Science Fiction

2015.12.07

連載エッセイ 高島雄哉 『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』 第9回(1/2)

 ――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』
第9回 結び目としての世界と想像しないこと――坐禅の現場から【後編】

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA(写真=駒場寮同窓会(http://www.komaryo.org)、著者/カット=meta-a)

●これまでの高島雄哉「想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして」を読む 【第1回】 【第2回】【第3回】【第4回】【第5回】【第6回】【第7回】【第8回

 若き僧侶として活躍中の小池龍之介くんは、東京大学の駒場寮でぼくの同室者だった。

9_1komaba.jpg  三年になって寮を出てからも小説を合作したり映画を見に行ったりと親しくしていたのだけれど、ぼくは東大卒業後に東京芸術大学に入り、同じころ小池くんも坐禅を本格的に始め、二人とも忙しくなって、だんだんと疎遠になってしまった。
 最後に会ってから十年後の五月、第四回でお世話になった将棋記者の松本博文さんに声をかけていただいて、小池くんが自分の寺で開催している座禅の会に参加した。松本さんはぼくや小池くんにとって駒場寮の先輩で、最近『東大駒場寮物語』を書かれている。

9_2rouka.jpg  この日をきっかけに小池くんと連絡を取り合うようになった。坐禅の翌週かかってきた電話でこの連載のことを話すと、
「仏教は想像をしないからパルタージュはできないかも」
 と彼は言った。
 ぼくはその真意を訊くために――単に彼に久しぶりに会いたかったほうが大きいけれど――再び鎌倉の月読寺(つくよみじ)を訪れたのだった。
 盆明けの八月の午後三時半、平日の江ノ島電鉄稲村ヶ崎駅のホームに降りたのはぼくだけだった。自動改札を抜けて、三ヶ月前と同じ急坂を登る。晴れてはいるが、海からの風が涼やかだ。

9_3inamuragasaki.jpg  小池くんとぼくはすぐに、駒場寮にいた十五年前と同じように、互いに饒舌に語り出した。
 諸行無常の世でも変わらない友情――と言いたいところだが、いつか再び疎遠になることもあるだろう。そしてまた何かのきっかけで話すことがあって、いずれはぼくも彼も死に、会話は永遠に終わる。
 それはそれで何の問題もない。『荘子』に〈君子の交わり淡きこと水のごとし〉の一節もある。と書いてはいるものの、様々な愛しいものが――おそらくはすべてが――いつか失われてしまうことは、いくら小池くんに〈諸行無常〉は〈事実〉なのだから受け入れましょうと言われても、悲しいことだ。
 だが、この悲しみが感傷的な〈煩悩〉の一つであることは、小池くんに教えられずとも理解できる。
 煩悩と言えば、駒場寮の誰かの部屋で見たんだと思うけれど、ある日本製のアダルトビデオのオチを思い出すと今でも笑ってしまう(昨今問題化している、強制による出演などが決して許されないことであるのは当然として)。その種のビデオの多くは、性的な場面だけで構成されているわけではない。ドラマ仕立てのものもあれば――恋愛ものが多い気がするがSFっぽいものもあって――ドキュメンタリ風に撮影風景をそのまま切り取ったものもある。ぼくが覚えているのは、後者のものだ。男優が裸で待機しているところに、薄物をまとった女優が登場し、互いに挨拶をして、そろそろ始めようかとなり、ことが終わる。息を切らしてベッドに倒れ込んだ男優が急に立ち上がって「こんな煩悩にまみれていては駄目だ。きみもこれを読むんだ」と言って、手塚治虫の傑作漫画『ブッダ』を女優に手渡す。ビデオはそこで唐突に終わる。
 あの男優がその後どうなったのかは、名前も作品名も覚えておらず、よくわからない。おそらくしばらくはあの仕事を続けたのだろうが、少なくとも彼はあのとき〈煩悩〉に――あるいは悲しみに――支配された生活から抜け出したいと、本当に思っていたんじゃないだろうか。もちろんどんな仕事だろうと〈煩悩〉からは逃れられないだろうけれど。
 座禅では、少なくとも初心者の段階では、あらゆる〈煩悩〉を消し去ろうとはしない。ただ、坂の上の静かな寺で足を組んで座り、小池くんの話を聞いていると、ある一つの〈煩悩〉に固執する状態からは解放されるような気はしてくる。
「今、ここ、ひと呼吸」
 小池くんは坐禅参加者がひとつの思念に執着しないように、つまりは〈想像〉に囚われないように、様々な言葉を投げかけていた。その中で印象的だったのが、この〈今、ここ、ひと呼吸〉だった。
 仏教において〈煩悩〉は人間の〈想像〉であり、〈今、ここ、ひと呼吸〉という〈身体性〉のなかに座ることで〈想像〉をしなくなって、いずれ〈煩悩〉は遠ざかっていく。  しかし出家して頭を丸めている小池くんと違い、俗世に生きるぼくとしては〈煩悩〉から逃れ切ることは不可能だし、〈想像〉をしないということもできそうにない。
 そもそも、どうして〈煩悩〉を退けなければならないのだろうか。〈煩悩〉は悲しみや苦しみを与えるだろうが、楽しみも与えるだろう。仏教では悲しみも喜びも、そして森羅万象も、すべては〈空〉であり幻なのだと考えるが、幻で大いに結構だとする俗世的な発想は、陳腐なくらい普通にある。
 この世が〈諸行無常〉なのは事実だとしていい。でも、それを認めた上でなお、〈想像〉することは可能だし、できることなら〈想像〉したいとぼくは思う。なぜ仏教は〈想像をしない〉のか。
 ぼくは坐禅をしながら、あるいは五月に彼と電話で話した後、どうしても考えてしまった疑問を、今回の訪問の最初に――おみやげの和菓子でお茶にしながら――小池くんに訊いた。坐禅の目的は何か、そして仏教の目的とは何なのか。〈想像〉をやめて、〈煩悩〉が消えた後に、一体何が起きるのか。
 彼の答えは明確だった。〈諸行無常の事実〉を確かなものとして感じ、最期のときにはブッダのように〈涅槃(ねはん)〉の境地に至るための坐禅であり仏教であるという。涅槃の語源はサンスクリット語の〈ニルヴァーナ〉だが、これは〈火を吹き消すこと〉という意味で、すなわち火が消えることのように〈死〉を捉えられる境地にいつかは至りたいのだと小池くんは言った。ここでの〈死〉とは、自らの死だけではないだろうし、生物的な死に留まるものでもないだろう。〈諸行無常〉という絶対的な〈死〉を受け入れるための坐禅であり、仏教だ。そして〈想像〉することと〈事実〉を受け入れることは相容れない、ということなのだ。

9_4tukuyomi.jpg  小松左京さんの一九七七年の短編「ゴルディアスの結び目」は、少女マリアに取り憑いた騒霊(ポルターガイスト)の正体を巡る物語だ。「精神分析医の特殊化したもの」だという「サイコ・エクスプローラー(探検家)」である主人公の伊藤は、砂漠の禿山の山頂に建てられた巨大な病院の院長であるクビチェック博士から依頼を受けて、マリアの心の中に潜入する。
 少しずつ、マリアが恋人に心身ともに深く傷つけられ、これ以上なく絶望していることがわかってくる。
 タイトルの〈ゴルディアスの結び目〉はギリシア神話に由来する。古代フリュギアの王ゴルディアスは、自分がむすんだ結び目をほどくことができた者はアジアを支配すると言い遺したが、数百年後に遠征に来たアレクサンドロス大王はその結び目を剣によって両断したという。すなわち〈ゴルディアスの結び目〉とは、解きほぐせない難問のことであり、さらにアレクサンドロスの〈両断〉まで含めて、難問の〈思いがけない解決〉を意味することもある。
 そして、この短編内での〈結び目〉は、癒しがたいマリアの絶望や、その絶望が引き起こすポルターガイスト現象によって病室が物理的に凝縮した小さな球のことを指している。主人公の伊藤はマリアの〈結び目〉をほどくなり〈両断〉するなりしようとするのだが、はたして――という物語だ。
 実はクビチェック院長はマリアの恢復をまったく期待しておらず、伊藤にこの世には決してほどけない結び目があるのではないかと言う。伊藤を呼んだのはマリアの治療のためではなく、騒霊現象の分析をさせるためだったのだ。なおも治療を続けようとする伊藤に対し、院長は伊藤が東アジア出身で仏教的な宇宙観を持っているがゆえに――絶望も何もかも、永遠に存在するわけではなく〈諸行無常〉だから――治療できると思うのだと語る。院長の言葉は、仏教の〈空〉を簡潔にまとめているので引用させてもらおう。

「釈迦の考えた涅槃(ニルヴァーナ)は……この宇宙の窮極的な到達点の一つのモデルとしては有効だろう。――宇宙間のすべてのエントロピーが最大になり、すべての“むすぼれ”がとけるか死ぬかして、均等に拡散してしまう……ボルツマンの“熱死”の状態だ。すべてはいずれ、“空”にかえる……。生命も善悪も、喜怒哀楽も、すべて“空”のむすぼれの連鎖にすぎない……。実体であり本質である“空”を見ず、その“むすぼれ”の方を実在と見あやまるから、そこに死ぬ事に対する苦悩や、現世に生きる事のさまざまな煩悩が生れる……。しかし、それらはすべて実体ではない。“空”こそが唯一の実在とわかれば、本来空なるものが“空”にかえる事も何ら苦しむに値しないと悟り、寂滅為楽(じゃくめついらく)の境地が達せられるだろう……」

 エントロピーという物理量は、物理学者ルドルフ・クラウジウスが一八九五年に確立し、その後ルドウィグ・ボルツマンが整備した概念で、〈乱雑さ〉を数値で表す。エントロピーが増えるほど無秩序に近づく。たとえば実験室で水素を燃やすと水とエネルギーが発生するが、同時に実験室全体のエントロピーも増加する。秩序を乱すことなしにエネルギーを取り出せないというのが、熱力学第二法則〈エントロピー増大の法則〉だ。これを宇宙全体に広げて考えると、どの領域でもエントロピーが最大になれば、もはやこの宇宙ではエネルギーを取り出せないことになる。これを“熱死”、宇宙の熱的死という(ぼくたちの宇宙が異なる宇宙に繋がっていれば、そちらとエントロピーのやりとりが可能で、この熱的死を避けられるのだけれど詳しくは別の機会に)。
 また“むすぼれ”すなわち〈結び目〉というのは、生命体や化学物質あるいは宇宙論的な巨視的構造体が持つ、物理的な〈秩序〉のことだ。生物は外部環境からエネルギーを得ることによって自らのエントロピーを下げ、体内の〈秩序〉を保っているのだ。
 しかしどのような〈秩序〉もエントロピーを完璧に除去することはできない。ぼくたちが煩悩から逃れ切ることができないのと似ている気もする。
 エントロピーが増えていくと〈秩序〉は崩壊し、最後には乱雑な〈空〉だけが残る、と言ってもいいだろう。エントロピーが増し続けることの必然性を示す〈エントロピー増大の法則〉は、〈諸行無常の事実〉の物理版の言い換えのようにも思えてくる。物理においても仏教においても、〈結び目〉はいずれ――自然に――ほどけてしまうのだ。
 ところがクビチェック院長は、〈結び目〉のまま残り続けるものとして「ブラックホール」を挙げる。
 ブラックホールは――院長も指摘するが――〈ホーキング輻射〉という、量子力学に基づく光を確率的に随時放出している。光はエネルギーであり、E=mc^2に従えばエネルギーは質量なので、周囲の天体などからエネルギーや物質が補給されない限りは、徐々にブラックホールは軽くなっていく。ただほとんどのブラックホールは巨大なので、〈ホーキング輻射〉によって小さくなって、蒸発してなくなってしまうまでには、長大な時間がかかる。太陽質量のブラックホールは、ブラックホールとしては小さいほうだが、それでも蒸発するまでに10^67(10の67乗)年と概算されている。現在の宇宙年齢は138億年、10^10(10の10乗)年と推定されているから、太陽質量ブラックホールの寿命とは五十七桁、10の57乗もの開きがある。多くのブラックホールは想像できないほど長いあいだ、宇宙の〈ゴルディアスの結び目〉であり続けるのだ。
 クビチェック院長は、科学的宇宙観と宗教的人生観のあいだに、物理的な照応関係があると考える。宇宙ないしは世界がいずれすべて無に帰すというなら、宇宙の一部である人間の傷もいずれ消えるはずだ。しかし、決して消えない構造が宇宙のどこかにあるのならば、人生にもほどけない〈結び目〉があるのではないか。宇宙と人間を同一視する思想であり、科学を自然現象のみならず人間の人生にも適用していく、比喩的な考え方だ。クビチェック院長以外にも、そのように考える人は少なくないような気もする。
 そしてクビチェック院長は、ブラックホールの例から――つまり反例として――仏教の言う〈諸行無常〉は誤りだと断じ、人生には解決できない難問があるとする。
 長く生きていれば解き難い問題のひとつやふたつはあるだろう。気づいていないだけでもっとあるかもしれない。時間的にも空間的にも長いものが絡まるのは必定で、DNAから宇宙の大規模構造まで、宇宙には様々な〈組み紐〉や〈結び目〉がある。万物の根源は素粒子ではなく〈ひも〉だとする超弦理論は、万物理論の最有力候補で、いま盛んに研究されている。
 世界のすべてはいつかほどけるのだろうか。〈諸行無常〉は物理学的に〈事実〉なのだろうか。
 まずブラックホールは、遥か未来で蒸発することを考えれば――解き難いにせよ――いずれは解ける〈結び目〉だろう。
 ブラックホールのような物理現象とは異なるレベル――物理定数はどうだろうか。物理〈定数〉という名称ではあるが、過去から未来まで永遠に定まった数だと考えるべき理論的根拠は特になく、実際に検証もされている。
 過去の物理定数は〈タイムマシン〉がなくとも測ることができる。遠方の天体を観測すればいい。光の速度は有限なので、遠方を見ることは過去を見ることに等しいからだ。遠ければ遠いほど過去の光を見ることになるため、なるべく遠方の天体が望ましいのだが、遠くなれば一般に地球まで届く光は弱くなって観測しにくくなる。ところが〈クエーサー〉という天体は遠方にあって、しかも非常に強い光を発している。
 そして天体の光を分析すると、その天体内の水素などが出す特徴的な光の波長を見つけることができる。そこから、たとえば微細構造定数という物理定数がわかる。この定数は電磁相互作用の強さを示すもので、物理学において最も基礎的で重要な定数の一つだ。もし電磁気力が今と違っていたなら、この世界の姿も今とは大きく異なっていたことになる。
 クエーサーの観測から得られる――過去の――微細構造定数を、地球上で測定される現在の微細構造定数と比較すれば、この定数が時間変化したかどうかを調べることができる。微細構造定数の他、重力定数についても検証が行われているが、今のところそれらの物理定数が時と共に変化したという観測結果は出ていない。
 様々な研究が進むにつれ、科学的宇宙観は留まることなく変わり続ける。超弦理論からは十次元の宇宙が、五種類存在する超弦理論を統合するM理論からは十一次元の宇宙が予言され、ぼくたちが暮らす四次元宇宙はそれらの高次元空間の中に浮かぶ〈膜(ブレーンbrane)〉だと考える〈ブレーン宇宙論〉や、ビッグバンを二枚の〈膜〉が衝突したからだとする〈エキピロティック宇宙論〉が提案されている。ブラックホールについても、高次元ではただの球体ではなく、環型の〈ブラックリング〉や二重環の〈ブラックダイリング〉、それから土星型の〈ブラックサターン〉などが理論的に計算されていて、〈ブラックオブジェクト〉と総称される。難問としての〈結び目〉もまた形を変え続けているのだ。




■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



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