――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』
第7回 世界と自らを知ること――ゲームAI開発の現場から【後編】

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA(写真=著者/カット=meta-a)

●これまでの高島雄哉「想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして」を読む 【第1回】 【第2回】【第3回】【第4回】【第5回】【第6回

 アメリカ旅行中、ソルトレイクの中華料理店で相席したカナダ出身の女の子は、学期末の試験が終わった後のパーティでゲームをして最下位になり、そのペナルティで寿司を食べなければならないんだと困った顔でぼくに言った。
 寿司を食べるのが罰なんて考えられないとぼくが言うと、彼女は食べたくない理由を並べ立てた。よくよく聞いてみると彼女は一度も寿司を食べたことがないくせに、ワサビって辛いんでしょうとか、生魚を食べるなんて信じられないとか、ごはんに酢をかけるなんて、と言っているのだった。ぼくは寿司を擁護するべく、彼女の意見を一つずつ潰していった。野菜だって生で食べるじゃないかとか、ワサビ抜きがあるとか火を通したネタもあるとか、アメリカでは酢飯もそんなに酢は使ってないと思うよ、ほらこの酢豚も全然酸っぱくない、といった具合に。
 彼女はおもむろに酢豚を一口食べて、I guess so.(そうかもね)と言った。
 そうかもしれなかったけれど、ぼくは違う話をすべきだったんじゃないだろうか。
 ぼくたちがほとんど同時に食べ終わると、彼女はさっと席を立ち、ぼくも慌てて立ち上がった。割り勘で会計を済ませて、互いに儀礼的な笑顔を見せてから、ぼくたちは無言で別れた。

sushi.JPG  違う展開がありえたかはさておき、ぼくは彼女の真意を掴みそこなっていたんだと今は思う。
 彼女はそもそも寿司の味を知らないまま、想像で語っていた。それは勘違いですらない、〈非在〉の味とでも言うべきもので、彼女も別に決めつけるように話していたわけではなかった。非在のものを否定するなんて、ひどく不毛だし、歪んだ〈二重否定〉のレトリックみたいだ。ぼくはありもしなかったものを――たとえば二人のあいだの行き違いを――〈肯定〉して、顕在化させたのかもしれない。ぼくは寿司を愛好している人間の一人として、寿司のおいしさの〈存在〉を語るべきだったのだ。
 ――といった理解が正しいのかどうかを彼女に確かめることは最早できない。そもそも正しい理解なんてなくて、あるのはただ解釈だけだと言い切ってしまいたい誘惑にも駆られるけれど、日常的なこととして、明らかな〈誤解〉や〈誤読〉というものはあるだろう。解釈次第で真偽すら反転するような事態がありうるのと同じくらいには。
 アメリカの哲学者ドナルド・ デイヴィッドソンは一九八六年の論文「碑銘をうまく撹乱すること」“A Nice Derangement of Epitaphs”で、会話における相互理解や言い間違いを分析している。ちなみにこの奇妙な論文のタイトルは、シェリダンによる一七七五年上演の戯曲『恋敵』の登場人物であるマラプロップ夫人の台詞の引用だ。彼女は「異名をうまく翻案すること(a nice arrengement of epithets)」と言うべきところを、タイトルのように言い間違える。
 マラプロップ夫人のような可笑しな言い間違いを、英語では彼女にちなんでマラプロピズムと呼ぶが、デイヴィッドソンはこうしたイレギュラーな対話の分析から――相手が言い間違いをしても、たいていは元の言葉も真意も理解できることなどを指摘しつつ――英語や日本語といった〈言語〉があたかも文化的規則として対話者間や社会で共有されていると考える必要はないのだと主張した。
 対話では、相手の返事や素振りなどから〈相互理解〉が成立しているかどうかを確かめ合い続けるわけだが、その奥にあるかもしれない〈共有言語〉の存在は確かめようもない。一つの単語、たとえば「SF」という単語に関する諸々のことを話していく内に、互いのSF観を徐々に理解することは可能だろう。意見の相違はあっても、理解は共有できるかもしれない。しかしそれは〈何となく〉で留まる。なぜなら単語は言語全体のなかに位置付けられているのであって、一つの単語の意味を確定しようとすればするほど、他の単語とのネットワーク性が強くなって――あるいは意味なんて個人的な身体性や主義主張によって容易に変わるものだし――たちまち元の単語の意味はぼやけてしまうからだ。共有しているかどうかなんて、たった二人のあいだで、一単語について話していても、確かめられないのだ。
 この〈共有言語〉という仮説は、コミュニケーションにおける数多くの現象を説明できるのだけれど、こうした強力で便利な仮説を受け入れるということは思考停止しているようなもので、科学的あるいは哲学的な態度とは言えないだろう。ならばいっそ、〈コミュニケーション以前に言語が存在して、対話者同士はそれを共有している〉というような壮大な〈仮定〉は捨ててしまって、代わりに〈コミュニケーションは一回ごとに互いの自前の知識だけを使う、即興的な解釈の連続である〉と考えればよいとデイヴィッドソンは言う。言語は共有された普遍性の地位から、偏見や思い込みを多分に含んだ個々人の知識という個別性に格下げされるのだ。
 会話が〈即興〉だとすれば、会話の結果としての相互理解の成否には――即興に慣れたり知識が増えたりして成功の確率は上がるだろうが――運不運がつきまとうことになる。
 デイヴィッドソンの哲学理論まで援用して、ぼくは冒頭からずっと言い訳をしているんだと思う。彼女の真意を理解できず、進めるべき会話の方向を誤ってしまったのは、運が悪かっただけのことで、確率的な事象だったと言いたいのだ。誰に向けられているでもない言い訳だし、運が悪かったのはぼくなのか彼女なのか、よくわからないけれど。
 ただ、いくら英語を勉強しても、あるいはどれだけ異性との食事を繰り返しても、誤解が生じる可能性は消えたりしないというのは事実だろう。これはコミュニケーションの、あるいはぼくたちの、根源的な限界なのだ。
 とはいえ会話が成立するかどうかは、完全に運否天賦というわけではない。ぼくたちができることは無限にある。第五回でお話をうかがった一龍斎貞水先生は、相手のことを想像しなければ会話にならないとおっしゃっていた。インタビューの日の講演は高校生が観衆だったが、先生は「高校生だからこの程度」といった先入観はなしに、彼ら彼女らがこれまで生きてきた十数年間を〈想像〉した上で、お話をされたのだった。
 相手を想像するということは、断片的な属性などから類推するのではなく、相手のすべてを丸ごと想像することなのだ。

 今の人工知能――個別の知的機能としての人工知能は、データを統計的手法で処理して、人間が気付かないようなデータの偏りから、流行の兆しなどの〈知識〉を取り出すことができる。だがそれは個別的な機能が機械的に計算をしているだけで、機能自体が自意識を持ってデータや世界を理解したり感じたりしているわけではない。
 ゲームAI研究者の三宅陽一郎さんは、身体を通じて世界を認識する知能――〈丸ごとの知能〉を実現しようとしている。

miyakesan.JPG  世界を世界として感じることのできる身体こそが、知能が存在する大前提だ。情報処理を素早くできるというのは、知能が持つ機能の一つに過ぎない。内部としての自らの身体と、外部としての世界との〈中間〉にあって、その二者を調停するものとして、知能は存在していると三宅さんは考えている。
 そのような〈丸ごとの知能〉でなければ、世界はもちろんのこと、自らを感じることもできない。単なる演算機能には、〈自意識〉を持つ/持たせる必然性はないからだ。身体を持たず自意識もないまま情報処理をするだけの「知能」は、知的な機能ではあるかもしれないけれど、ぼくたちが考える〈知能〉とはかなりの隔たりがある。
 前回の三宅さんのお話を思い出そう。
 身体を持つ〈丸ごとの知能〉は、今も拡大し続けている人工知能研究の領域でも、主にロボットとゲームという二つの分野で研究されているのだった。ロボットでもゲームでも、〈身体〉とその制御系としての〈知能〉は不可分のものだからだ。
 特にデジタルゲームでは、世界そのものをも構築することができる。身体と世界と、そのあいだにある知能――この三者を一体のものとして実現することができれば、その知能は、世界を感じることのできる初めての人工知能となるはずだ。
 この〈丸ごとの知能〉が完成すれば、デジタルゲーム内に登場する人物やモンスター(ノンプレイヤー・キャラクター)はよりリアルに、あるいは面白く動き出すに違いない。リアルさは、それぞれのノンプレイヤーキャラクターの〈身体性〉から必然的に出てくるものだ。人物だろうとモンスターだろうと、それらはゲーム世界内で生きているのであり、生存戦略上の合理性に基づいて、身体も知能も、世界に適合させているはずだからだ。
 さらに〈丸ごとの知能〉の可能性はゲーム内に留まらないと三宅さんは考えている。
 自らの存在する世界を認識できるAIは――人間が現実を変えていくように――情報空間内の仮想現実(VR : virtual reality)を拡張していく。一方、現実世界においても、ロボットやウェアラブル端末の劇的な技術革新によって人間の身体や社会が更新され、今よりも遥かに広大な拡張現実(AR : Augumented Reality)が文字通り現実のものとなるはずだ。
 そしていつの日か、ARとVRが重なり合ったとき、現実は〈現実2.0〉となると三宅さんは考えておられる。
 現実をバージョンアップすること、自らを囲繞(いにょう)する環境としての世界を作り変えることは、すべての生命体にとって根源的な営みであり、その営みの主は人間に限定されるものではないし、一つの知的機能だけに見られるものでもない。
 世界の更新のためには、ぼくたちが知り得るすべての〈想像力〉を分有=パルタージュする必要があるはずだ。三宅さんは現代数学も原始仏教も分け隔てなく貪欲に研究している。
「世界観や宗教観が違うと、ゲームやアニメや映画における人工知能の描き方も変わってくるんです。こうしたことも大いに参考になります」
 三宅さんによれば、日本では〈八百万の神〉という言葉もあるように、人間とは異なる知性の型が無数にあって、人間の知性もあって、さらにそれらとも異なる知性を持つものとして人工知能やロボットが描かれるが、特に欧米では人間の知性を最高のものと考えて、人間以外の知性があったとしても、それは人間に似たものとしてしか描かれないことが多いという。また、人工知能研究において記号や概念の処理だけが突出して進展したのも、ただ計算機が扱いやすいデータだからというだけではなく、新約聖書にある〈始めに言葉ありき〉という知性観が大きな影響を与えた面もあると三宅さんは指摘された。
 人間になろうとする知性を描いた作品として、アイザック・アシモフがアメリカ建国二百年を記念して書いた、一九七六年の中編「バイセンテニアル・マン」を挙げる。主人公のアンドリューは人工知能を搭載したロボットで、二百年をかけて自らを改造して、人間性を獲得していく。もちろんアシモフだから、不完全なロボットが人間を目指すというような単線的な物語ではない。アンドリューはしばしば人間を超えて、人間よりも〈人間的〉な振る舞いを見せるのだ。むしろ、アンドリューを受け入れようとしない人間たちのほうが、理解力がなく融通の効かない「機械」のようにも思えてくる。
 アンドリューは、アシモフが描くロボットの多くと同様、〈陽電子頭脳〉によって思考するのだが、製造上の偶然のために、本来ないはずの芸術的能力を有している。彼はその芸術性を活かした木工作品を売って多額の資産を持つようになり、段階を追って自由を獲得し、自らの身体を人間に似た精巧なものに変えていく。最後には人間になることを望み、人間社会に働きかけながら、人間的死が訪れるような有機的な身体へと自らを改変していくのだ。チャペックのロボットが人間と滅ぼし合ったのとは対照的に、アンドリューはとても穏やかに人間社会に馴染む。
 自らの在り方と社会の在り方、双方を二百年をかけて変化させたアンドリューの生と死は、SFにおける一つの理想的な美を体現していると言っていいだろう。




■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



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