある人なら、きっと涙なしには読めない作品であるに違いない。
 他にも、蛇を鼻の下に糊付けして家庭崩壊の危機を迎える「ぼくの口ひげ」や、地球滅亡をもたらす彗星の接近を紙袋でやりすごそうとする「彗星なし(ノー・コメット)」など、奇想の大胆さと見事なコントラストを描く切なさは、ちょっとラファティやバーセルミにはない、この作家の親しみやすい特徴である。
 また、ディスコミュニケーションが生み出す感情には「恐怖」というものもある。
 たとえば「ふり」という作品。毎年休暇になると「しきたり」と呼ぶ仲間内のルールを作って一緒に過ごすことにしているグループがある。スカイダイビングに行ったり、ルイジアナで蛇と戯れたりするのだが、どうも仲間の一人であるマリリンはうまく「しきたり」に自分を合わせることができないでいる。今年はスチュアートの提案で払い下げの元ミサイル格納庫に集まって、信じる対象を生み出す練習と称し、グループの一人を幽霊と信じるゲームを始める。くじ引きで幽霊になるのはマリリンに決まる。「ふり」さえすれば本当になるとスチュアートは言い、マリリンは幽霊の「ふり」をし、みなはそれを信じる「ふり」をする。そして……という、ちょっとヘンリー・ジェイムズを思わせるような物語だ。これは仲間とかグループといったものが、時として非常に残酷なもので、また何かを信じるということがどれだけあやふやで、人がどれだけ孤独かを思い知らせてくれる物語である。
 他にも、恋人がくれたセーターの中で迷子になる「セーター」というフリオ・コルタサルを想起させる作品や、いびきのうるささを指摘され妻に去られた男が、テープレコーダーで自分の寝ている部屋を録音してみると何やら異様な音が……というデヴィッド・リンチの映画のような「ささやき」など、不可知な他人とのすれ違いが生み出す孤独の中で、自分自身の輪郭が怪しくなっていく、そういった不気味な「恐怖」をさらりと描いた作品群も、この作品集のもう一つの柱である。年配の女性科学者がみずからの体内にナノ生物をとりこむ実験を施したところ、世界の安定のためにナノピープルが女性科学者をボケ老人のようにしてしまい、彼女の子供たちが溌剌とした母親を奪還するために戦う「母さんの小さな友だち」など、シチュエーションだけならばまるで古典的なアクションSFとして展開しても良さそうな物語なのだが、ヴクサヴィッチにかかると世界の根本的な不安定性にかかわる不気味な恐怖にゆっくり浸されていく。
 切なさと恐怖というのは、人間にとってきわめて普遍的な感情だ。それはこの作品集が、きわめてひろい範囲の読者に届くものであることを示しているだろう。奇想SFとしてのほとんど天衣無縫と言ってよいような独創性を、普遍的な感情の物語に落とし込む洗練された技法は、50年代のロバート・シェクリーやチャールズ・ボーモントといった作家を想起させる部分もあるが、彼らがジャンル小説の枠組をしっかりと堅持していたきわめて優秀な職業作家たちであったことを考えると、ヴクサヴィッチはもっとずっと主流文学的な個性を感じさせる作風である(『フランケンシュタイン』とジェイムズ・ジョイスを同時に下敷きにした「ジョイスふたたび(リジョイス)」などという作品など見事にハイブリッドだ)。
 まるで無責任な思いつきのような奇想が、思いつきのまま放置されることなく、小説としてきちんと理知的にコントロールされている感触があり、その奇想の次元の精緻な奥行きの深さと、登場人物たちが生きる感情の次元が交錯して作り出される幻想的なリアリティには、たしかに21世紀的なフィクションの手応えがある。現在の日本語作家で言えば、円城塔、藤野可織、木下古栗といった作家たちをそのすぐ隣に配置してまったく違和感がない。そういう意味では、《年刊日本SF傑作選》などで積極的に「純文学」出自の作品を採用し、ジャンルとしてのSFの幅をひろげてきた東京創元社の新しい海外SF叢書のラインナップにこの作品集が加わるのは、非常にふさわしいものであるだろう。
 実際、主流文学とジャンル小説の区分は、ここ数十年ですっかり様変わりしてしまっている。かつては主流文学とジャンル小説の間には、「高尚なもの」と「低俗なもの」という決して越えられない壁があったものである。しかし、1950年代から70年代にかけて世界を席巻したポップカルチャーの隆盛以後、たとえばウラジミール・ナボコフやアラン・ロブ=グリエ、イタロ・カルヴィーノ、ウィリアム・バロウズなどのように、十九世紀リアリズム小説が捨象してしまった様々な要素を、ジャンル小説やハリウッド映画などの大衆的表現を経由して実験的に再導入するのが文学の前衛として成功を収めるようになり、SFの側でも、シュルレアリズムの強い影響から出発し、バロウズを「理想のSF」と称揚するJ・G・バラードや、さまざまなスタイルでメタフィクション的実験を繰り返したスタニスワフ・レム、「信用できない語り手」を駆使するクリストファー・プリーストやジーン・ウルフの諸作など、ジャンルの文学的洗練が進んでいった。
 しかしそれでもまだ1980年代くらいまでは、そのような作品は「先鋭的」であり、「実験的」なものであった。高度化するテクノロジーと資本主義が、メディアを含む人間の生活環境を劇的に変容させていくさまを描いたサイバーパンクにしても、それは知的ファッションといってもよい一過性の流行に終わった。ところが、21世紀に入ってからの小説には、主流文学にもジャンル小説にも、たしかにそういう境界がはっきり無化されたような作品が、そしてその読者が、とくに何らかの文学的な主張なり理論なりを背景にすることなく、ごく自然なかたちで現れてきているのだ。おそらく、これまで文学的な前衛だったり、思考実験でしかありえなかったようなシチュエーションが、どんどん現実化・日常化し、いまやすぐ目の前にある、人間の生活風景そのものになっている時代に到達し、リアリティーの質がはっきり変容してしまったということなのである。
 ラファティやバーセルミにあった「難解さ」が、ヴクサヴィッチの作品にほとんど見られないのは、そのような時代状況が深く関わっているのに違いない。現代社会を生きる人間にとって、毎日の生活そのものがほとんどグロテスクな不可思議さに満ち満ちたものなのであり、そして良くも悪くも、そのような世界にあっても、人は同じような喜怒哀楽を抱えて生きているのである。
 最後に作者の経歴を短く紹介しておこう。
 原著版元公式サイト(http://smallbeerpress.com/books/2001/07/01/meet-me-in-the-moon-room/)の著者情報によると、レイ・ヴクサヴィッチは1946年ニューメキシコ州のカールスバッドに生まれた(ルーディ・ラッカーやロバート・アスプリンと同年)。いくつかの大学の脳科学研究所で助手として勤務するかたわら、SF系の文芸誌に作品を発表し、現在は専業作家としてフルタイムで執筆に励んでいるとのことである。
 スリップストリーム系のファンタジー作家として知られるケリー・リンクが夫とともに経営する出版社Small Beer Pressから上梓された本書が、2001年度のフィリップ・K・ディック賞最終候補となったのに続いて、2004年には中編小説"The Wages of Syntax"がネビュラ賞ノヴェレット部門の最終候補に選ばれるなど、その作品は近年高い評価を受けている。著作には本書の他、2000年の長編小説The Man of Maybe Half-a-Dozen Faces(St. Martin's Minotaur刊)と、2010年の作品集Boarding Instructions(Fairwood Press刊)がある。個人名義のウェブサイトのURLはhttp://www.rayvuk.com、ツィッターアカウントは@rayvuk。
 SFファンはもちろん、一般の小説読者にも、奇想天外な驚き、ほろ苦い切なさ、ゾッとするような戦慄をたっぷり味わわせてくれる本書を心ゆくまで堪能していただきたい。

(2014年7月5日)


■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。



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