Science Fiction

2011.09.15

高野史緒『時間はだれも待ってくれない 21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集』(高野史緒編)序文[2011年9月]

東欧文学に関しては、「SF」よりも「ファンタスチカ」という語のほうがしっくり来る。ファンタスチカ、すなわち、サイエンス・フィクションやファンタジー、歴史改変小説、幻想文学、ホラー等を包括したジャンル設定だ。

ツァーリとカイザーの狭間で――文化圏としての東欧

高野史緒 fumio TAKANO

 

 今から30年前の1980年、東京創元社からある本が出版された。深見弾による編訳書『東欧SF傑作集』(上下)である。前年に出版された『ロシア・ソビエトSF傑作集』(上下)の姉妹編であり、両者でヨーロッパ共産圏のSFを網羅する形となっていた。
 そう、当時はまだソビエト社会主義共和国連邦という国があり、その衛星国とともに「共産圏」なるものを形成していた。いわゆる「東側」というやつである。それは本来、政治的なくくりだが、ソ連が(婉曲的な言い方をすれば)あらゆる分野で東側各国の協力体制を築くべく努力していたことによって、文化的にも漠然と一つのカテゴリとなっていた。ことに地理的、歴史的にロシア帝国と近く、深くかかわらざるを得なかった東欧諸国は、一般的な日本人には文化的な双子のように見えていたように思う。
 特にSFに関して言えば、ソ連が東欧の牽引役であったのは確かだ。深見版の解説にもある通り、東欧のSFは、60年代の初頭にソ連の科学技術雑誌が音頭取りをしてSFコンクールを始めたことをきっかけとして大きく発展したのである。深見版の東欧編は大半がロシア語からの重訳なのだが、当時東欧諸語の翻訳者が充分育っていなかった日本でそれらの国々の作品を紹介できたのは、ソ連にロシア語訳版が存在したおかげだったのである。
 こうした事情を考えれば、当時、深見が東欧とロシアを姉妹編として出版したのは不自然なことではなかった。が、時代はやがて変わるのである。あれから30年、ソ連は消滅し、「東側」という枠組みも解体し、西暦は21世紀となって第三の千年紀に突入した。しかし日本では、深見版以降、ロシア、東欧のSFはほとんど紹介されていないのが現状だ。深見自身も、東欧編に関しては大半が重訳であったこと、ソ連編に関してはバルト3国やウクライナ等の民族語で書かれた小説を網羅しきれなかったこと等を反省点として挙げているが、その後、それらの課題を引き継いだ者はいない。
 今や鉄のカーテンもなくなり、インターネットなどという便利な道具もあり、優秀な翻訳者も育っている。技術的には当時より圧倒的に楽になっているのだ。21世紀の我々が深見の後を継がない理由はない。が、しかしもう一方で、深見の時代にはなかった困難も生じている。当時は「東欧」の定義は今よりもずっと単純だった。「東側」というくくりがあったからだ。そういう定義が文化的に妥当であるかどうかは別として、アンソロジー編纂のための枠組みとしては有効であり、現実的であった。が、「東側」が通用しない今、「東欧」をいったいどう定義すればよいのだろう?
 この点については編者も大いに悩むところであった。深見版で東欧として定義された範囲の現在を紹介するという方法もあったが、これは冷戦時代の定義を引き継ぐことにもなりかねず、容認しがたい。ではどうするか。十代の初めごろに音楽や文学を通じてヨーロッパに関心を持ち始めた編者は、東欧というものを漠然と一つの文化圏として認識していたのだが、こういう視点を使えないだろうかと考えたのである。
 幸い、東欧文学に関しては現在の日本でもっとも頼りになる沼野充義の協力を得ることができ、相談を重ねるうち、専門家でない編者の漠然とした構想を形にすることができた。そしてさらにありがたいことに、東欧の定義を含めた解説を沼野に執筆してもらうことになった。というわけで、東欧の定義やその範囲についてはこの巻末の解説を頼りにしていただきたい(手前味噌だが、今、これほどコンパクトながらも内容の濃い東欧文化入門の解説は他にないのではないかと思っている)。
 また、深見版では当然のように採用されていた「SF」という範囲設定も見直した。これも詳しくは沼野の解説に頼るが、東欧文学に関しては、「SF」よりも「ファンタスチカ」という語のほうがしっくり来るのだ。ファンタスチカ、すなわち、サイエンス・フィクションやファンタジー、歴史改変小説、幻想文学、ホラー等を包括したジャンル設定だ。そこはレムやエリアーデ、カフカ、チャペック、ブルーノ・シュルツ、パヴィチたちの住処と言うこともできるだろう。ここに挙げた作家を全員知らなくとも、二人ほど──例えばレムとカフカ──だけでも知っていれば、ファンタスチカの意味や雰囲気は何となく掴めるのではないだろうか。そして、それはこの地域の文化全体に親和的な感じはしないだろうか。
 本書のために接触を持った東欧の作家や編集者、アドバイザーたちには、「ファンタスチカ」の一言で何の誤解も混乱も生じずに話が通じたものだ。作家の幾人かは、日本でなら間違いなくSFと呼ばれる作風であっても、自分の作品をSFと呼ばれることを好まず、ファンタスチカと呼ばれたがった(作家としては、編者もこの気持ちはとてもよく分かる)。SFファンにはファンスチカというくくりは曖昧過ぎるように思えるかもしれないが、実際には、SFファンの大半はファンタスチカのほぼ全域を網羅する読書をしている。SFファンにも、純文学の愛好者にも、幻想小説の読者にも、本書のカテゴライズは違和感なく受け入れられるものと信じている。
 本書ではこれらの定義に基づき、幾つかの目標を定めた。まず大前提なのは英語やロシア語からの重訳をせず、必ず原語から翻訳することだ。そして今回は21世紀に書かれた作品のみを収録することにした。文学を知るには有名な古典から順に読んでゆくべきという考え方は愚かとしか言いようがない。クラシックは何がなんでもバッハやベートーヴェンの名曲から聞き始めないといけないことはなく、コンテンポラリーや『スター・ウォーズ』のサウンドトラックから入門したって構わないのだ。今まで紹介が立ち遅れてきた分野であればなおさら教条主義は無意味で、読者の多くが間違いなく興味を持つであろう「今」をまず提示し、今ここに生きている文学の存在を読者にリアルに感じてもらうべきだろうと考える。そうして東欧ファンタスチカに興味を持ってもらえれば、過去の名作や冷戦時代の作品を紹介する機会もできるはずである。
 収録する地理的な範囲として考えたのは、バルト3国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)、旧ユーゴスラヴィア、旧ソ連圏スラヴ諸国(ウクライナ、ベラルーシ、モルドヴァ)から、それぞれ少なくとも一ヶ国は作品を出すこと、どちらかというと地中海世界に属する南部諸国(マケドニア、アルバニア等)については条件が整えば収録するが、必ずしも絶対的な目標とはしないこと等である。ブルガリアは当然、収録を目指したが、適任の翻訳者を確保できなかったことや、現在あまり良質なファンタスチカを輩出していないという現地情報もあり、今回は収録を断念した。
 東欧諸国は近世以降、ドイツ系の皇帝(カイザー)とロシアの皇帝(ツァーリ)の間で幾多の苦難を重ね、異教の諸民族との最前線に立たされてきた。20世紀に入ってそれらの大君主国が次々と消滅していった後にさえ、周辺の大国に悩まされるという事情は変わらなかった。干渉を受けた側の鬱積は相当なものだっただろう、文学の中にも巧みな当てこすりが随所に表れている。反抗心や検閲逃れの手法は結果として芸術に貢献することがままあるが、現場の苦労は並大抵ではなかっただろう。しかしそれと同時に、東欧は地理的にも文化的にも、そして時には心情的にも、それらの「敵」や「宗主国」や「侵略者」たちとの境界線が流動的なのである。そうした混淆(こんこう)や、少し前まで敵扱いだった旧宗主国を「古き良き時代の祖国」として慕ったりする矛盾性もまた、東欧の一筋縄ではいかない魅力の一部と言えるのではないだろうか。
 当の東欧諸国には、「東欧」という言葉自体を冷戦の遺物として嫌う向きがある。しかし、「東欧」なる言葉を消し去ったところで、それで何が良くなるというものでもない。本書の編者としては、東欧という言葉やカテゴライズを否定するのではなくて、むしろ文化的ブランド・ネームとして誇ってほしいと考えている。何しろ東欧は先に挙げた作家たちのみならず、マーラーやクリムト、アンジェイ・ワイダ、アルヴォ・ペルト、フォン・ノイマン、イリ・キリアン、ミハイル・エイゼンシュテイン等々、数えきれないほどの才能の故郷なのだから。
 芸術は人の最上の部分を引き出し、心を癒すものでありながら、同時に、人の運命を引き裂き血肉を喰らうことで成長する怪物の側面を持っている。かの地の先人たちが己れの命と引き換えに築き上げた芸術を尊重するためにも、苦悩や矛盾をも含んだ東欧という文化圏を愛してほしいと思うのである。本書がその一助となれば幸いである。

(2011年9月)

■高野史緒(たかの・ふみお)
1966年茨城県生まれ。お茶の水女子大学人文科学研究科修士課程修了。専門はフランス近世史。1995年、第6回日本ファンタジーノベル大賞最終候補作『ムジカ・マキーナ』でデビュー。歴史改変ファンタスチカを得意とする。著作に『カント・アンジェリコ』、『架空の王国』、『ヴァスラフ』、《ウィーン薔薇の騎士物語》シリーズ、『アイオーン』、『ラー』、『赤い星』がある。


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