Science Fiction

2017.01.06

連載エッセイ 高島雄哉 『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』 第20回(1/2)

 ――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』
第20回 言葉で美を分析すること――東京藝術大学 美学研究室より

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA(写真=著者/カット=meta-a)

●これまでの高島雄哉「想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして」を読む 【第1回】 【第2回】【第3回】【第4回】【第5回】【第6回】【第7回】【第8回】【第9回】【第10回】【第11回】【第12回】【第13回】【第14回】【第15回】【第16回】【第17回】【第18回】【第19回

 言語や論理、そして現代自然科学の知見をも使って概念の定義や命題の論理的構造を〈分析〉していく哲学を〈分析哲学〉という。分析哲学の関心は〈明晰化〉にあり、それは主に言語による〈論述〉を通じて行われる。二十世紀前半から英米で主流になった哲学で、今では世界的に哲学の教育や研究の基本的なスタンスのひとつになっている。
 分析哲学が隆盛したきっかけとなったのは、十九世紀末からの〈言語論的転回 linguistic turn〉と呼ばれる、人文科学全体における大きな変化だ。世界を分析しようとするとき、ぼくたちは否が応でも言語を使わざるをえない。ならばまず言語について考えるべきだ、という発想だ。言語上の混乱を整理し、無意味な問いを排除することで、哲学が〈明晰化〉される。
 今回は東京藝術大学で美学、特にゲームの美学を研究している松永伸司くんにインタビューした。彼とぼくは十年ほど前、同じ美術学部芸術学科の学部生だった。ぼくのほうが一学年先輩で、当時から松永くんと呼ばせてもらっている。
 松永くんとぼくの共通の恩師である松尾大(まつお・ひろし)先生は、美学における古典中の古典であるバウムガルデン『美学』を学生時代に翻訳した。アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンは十八世紀ドイツの哲学者で、『美学』はラテン語で書かれている。松尾先生はラテン語から直接訳したのだ。
 松尾先生による美学演習では――現代美学の英語論文を分担して読み解いていく形式だが――曖昧な理解をしていると即座に見抜かれてしまう。そうした訓練が今のぼくの文章づくりにも生かされているといいのだけれど。
 先日ひさしぶりに松尾先生に挨拶にうかがい、文章を書いていることやアニメのSF考証をしていることなどを話した。先生の趣味のひとつはアニメ鑑賞だ。『ゼーガペイン』をリアルタイムで見ておられて、ぼくが昨年の劇場映画版にスタッフとして参加したと近況報告すると喜んでくれて激励もしてくれた。
 松永くんは芸大の大学院に進んで博士号を取得し、日本学術振興会の特別研究員や立命館大学の客員研究員を経て、今は芸大の美学研究室の助手をしている、新進気鋭の研究者だ。2016年もイェスパー・ユール『ハーフリアル―虚実のあいだのビデオゲーム』を翻訳出版している。松尾先生によると、四十年弱の指導のなかでも松永くんは三本の指に入る優秀な教え子なのだという。
 先ほどから使っている「美学」という語によって名指しされる学問領域は非常に広い。たとえばバウムガルデンは『美学』において、「美学は感性的認識の学である」「美学の目的は、感性的認識のそれとしての完全性である。然るにこの完全性とは美である」と述べ、〈醜〉を感性的認識の不完全性として「避けなければならない」ものとする。
 しかし現代の美学では――現代アートを〈感性〉や〈美〉だけで語ることは不可能だから――〈知性〉や〈醜〉も扱う。
 そして「アートとは何か」という問いに答えることは、言語的分析の典型例といえるだろう。それはアートの〈定義〉を問うことであり、〈定義〉とは言語によって書きくだされるものだからだ。
 松永くんはゲームと共に服装としてのファッションについても研究していて、論文「なにがおしゃれなのか―ファッションの日常美学」(『vanitas004: ファッションの批評誌』所収.アダチプレス.2015)では、「おしゃれ」という言葉が日常的に話されている状況を分析することで、「その概念が使われているときに実際に評価されているものを詳細に記述する」ことが目論まれている。
 前述した分析哲学と同様に、様々なアプローチで言語的分析を進めていく美学を〈分析美学〉という。松永くんは〈分析美学〉を主たる手法として〈ゲーム〉を研究しているというわけだ。
 彼が訳した『ハーフリアル』はビデオゲームを主題にしていて、序においてビデオゲームが次のように定義されている。

コンピュータの能力を使ってプレイされるゲーム――つまり、そのルールをコンピュータが維持し、かつ、ビデオモニタを使ってプレイされるゲーム(ユール『ハーフリアル』より)


 分析哲学や分析美学は――かつての哲学で見受けられた「超越論的自我」「世界の世界性」のような一見不可解な記述と違って――〈明晰さ〉を追求するため、その論述は理解しやすいものになっている。ややもすると拍子抜けする人もいるかもしれない。しかし実際に「ビデオゲーム」を定義しようとすれば、ユールの定義の見事さがただちに理解できる。過不足なく、ぼくたちの考える「ビデオゲーム」の範囲を抑えている。 「ある概念をうまく説明できるというのは分析哲学者の専門性のひとつだと思います」
 松永くんはゲームを〈行為〉から説明する。確かにゲームはプレイするものだ。他者のゲームプレイを見ることはあるが、カードやサイコロ、ゲーム機をただ眺めることは――それ自体の美的価値はあるにしても――ほとんどない。ゲームの本質は〈行為〉にあるのだ。
 彼は2014年に書いた論文で、ゲームを以下のように定義している。

ゲームとは、自己目的的かつ美的な(センスを要求する)行為を作り出す(よう意図されている) 事物である。(松永「行為のデザインとしてのゲーム」より)


 彼がいう「美的な(センスを要求する)行為」とは、繊細な判断力(センス)が必要とされる行為のことだ。瞬間的な決断をくり返さなければならないゲームにしろ、長時間の思考を要するゲームにしろ、判断力は必要にちがいない。
 分析美学は〈明晰さ〉を目指して、概念を――定義や使用例を考察することで――精緻に〈論述〉していく。そのため「確かにそうだね」くらいに思えるような分析結果にしか見えなくなることもある。
 それはそれで分析美学に対する正しい感想であるようにも思うのだけれど、〈論述〉がただのトートロジーでない以上、そこには新しい知見が含まれている。特に松永くんによるゲームの分析は、ゲームにとってゲームプレイが重要であり、それは美的なセンスを必要とする行為であることを指摘したもので、ゲームを開発する上でも大いに参考になるだろう。〈明晰化〉は単純化ではない。隠されていたことを明らかにする〈論述〉は、〈分析の想像力〉と言っていいものだ。

photo.jpg
(2017年1月6日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。2016年10月劇場公開の『ゼーガペインADP』のSF設定考証を担当(『ゼーガペイン』公式ページはhttp://www.zegapain.net)。





ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!
バックナンバー