Science Fiction

2015.09.04

連載エッセイ 高島雄哉 『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』 第6回(1/2)

 ――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』
第6回 世界と自らを知ること――ゲームAI開発の現場から【前編】

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA(写真=著者/カット=meta-a)

●これまでの高島雄哉「想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして」を読む 【第1回】 【第2回】【第3回】【第4回】【第5回

 瀬戸内海は本州と四国のあいだにあるものだと漠然と思っていたのだけれど、つい先日、大分県出身の友人と話していて、九州の北東部もまた瀬戸内海文化圏にあるという至極当然のことを教えられてしまった。もしやと思って調べてみると、大分県の日出町(ひじまち)にも回天の基地があったことがわかった。山口県の大津島、光市と平生町(ひらおちょう)にもあって、つまり瀬戸内海の西の、本州と四国と九州で囲まれた海域で〈特攻兵器〉回天の訓練は行われていたのだ。ちなみに前々回触れた大津島は、港から回天記念館までやトンネルから発射試験場までが、Googleストリートビューで見ることができる

 もう一度、海から考える。
 どこかで海の塩分濃度は一定だと聞いた気がするけれど――海は一つだみたいな論だったかもしれないが――濃度はどこも三パーセントほどだという程度の「一定」であって、雨量や海流などの地理的要因によって地域差はある。たとえば同じ太平洋であっても、日本よりアメリカ西海岸のほうが塩分濃度が低い。
 たぶん子供のときに学校の図書館かどこかで読んだのだろう。その頃はまだ世界中で研究者たちが地道に人海戦術で海水を採取し、あるいは観測用ブイも使われていたかもしれないが――それらは今も様々な深度の観測に有効な方法なのだけれど――海表面の塩分濃度など幾つかの海洋データについては、人工衛星による観測が二〇一一年から始まっている。塩分濃度の違いは電気伝導率の違いとなるから、海水による電磁波の反射や吸収の割合が変わる。この性質を応用すると、海表面のマイクロ波の測定値から塩分濃度の数値が求められるのだ。
 アメリカ西海岸から見た海を思い出そうとするけれど、記憶のなかの海はずっと遠くに退いてしまって、今はもう〈海〉という文字しか残っていないみたいだ。
 ぼくは物理学科の学部生だったとき半月ほどアメリカ西部を旅した。旅の前半は教官の荷物持ちとしてカルテク(Caltech,California Institute of Technology;カリフォルニア工科大学)やスタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校を巡った。研究室や実験施設の見学をし、いくつかの講義を受けて、その合間に少しは観光もしようということでゴールデンゲートブリッジの近くでシーフードパスタを食べるような慌ただしい旅程だった。旅の後半では教官と別れてラスベガスやシアトルに行ったのだけれど、それについてはまたいずれ書くこともあるだろう。
 そのときからぼくは何度か引っ越しをして、当時の講義ノートや写真はどこかにいってしまい、いま手元にあるのはカルテクの購買部で買ったトランプだけだ。火を両の手で持つ校章が裏面となっている。この図柄は神から火を盗み取ったプロメテウスの神話に基づくものだろう。神の火にも比せられる科学の可能性と危険性を引き受けようという、かなり直接的な表明だと思うけれど、ノーベル賞受賞者を多く輩出し続けているカルテクには似つかわしいのかもしれない。
card.jpg  西海岸の大学を回った後、飛行機か車かで東に向かい、ユタ州ソルトレイクシティにあるユタ大学を訪れた。そこが教官の最終目的地だったのだ。昼食をとりながらのミーティングをして、夜は塩湖のまわりに広がる砂漠に設置された天体観測施設を見に行くことになっていたのだが、砂漠の通行許可証がぼくの分だけ発行されていなかった。その砂漠には米軍基地があって、前もってパスポートのコピーを提出しなければならず、ぼくの分もちゃんと送ったが、書類ミスか人数制限に引っかかったのか、出発直前になってぼくひとり、教授たちを見送ることになったのだった。
 連日の研究施設巡りで(非常に貴重な機会を与えていただいて、その先生には今でも感謝しています)いささか食傷気味だったのか、予定のなくなってしまったぼくは少し高揚しながら、夕刻のソルトレイクシティの街に繰り出した。冬季オリンピックが近いということで、至る所に公式マスコットやロゴのポスターが貼ってあり、店も道路も改装工事が進んでいた。ただサンフランシスコなどではないから店はまばらで、日が暮れると多くの店が閉まってしまった。ユタ州はモルモン教徒の多く住む地域で、飲酒をしない人が多いという話を聞いた。宗教都市の側面もあるソルトレイクシティは、アルコール類の販売や提供をする店がそもそも少なかったのかもしれない。
 徒歩だったし、観光スポットも閉まっていると考えて、映画館に入ることにした。最近の日本では珍しい、千前後の座席数の大型映画館だった。入場料は五ドルくらいだっただろうか。かかっていた新作映画は残念ながらひどく退屈なもので、何度も眠りそうになってしまった。当然のように、客は片手で足りるほどしかいなかった。劇中、白い服を着た男が白い部屋でずっとぼやいていたような記憶が朧気にあるけれど、それ以外はタイトルすら思い出せない。日本では間違いなく上映されていないだろうしDVD化もされていないのではないだろうか。
 映画の評価ができる人工知能ができれば、上映前あるいは企画段階で、興行の成否を予測するために用いられるだろう。人工知能による人工知能のための映画も、いずれは撮られるようになるかもしれない。ぼくたちはそれを人間のままで楽しむことができるのだろうか。
 映画製作をする人工知能は、ストーリー構造や映像の美しさを計測できるはずだ。セリフや被写体といった映画内の〈特徴〉から〈意味〉を構築し、ある種の〈美的基準〉を常に参照しながら撮影を進めていくと思うけれど、問題となるのは〈美的基準〉だろう。人間によって与えられた判断基準とデータを照合するだけなら、それは知能ではなく、機能に近いものだろう。
 知能のどこまでが機能なのだろうか。知能はすべて機能に置き換えられるのだと割り切ることは可能だし、いっそ清々しいとも思うけれど。
 将棋ソフトの開発者のみなさんは、自らのソフトがほとんどの人間よりも強いと確信しつつも、自分たちが〈知能〉を作っている感覚はないと口を揃えておっしゃっていた。いま開催中の第1期叡王戦の予選でも、ソフトが優劣を数値で評価したり次の手を予想したりしており、知能というよりは極めて有効な機能を持ったツールとして扱われている印象だ。
 もう一度、第4回とは別の角度から――機能とは別のところから――知能あるいは人工知能について知りたいとぼくは思い始めている。

 ぼくたちが何かを知るという能力、この〈知能〉こそが不可知で不可解なものであるように、ぼくには思える。物理法則が人類の誰一人として理解できないほど難解であれば――そんな宇宙も多宇宙のどこかにあるだろう――世界に関して何ら知ることができないという事態にもなりそうだけれど、ぼくたちはささやかなりとも何かを知ることができる。あるいは、知っていると勘違いしているだけで、結局はソクラテスの言う〈無知の知〉に回収されてしまうだけなのかもしれないが、それでも勘違いの分だけ情報量は増えている気はする。
 須藤先生は「万物理論を人間が理解できるとは限らない」とおっしゃっていた。いずれ最高の人工知能にしか理解できない理論が生まれるかもしれない。そうなれば人間は人工知能の助けを借りて――それは知能を拡張するのと同義だろう――その理論を理解できるかもしれないとも思う。そのときには知るという行為の役割も、理論や知識の意味合いも、機能主義から解放されて大きく拡張されることになるだろう。
 いま人工知能研究においては、将棋ソフトが典型的だけれど、ある一つの知的な機能を実現し高性能化することが主流となっているという。特定の知的機能は――たとえば音声認識や翻訳は――すぐさまサービスになるからだ。
 ただ、そうした有益な知的機能がどれだけ強力であろうとも、周囲の世界や自らのことを認識しているわけではない。将棋ソフトは盤面を〈理解〉せず、ただひたすら機械的に――だからこそひたすら強いのだろうが――将棋の論理に従って計算をするだけだ。ソフトが出した計算結果はプロが驚くほど正確で、あたかもソフト自身が盤面や棋理を理解しているように見えるのだけれど。
 そんな中、一つの機能ではない〈世界を認識する、総体としての知能〉を模索している研究者が三宅陽一郎さんだ。三宅さんは様々な最先端デジタルゲームに組み込まれるAIを研究、開発している。
mr-miyake1.jpg  三宅さんによると、世界を認識して自ら考える総体的知能は、現状ではロボットかデジタルゲームの分野でしか研究されていないのだという。なぜなら、ロボットやゲーム内のキャラクターは――現実世界内の物質かゲーム世界内の情報かという違いはあれど――〈身体〉を持って、環境としての世界から情報を得て、それを解釈し、自らの意思決定に従って〈身体〉を動かさなければならないからだ。知能はこうした一連の知的処理を〈丸ごと〉おこなうものであって、ただ与えられた情報を処理するだけの機能が併存しているわけではない。知能と身体は本来、不可分に繋がった全体的な構造なのだ。もちろんロボットにしろゲーム内のキャラクターにしろ、知能と一体となった理想的な身体の実現には多くの課題があるのは言うまでもない。
 そして一方で、将棋ソフトはそもそも身体を持つ必要がない。電王戦ではロボット・アームがコンピュータに接続されているけれど、それはあくまで入力された命令に従って限定的な範囲内に駒を動かすだけのもので、コンピュータもアームも将棋を理解してはいないし、まして世界を解釈しているわけではない。身体なき将棋ソフトがおこなっているのは、次にどの手を指すかといった意思決定のための情報処理だけなのだ。こうした処理をするAIを〈意思決定AI〉という。いま研究・開発されているAIのほとんどはこれに当たる。
 しかし、ぼくたちが通常〈知能〉と考えるのは、人間の知性であれ人工知能であれ、記号処理も世界解釈も行う〈丸ごとの知能〉のことだ。三宅さんはこれを作ろうとしているのだ。
 いまデータマイニングやディープラーニングといった知的機能が話題になっている。人工知能として語られることも多い。だがそれらは「知能」なのかと三宅さんは考える。データマイニングは膨大なデータから有益な情報を取り出す技術だが、やっていることは既存の数学や情報学の知見に基づいたデータ解析に過ぎないという。またディープラーニング(深層学習)は、脳内の神経細胞(ニューロン)にヒントを得たニューラルネットワークと呼ばれるシミュレーションを多層化することによって雑多な情報から共通の〈概念〉を抽出する技術で、データマイニングにも用いられるが、特徴的な情報の性質を分類しているだけだと三宅さんは喝破された。

 一つの知的機能だけを取り出して、それが機械に出来るようになると、そもそもその機能は知的なものではなかったのだと考えてしまう心理現象を〈AI効果〉と言うのだったが、もしかすると〈知能〉を個々に切り分ける研究手法自体が〈AI効果〉の原因となったのかもしれないと空想してしまう。
「人工知能研究はこれまで、記号化や概念化を経た後の言語的な処理だけを扱ってきました。記号処理、言語処理はコンピュータの得意とするところですから。しかし知能は言語化以前に、世界を無意識的に処理しています。いま私はその〈無意識〉を知能に実装することに注力しています」
 世界にはもともと名前も数値も存在しない。道があるように見えるのは、生活する上でわかりやすいよう、無意識の段階であらかじめ〈解釈〉しているからだ。現実世界では、時間も空間も物質も、切れ目なくぬるぬると連続している。世界は情報以上のものであり、ぼくたちが世界から視覚や聴覚を通じて何らかの情報を得たときには既に、無意識的で身体的な情報処理がおこなわれているのだ。ディープラーニングなどの「人工知能」はこうした情報処理の最終段階のみをおこなっていると言えるだろう。
 また、人工知能に関連した議論のなかで、人工知能に仕事を奪われるというものがあるけれど、この世の仕事のほとんどは現実の生(なま)の情報を扱わなければならず、物理的な身体装置なしには、ほとんど実行不可能なものばかりだ。記号化された情報は、自然言語でも数式などの人工言語でも、いずれ人工知能のほうが人間よりうまく処理できるようになるとしても、それは一つの仕事のほんの一部でしかない。仕事には身体が必要なのだ。身体なき人工知能に仕事を奪われることはありえないだろう。人間の身体的動作を卒なくこなせるほどの性能のロボットを手軽に大量生産する方法をも、いずれ人工知能が見つけ出すかもしれないけれど。




■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!
バックナンバー