Science Fiction

2015.07.06

連載エッセイ 高島雄哉 『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』 第4回(1/3)

 ――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』
第4回 想像の特異点――将棋の論理と取材の言葉から

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA(写真撮影=著者/カット=meta-a)

●これまでの高島雄哉「想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして」を読む 【第1回】 【第2回】 【第3回

 二月に瑠璃光寺の五重塔を訪ねた折に見舞った祖父がつい先日亡くなった。数年前、祖父がまだ矍鑠としていた頃、妻も加えた三人で瀬戸内海の大津島(おおづしま)に行ったことを思い出す。南北七キロメートル弱のゆるやかな「く」の字型の島で、第二次世界大戦末期には特攻兵器〈回天〉の基地があった。ぼくの地元である周南市の徳山港からフェリーで四十四分、高速艇なら十八分だ。
 あれは結婚後初めての盆の帰省だった。当時ぼくはいくつかの小説賞に応募を続けていて、戦争小説を書こうと、取材のためにその島に行ったのだった。そのとき祖父にはぼくが小説を書いているということは言わなかった。何の結果も出ていなかったからだ。亡くなる間際にいくつか報告ができたのは本当に幸いだったと思う。
 ひとしきり話した後、これから回天の基地に行くと言うと、祖父は儂も行こうと立ち上がった。あのときの静かに波打つ瀬戸内海を覚えている。祖父は大津島の近くの島で生まれたことや戦争中に祖母と文通していたことをフェリーのなかで話してくれた。
 この小さな旅の時点で祖父はすでに九十歳を越えていたが足腰はしっかりしていて、島の高台にある記念館に着いたときも息切れ一つしていなかった。記念館の入り口横には原寸大――全長十五メートルほどの回天の模型が置かれている。回天は一見すると小型の潜水艦だが、実態は人間一人が操縦できるように改造された魚雷だ。その形態から人間魚雷human torpedo, manned torpedoと呼ばれるが、第二次世界大戦中に各国で作られた人間魚雷の多くは水中スクーターとして設計されたもので、回天のように人間が乗ったまま敵艦に激突するタイプのものは数えるほどしかない。
 一九九八年に改修された回天記念館では、戦没した搭乗員の遺書や遺品、基地の備品などが展示されていた。一時間ほど館内を巡った後、高台を下りて港とは逆方向に行くと、島の南西側の岩場に向かう長いトンネルがある。トロッコの線路がずっと先まで続いている。回天や機材を運んだのだろう。波音が徐々に大きくなり、トンネルを抜けると、すぐに基地が見える。岩場から海上へコンクリート製の通路が数十メートル延びて、同じくコンクリート部分だけを残した基地に繋がっている。この文章を書くにあたって調べ直してわかったのだけれど、ぼくたちが基地だと思っていたそれは――大津島基地は港近くにかつてあって――実際は魚雷の発射試験場なのだった。
 通路の先、右にはおよそ二十メートル四方の施設跡が広がり、左には短い桟橋がある。
 施設跡の手前にはコンクリートの柱と鉄骨の梁が残っていて、三角屋根の平屋があったことがわかる。平屋の奥には凸型の二階建てがあり、あいだの壁がないためにその一階部分を見渡すことができる(市川海老蔵主演の回天をテーマにした映画『出口のない海』の公開に合わせて観光客用の柵ができたようで、今は二階建てや桟橋に入ることはできません)。一階の床には回天よりも小さい魚雷を海に下ろすための開口部が二筋、平屋の中程から二階建ての奥まで延びていて、そこからは直に海面が見える。
 回天には桟橋から搭乗したということで、クレーンを固定していた金属部品がコンクリートの通路にめりこんでいる。眼下の海は青く澄んで、多くの魚がゆったりと泳いでいる。幼少の頃にも祖父母に連れられて行ったことをかすかに思い出した。この島に来ることは、遠い記憶を呼び戻す儀式みたいなものなのかもしれない。

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 ソラリスの〈海〉を、もっと早く思い出すべきだった。
 前回の「系外惑星」も「地球外生命」も、スタニスワフ・レムの『ソラリス』に登場する惑星ソラリスやその惑星の〈海〉を想起させる。
 改めて沼野充義さんによる新訳を読むと、「この惑星〔ソラリス〕は赤色と青色の二つの太陽のまわりを回っている」や、「毎年新たに発見される惑星は数百を数える」など、一九六一年発表の小説であるが、現在の系外惑星研究を予見するような記述が散見される。ちなみに二回目の映画化であるソダーバーグ監督の『ソラリス』では――タルコフスキー監督による一回目の映画化で辟易したらしいレムは、こちらは見てもいないようだが――主人公がディラン・トマスの詩を読むシーンがある。

  Though lovers shall be lost love shall not;
  And death shall have no dominion.
 (愛し合う者たちが死んでも愛は死なない;
  かくて死は支配を失う)

 惑星ソラリス全体に広がる「十七兆トン」の〈海〉は、どうやら重力を操ることでソラリスの惑星軌道を調整しているらしく、さらには人間の記憶を読み取って記憶の中の人間を複製することまでも可能な存在だが、ではこの〈海〉は生物なのかどうか、知性を持っているのかどうかは人間にはわからない。言語によるコミュニケーションがまったくできないのだ。
 SFは常に、人間とは〈異なる知性〉を描いてきた。その系列の極北に『ソラリス』があると言えるだろう。加えてグレッグ・イーガンの短編「ワンの絨毯」『ソラリス』のオマージュとでも言うべき作品で、とある惑星の海に広がる超高分子の藻類のなかで仮想生物のシミュレーションが行われる光景が美しく描かれている。
 これら二作のような広義の「知性」を含めて、〈異なる知性〉の描き方を丹念に追っていけばSFの歴史のみならず、もしかすると人間の知性に対するイメージの変遷も明らかにできるかもしれない。
 ただ、歴史を総体として論じるためには膨大な準備と時間が必要だし、この文章の目的とも離れてしまう。さしあたり、SFが様々な知性を描くために多彩な〈知性の担い手〉を発明あるいは導入してきたことを確認しておこう。
 異なる知性の担い手たちはモンスターやロボット、宇宙人、計算機――そして〈海〉――など多岐に渡る。
 この種のSFでは、人間とそれら担い手たちのあいだの相互理解が成立するかどうかが物語の焦点になることが多い。そして大抵の場合、SF的なロジックによって何らかの対話が行われる。数理科学的なやりとりで相互理解に至ることもあれば、大規模な戦争が始まってしまうこともある。『ソラリス』の〈海〉は、調査のためにソラリスを訪れた主人公の記憶から彼の恋人のコピーを作り、主人公と交流させることで主人公を理解しようとする。「ワンの絨毯」では人間が一方的に〈絨毯〉を観察するだけで、なるべく影響を与えないように気遣う。イーガンは環境問題あるいは人間がどこまで自然に介入してもよいのかといったことを考えているのだと思うけれど、相手を傷つけまいとして距離を取るポストモダン的な他者との付き合い方を描いているとも言えるだろう。
 以上のようにSFは知性の担い手や対話方法を多様化することによって、様々に異なる知性を描いてきたと言えるだろう。これは、知性そのものは――仮にあったとしても――直接に描き出せないということの裏返しに他ならない。もしぼくたちが何らかの方法によって、互いに互いの知性を見せ合えるなら、あるいは理解している内容を示し合えるなら――それが必ずしも最善の世界をもたらすとは限らないと思うけれど――いくつかの無意味な諍いは回避することができるだろう。


(2015年7月6日)



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