Science Fiction

2016.07.05

連載エッセイ 高島雄哉 『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』 第16回(1/2)

 ――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』
第16回 サイボーグ化する世界で――実践編【後編】

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA(写真=著者/カット=meta-a)

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 ヴァルター・ベンヤミンは1936年に論文「複製技術時代の芸術作品」を発表した。彼は――四年後にはナチスドイツに追われて48歳で自死することになるのだけれど――その論文において写真や映画などの当時最新の芸術を念頭に、絵画や彫刻といったそれまでの芸術が持っていた〈アウラ〉が失われたことを指摘した。〈アウラ〉とは、ベンヤミンの定義によれば「どんなに近くにあっても遥かな、一回限りの現象」であり、つまりは〈近寄りがたさ〉〈触れがたさ〉のことだ。確かに映画は――どんなに「芸術的」であっても――気軽に見るものだろう。そのように新しい態度で新しい芸術に触れることが先端技術に慣れるための知的な〈練習〉になると彼は主張したのだった。
 そして今ぼくたちは「複製技術時代」の1936年から八十年後――あるいはクローン羊のドリーが生まれた1996年から二十年後――VR(仮想現実Virtual Reality)元年とも呼ばれる2016年にいる。毎日のように――いや、正確に言って毎日――VRやAR(拡張現実Argumented Reality)やAIに関連する新技術が発表されている。ぼくたちはこうした技術に慣れるために、どんな〈練習〉をするべきなのだろうか。
 ぼくはサイボーグ哲学を研究している早稲田大学の高橋透(たかはし・とおる)教授を訪ねた。VRはぼくたちの現実のかたちを、AIはぼくたちの知能のありかたを大きく変えるものであり、それはつまり、ぼくたちが既にサイボーグになりつつあるということではないかと思っていたからだ。
 サイボーグはサイバネティクス(CYBanetics)と有機的な生命体(ORGanism)を合わせた言葉だ。サイバネティクスとは、現代では情報工学と呼ばれるはずの学際的な構想で、数学者ノーバート・ウィーナーが第二次大戦後に提唱した。その後、医学研究者マンフレッド・クラインズとネイサン・クラインは1960年の論文「サイボーグと宇宙」“cyborgs and space”でサイボーグという言葉を初めて提示した。タイトルにあるように、彼らはサイボーグ化を――人体の部分的〈補綴(ほてつ)〉という意味を超えて――宇宙に進出するために必須な人体の〈拡張〉として考えたのだった。
 人体のサイボーグ化は――彼らが考えたはずの医学や生物学系の技術の発展を待たずして――VRやAIの方面から達成されつつあると言えるだろう。しかもVRは世界を丸ごと、AIは知性そのものを、より根源的に〈拡張〉しようとしている。人体の大部分を補綴以上に機械的に〈拡張〉するような、これまで考えられていたようなサイボーグ化も始まるかもしれないが、VRやAIの導入に比べると、遥かに激しく人間側が抵抗するはずだ。
 進化を続けるAIやロボットに仕事を奪われるかもしれないという危惧も、そのような人間的な抵抗のひとつだろう。ただ、人間のサイボーグ化が進めば、人間的な諸条件は大きく変わる。高橋先生によると、脳科学の発展によって快感が数値的に取り出せるようになれば、貨幣のような媒介の交換ではなく、快感そのものとして有用な情報を交換し合う〈サイボーグ経済〉が実現するかもしれないという。そのようなサイボーグ的世界においては、古来からの人間的な課題も――気にかける主体である人間がいなくなることで――解決されることなく消失してしまう。
 こうした世界全体の書き換えを〈世界のサイボーグ化〉と呼んでみたい。
 VR元年と言われる今年、そして〈世界のサイボーグ化〉元年もそれほど遠くはないであろう今、ぼくたちはベンヤミン流の〈練習〉を始めるべきだろう。
 ただ、ぼくたちにできるのはあくまでも〈練習〉であって〈予習〉ではない。予習をするためにはあらかじめ何が必要となるかを知らなければならないが、ぼくたちはそれを知り得ないからだ。その上ぼくたち自身もサイボーグ化されるのだから、そのときのぼくたちが何を必要とするかなんて、なおさらわかるはずがない。
 高橋先生によれば、機械と生体の隔たりを越えようとするサイボーグは、その本性として理解しきれない〈表象不可能〉な存在なのだという。こうしたサイボーグの捉え方は、ニーチェ以降の現代哲学の基本的な態度にも繋がっている。――森羅万象には固定的な本質などはなく常に移ろいゆく。
 だからサイボーグは極めて哲学的な存在なのだ。異なる領域へ〈越境〉し、結果として〈境界の喪失〉をもたらす。〈世界のサイボーグ化〉は単に技術的な変化ではなく、同時に〈世界の哲学化〉でもあるのだ。ぼくたちは自然科学への理解と共に、哲学的な感受性を身につけなければならない。
 しかし、〈サイボーグ化する世界〉に慣れるための哲学的な〈練習〉とはいかなるものなのだろうか。

 サイボーグの哲学を研究している高橋透先生は、学生時代に専攻していたドイツ文学から哲学へと――いわばサイボーグ的に――研究対象を拡張したのだが、先生の初めての哲学的あるいはサイボーグ的体験は、高校時代にフランツ・カフカ(1883―1924)の長編小説『城』を読んで、実存を揺さぶられるショックを受けたことだったという。ちなみにカフカはプラハ生まれのドイツ語作家だ。
 『城』の主人公である測量士Kは城に呼ばれ、なんとか中に入ろうとするのだが、電話に出た城の執事には拒絶されるし、城下町の人々からは城に関するぼんやりとした情報をいろいろと聞かされるのだけで、どうしても城内に入れない。読み進めるにつれ、この城はカフカが勤めていた半民半官の会社や官僚システムなどの寓意といったわかりやすい読解を超えて、不可解さそのものを表しているように思えてくる。
 哲学では、理解できないものを表現するときに〈他者〉という言葉を使う。〈他者〉は、自分たちの理屈に回収することができず、表現されることも想像されることも拒絶する、〈表象不可能性〉そのものみたいな存在のことだ。
 高橋先生は人間にとって究極の〈他者〉とは何かという問いを突き詰めて――イギリスのサイバネティクス研究者ケヴィン・ワーウィクや、アメリカのサイボーグ研究者ダナ・ハラウェイの研究に触れ――サイボーグの哲学に至った。
 なぜサイボーグが究極の〈他者〉なのか。それはサイボーグを支えている科学技術自体がその本性として未知を追い求め、変化し続けるものだからだ。科学は人間の知そのものでありながら、人間がその全貌を理解する前に、静止することなく姿を変えていく。
 最先端で用いられる数学や物理学がますます高度になって、技術の基礎原理を理解するだけでも大変だ――というようなこととはまったく別に、そもそも変化を続けるものの姿を見極めることはできない。
 そして科学技術が不可視である以上、そこから生み出されるサイボーグはなおさら見えにくく、不可解なものであるはずだ。
 将棋AIの思考はトップ棋士でも理解できない、というお話は、第4回で松本博文さんにうかがったことだった。
 将棋では、プロ棋士の思考がかなり繊細で難解なこともあって――勝負とはおよそ無関係な――棋士が食事やおやつで何を食べるのかを予想して楽しむファンも多いという(松本さんはそこに着目して現在「棋士とメシ」をweb連載している(https://cakes.mu/series/3691))。
 考えてみれば、別にぼくたちは愛する対象のすべてを理解しようとはしない。理解以外にも、その対象への近づき方はいくらでもある。不可解さはむしろ魅力だろう。
 高橋先生は不可解なものに対する哲学的なアプローチを二つ示された。
 ひとつのやり方は不可解さの構造を明らかにすることだ。語り得ないものは――文字通り――語り得ない。しかし語り得ない理由なら語ることができるかもしれない。数学や物理学でもよくとられる方法であり、科学的なアプローチと言える。
 もうひとつの方策はカフカのように――あるいは測量士Kのように――不可解なものの周囲を巡り、その様子を記述することだと先生は語る。「棋士とメシ」はこちらの手法だ。そうすることで不可解さの輪郭のようなものを描き得るかもしれない。こちらは文学的なアプローチだ。
 この二つのアプローチから、〈サイボーグ化する世界〉に慣れるための哲学的〈練習〉は始められるべきだろう。

photo_A.jpg 芸術の一形態たるSFは、数ある芸術の中でも特に、同時代の最先端技術を意識するものだ。またJ・G・バラードやアンナ・カヴァンはカフカ的と呼ばれる。不可解さを描き出そうとするSFは少なくない。
 カフカの『城』から四十年後、そしてベンヤミンの「複製技術時代」から三十年後の1966年に発表されたバラードの『結晶世界』や、翌1967年のカヴァンの『氷』では、全世界が結晶や氷に覆われていくのだが、その理屈はほとんど書かれない。事態の全貌はよくわからないし、主人公たちは特に原因を探ろうともしない。バラードやカヴァンは、このようにして世界の不可解さに対して、ある種の輪郭を与えたのだった。
 1967年にはジャック・デリダの主著のひとつ『グラマトロジーについて』が刊行されている。デリダは〈表象不可能〉なものとしての〈他者〉を深く論じた一人で、ニーチェやハイデガーを研究されていた高橋先生が〈他者〉を思考し、サイボーグ哲学を始めるきっかけとなった哲学者だ。
 表題となっているグラマトロジーとは、まずは文字に関する科学的研究全般のことを指すが、デリダは言葉そのものに隠された〈前提〉を暴き出そうとしてこの語を使っている。言葉の前提とは、絶対的な真理なるものが日常を超えたどこかにあって、それは言葉や論理――共にギリシャ語の「ロゴス」――によって把握することができるという発想であり、デリダはこれをロゴス中心主義と呼んで批判したのだった。
 もちろん言葉を使うときは何かを表現しようとしているはずで、ぼくたちは程度の差こそあれロゴス中心主義者になっている。言いたかった意味内容と、言ってしまった表現内容とのあいだに差異があると感じるとすれば、それは日常の向こうの絶対的な真理をそもそも想定しているという点でロゴス中心主義的と言えるだろう。
 とはいえ人は言葉を使わないわけにもいかない。これは人間的な限界なのだ。
 そしてデリダが批判したのは、言葉の使用そのものではなく、言葉を使うときに入り込んでいる〈前提〉だった。つまり、どこかに絶対的な真理があって、それは言葉にすることができるという、二つの希望的観測のことだ。
 そして今ぼくは哲学的に反省している。
 これまでしばしば〈越境〉という言葉を使ってきたが、それは越境した先の世界を前提とした言い方だった。もちろんあらゆる分野は厳然と存在しているのだとは思う。だが哲学的に突き詰めて言えば、それはあくまでもぼくが想定しているものというに過ぎない。どのような領域が広がっているのか、そもそも広がりとしての領域が存在するのかといったことは、本来わかるはずがない。
 ぼくがこれまで〈越境〉というレッテルを貼っていた行為は、〈他者〉と出会うための行為ではあるはずだ。しかし〈他者〉のことはわからない。それでもなお、そのような出会いによって、少なくともぼくたちは変わり得るだろう。〈越境〉とは、自らを書き換えることだったのだ。
 サイボーグについても、画定されたいくつかの領域が融合するから本性が変わり続けるというよりは、〈他者〉に出会うことによって新たな自己を〈創出〉していくのだと考えられるだろう。
 次々と現れる新しい技術に慣れるために、ベンヤミンは知的〈練習〉をするべきだと主張した。彼の時代の〈練習〉は複製技術による新しい芸術である映画を見ることだった。しかもそれまでの芸術には〈礼拝〉的に接していたのとは対照的に、映画や写真には〈遊戯〉的に気軽に見ること――だったわけだけれど、今のぼくたちにとっての〈練習〉は、VRやAIに関する技術によって行われるはずだ。しかしVRやAIについて学ぶだけでは、慣れることには繋がらない。
 VRやAIが現実そのものを新たに〈創出〉する以上、それらの技術を使って何らかの新しさを創出していかなければ、この先にある〈サイボーグ化する世界〉に慣れるための〈練習〉にはならないのだ。新しさはこのエッセイの主たる目的でもあるのだけれど、しかし一体どのような方向に進むべきなのだろうか。サイボーグ化が進む世界における〈迷子〉になったような気がしつつ、ぼくはさらに先生にお話をうかがった。

(2016年7月5日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。2016年10月劇場公開の『ゼーガペインADP』のSF設定考証を担当(『ゼーガペイン』公式ページはhttp://www.zegapain.net)。





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