Science Fiction

2017.03.15

若島正/ウィル・ワイルズ『時間のないホテル』(茂木健 訳)解説(全文)

若島正 tadashi WAKASHIMA


 本書『時間のないホテル』は、ロンドン在住の新進作家ウィル・ワイルズが、デビュー作Care of Wooden Floors(二〇一二年)に次いで発表した、第二作The Way Inn(二〇一四年)の全訳である。現在のところ、ウィル・ワイルズが出した長篇小説はこの二冊だけであり、よく知られた作家だとは言えず、ウィキペディアの項目にも見あたらない。従って、彼についての情報もさほど多くはなく、たとえば生年などのデータも正確なところはわからない。ただし、第一作のCare of Wooden Floorsが、三十五歳以下の作家のデビュー作に対して与えられるベティ・トラスク賞を受賞しているところから、現時点で四十歳以下だという計算はできる。いずれにせよ、少しずつ名前の出てきた、注目に値する新進英国作家だという理解でいいだろう。

 ウィル・ワイルズは、小説を書く前、建築やデザインを主な関心領域とするノンフィクション・ライターをしていた。彼の活動の拠点は、ロンドンで発行されている建築・デザインの月刊誌『アイコン』https://www.iconeye.com/)で、かつては副編集長を務めながら、数々の記事を書いた。建築とデザインから出発して、ノンフィクション・ライターとしてのウィル・ワイルズの関心は現代のカルチャー全般に広がっており、ギルバート・アデア亡き後のイギリスにあって、該博な知識を持った文化批評家としての位置を徐々に獲得しているように見える。おそらく、その面での彼の真価が明らかになるのは、エッセイ集が出版されるときだろうが、残念ながらまだそのときは来ていない。それまでは、彼のブログ(http://willwiles.blogspot.jp/)を読んでいることにしよう。

 そもそも、わたしがウィル・ワイルズの名前を知ったきっかけは、『魔法』『奇術師』といった独創的な幻想小説で我が国でもおなじみのクリストファー・プリーストが、ブログで本書『時間のないホテル』を絶賛しているのを読んだからだ。現代SFのみならず、現代英国小説に対しても辛口の批評を書き、とりわけイアン・マキューアンの『贖罪』における盗作まがいの手口を激しく攻撃し、ブッカー賞受賞作であるジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』についても「能力はあるのにこれまで一度もまともな小説を書いたことがない」と手厳しいプリーストが、『時間のないホテル』については「これぞバラード以降の世界のヴィジョンというべきものを初めて実現させた小説」と手放しで褒めちぎっているのだから、ぜひ読まなくてはと思ったわけだ。そして、その期待は裏切られなかった。「成熟して、腕達者で、すばらしく独創的な才能の持ち主」だというプリーストの評価を、わたしも確認したのだった。

 作者自身も、本作のことを「J・G・バラードが書き直した『シャイニング』」と言い表しているように、プリーストの指摘どおり、わたしたちが本作からまず想起するのはバラードである。そして実際に、ウィル・ワイルズもバラードから多大な影響を受けたことを認めている。二〇〇九年、バラードが亡くなった直後に、ウィル・ワイルズは『アイコン』誌でバラードの追悼記事を書いた。その記事の中で『残虐行為展覧会』に始まって『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』『ハイ・ライズ』、さらには晩年の作品群へと至るバラード作品の流れを建築批評という切り口で概観しつつ、そういった作品群が一見すると現代の都市空間に対する痛烈な批判のように見えながら、実はバラードは現代建築を愛していたのだとウィル・ワイルズは論じる。バラードのお気に入りの建築は、ヒースロー空港のヒルトン・ホテルだった。空港やホテルといった、場所ならざる場所、人間が個性を失ってただ旅行客や宿泊客といった無名の存在になり、それと照応するように建物も没個性を際立たせるような場所こそが、今ここにある世界を特徴的なかたちで映し出し、さらには未来の都市空間を望見させるものになる。ウィル・ワイルズがバラードに寄せる関心の最も大きな部分はそこであり、今書いたことが『時間のないホテル』にもエコーとしてはっきりと読み取れるのは、本書をお読みになられた読者の方ならすでにお気づきのことだろう。

 もう一点指摘しておきたいのは、『時間のないホテル』に見られるホラー小説あるいはゴシック小説の側面だ(ウィル・ワイルズはホラー小説にも造詣が深く、ラヴクラフトの愛読者でもある)。ゴシック小説の流れを簡単にたどってみれば、その先駆であるウォルポールのオトラント城から、ポオのアッシャー家を経て、デュ・モーリアの『レベッカ』におけるマンダレー、さらにモダン・ホラーではキングの『シャイニング』におけるオーバールック・ホテルといったように、ジャンルを規定するトポスとしての「館」はつねに日常から隔絶された特異な閉所空間として描かれてきた。今もし、『時間のないホテル』をこの系譜の中に置いてみれば、その独創性がわかるだろう。すなわち、この小説の中心となるウェイ・インというホテルは、ゴシック的な館であり一種の迷宮でもあるという性格を持ちながらも、日常と切り離された特異な非現実の世界では決してなく、世界中に展開されているホテル・チェーンの一環であり、きわめて没個性的な場所なのである。その意味で、ウェイ・インは閉じていながらも開いている。そこが怖い。ラヴクラフトは自分の作品をコズミック・ホラーと称していたが、その伝で行くと、本書はバラード以降の時代にふさわしいグローバル・ホラーと呼べるのではないか。

wiles.jpg  ウィル・ワイルズの小説では、主人公がある建物に入り、その建物の中で奇怪な体験をして、小説の最後でようやくそこから出ていく。わたしが持っている『時間のないホテル』の原書のハードカヴァー版は、表紙に219号室のドアと、そこに映し出された男の影が描かれている。ちょうど読者も、その表紙というドアを開けて、この小説の世界に閉じ込められ、読み終わるときにようやくそこから出ていく。つまり、ウィル・ワイルズの小説は読者にとって一種の建物なのだ。このように、小説家としてのウィル・ワイルズが持つ大きな関心は、小説の中に描かれる建物にある。ロンドンにある建築協会は、十九世紀に創立された建築専門学校を持っていて、その夜間学校にあるブッククラブにウィル・ワイルズもしばしば招かれ、読書会の担当をした。そのときに、「悪意のあるインテリア」というテーマの下で、彼が選んだテキストは、彼自身の作品を別にすれば、シャーロット・パーキンス・ギルマンの「黄色い壁紙」や、ラヴクラフトの「魔女の家の夢」、ウィリアム・ベックフォードの『ヴァテック』、そしてバラードの「未確認宇宙ステーションに関する報告書」だったという。なるほど、と思わされるセレクションだ。

 ここで、ウィル・ワイルズのデビュー作Care of Wooden Floors についても少し触れておこう。この作品は、小説の内容とは別のところで出版界のちょっとした話題になった。アマゾンが出版業にも手を出してアマゾン・パブリッシングを設立し、その刊行リスト第一号を出したのが二〇一二年の秋のこと。そのリストの中に、Care of Wooden Floors が入っていたのである。アマゾンに敵意を持つリアル書店は、最大手のバーンズ・アンド・ノーブルをはじめとして、この本を店頭に置くことを拒否した。この事件がどう収束したのかは知らないが、ウィル・ワイルズの語るところによれば、アメリカでCare of Wooden Floors が発売されたその同じ週に、初めての子供が生まれた。そうして慣れない育児とアマゾン主導の宣伝活動に追われていたら、アマゾンから感謝の品として送られてきたのは、通例の書籍ではなく、なんとおむつのパックであったという。

 Care of Wooden Floors(「フローリングの手入れ」)という、およそ小説とは思えない奇妙なタイトルがついているこの作品は、たしかにそのタイトルどおりに、フローリングの手入れの話である。主人公でもある語り手(名前が与えられていない)は、大学時代の友人であり、現在はミニマル・ミュージックの作曲家として知られるオスカーから、家を離れているあいだの管理を任されて、東欧のある都市にやってくる。二匹の猫(「ショッシー」と「ストラヴィー」!)にをやればいいだけだと高をくくっていた語り手は、家の中のあちこちに発見される、完璧主義者のオスカーが残したメモに書かれている細かな指示を見て、まるで自分の行動が予測され、監視されているような気分になる。そうして、フローリングの手入れですら、悪夢のような事態を引き起こす。

 こう書けばおわかりのとおり、これもやはり家の話であり、いかにも英国小説らしいコミック・ノヴェルである。ここでは、きちんとした生活をするために欠かせないのは家を綺麗にすることだという、人間が家に対して抱いている観念が風刺の対象になっている。オスカーの言葉を引用すれば、「部屋はただの部屋じゃない。部屋はある心的状態の表れであり、知性の産物なんだ。意識するにせよ、しないにせよ。部屋を作るのは我々であり、その逆に我々を作るのは部屋なのさ」。ウィル・ワイルズ本人の話では、彼の仕事部屋は散らかっているそうであり、同じ病を抱えているわたしとしては大いに安心させられる。このコミックでありかつ少し怖い第一作も、邦訳の出版を待ちたい。


■若島正(わかしま・ただし)
1952年生。京都大学卒業。英文学者、翻訳家。チェス・プロブレム、詰将棋にも造詣が深い。2002年、『乱視読者の帰還』で本格ミステリ大賞評論部門受賞。03年、『乱視読者の英米短篇講義』で読売文学賞随筆・紀行賞受賞。訳書にウラジミール・ナボコフ『ディフェンス』『ロリータ』『ナボコフ全短篇』(共訳)『透明な対象』(共訳)『記憶よ、語れ 自伝再訪』、リチャード・パワーズ 『ガラテイア2.2』、フレッド・ウェイツキン 『ボビー・フィッシャーを探して』ほか多数。



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