大塚さんは三年前、理化学研究所で研究することになり、研究室の間取りから実験設備の配置やヘリウムの回収管、電線の配線まで自分たちでデザインした。
 コンセントは腰の高さにあって、電源コードは地面に触れずに機器に繋がるため、足でひっかけて抜けることはない。細部にいたるまで大塚さんたちのアイデアが盛り込まれているのだ。
 研究室で目を引くのは試料を入れる冷凍機だ。三メートルはある高い天井から、背の高い大塚さんと同じくらいの長さの円筒のチャンバーが吊られている。円筒上部には配線があって、内部で冷やされた〈量子ドット〉に電圧や磁場をかける。なぜ冷やすのかといえば、量子状態はちょっとした熱ゆらぎなどの外乱によって乱れてしまって、せっかくの計算中の量子情報が予期しないものに変化してしまうからだ。そうした事情もあって、量子コンピュータは必ずしも個人用として普及するかどうかはわからない。量子コンピュータは量子アルゴリズムで解ける問題に特化して、古典コンピュータと使い分けられていくのではないかと大塚さんは考えている。

 大塚さんたちのグループではヘリウム3とヘリウム4を混合して用いた〈希釈冷凍機〉というものを使っている。ヘリウムHeは陽子と電子を2つ持つが、原子核内の中性子の数が違う〈同位体〉があり、ヘリウム3は中性子1つ、ヘリウム4は中性子を2つ持っている。この二つは同じヘリウムでありながら様々な点で物理的性質が大きく異なっている。
 ヘリウム3もヘリウム4も空気中には微量しか含まれていない。ヘリウム4は岩盤下の天然ガスから取り出せるが、ヘリウム3は水素爆弾製造の副産物として生成されるもので、アメリカ等から購入するしか方法がない。ヘリウム4は液体ないし気体の状態で、ヘリウム3は気体の状態で販売されている。ぼくの同期の友人がいたころは気体状態のヘリウム3が1リットル数万円で売られていたらしいが、現在ではアメリカがほとんど市場に出さなくなったために10倍以上の価格になっているという。気体1リットル中には気体分子が0.1グラムほどしか入っていない。
 ヘリウム3が高騰したのは2001年3.11のテロ以降のことだ。ヘリウム3は中性子と反応しやすいため、中性子検出器に応用できる。原子炉でも用いられているものだが、核物質の密輸を防ぐために全米の空港に配備されて、そのために供給量が激減したのだ。
 ヘリウム4のほうは医療用MRIの冷却に用いられるなど広く使われているのだが、こちらも価格は上昇傾向にある。新興国での需要が増え続けているからだ。
 これを書いている2016年6月末にタンザニアで大規模なヘリウム田が見つかったというニュースが流れた。とはいえ、まだまだ貴重なものであることは間違いなく、使用したヘリウムは回収されて再利用される。
 装置の操作ミスでヘリウム3を外に排出してしまうことは、ごく稀にあるという。今では笑って済まされない損失になってしまう。このような事態に備えるため大学院に進学する時点で、理論系も実験系も関係なく全員が保険に加入させられる。加入金は数千円。大塚さん自身はこの保険のお世話になったことはない。

6jig.jpg
 大学や研究所は少なくない税金を使って研究をしている。その成果を広く一般の人々にも伝えていく活動を〈アウトリーチ〉といい、十年ほど前からだろうか、よく目にするようになってきた。
 第3回でお話をうかがった恩師、宇宙物理学者の須藤先生によれば、宇宙物理学はすぐに社会に役立つような成果があるとは言いがたいがゆえに、公開教室などのアウトリーチを積極的に行っているのだという。
 大塚さんも自らのホームページで、自らの研究の詳細を公開している
「研究者として予算をもらうようになって、少しでも伝えていければと思ってホームページを始めたんですけど、まだまだアウトリーチは足りないかもしれません」
 今回のインタビューも、ある意味でアウトリーチの一環と言えるのかもしれない。
 理化学研究所では毎月一般見学ツアーが開催されていて、ぼくは大塚さんにお会いする前に参加してみることにした。
 そこで二十歳くらいの学生さんが、理化学研究所の社会貢献について何度か質問を繰り返していた。ぼくの知るかぎりの研究者は基本的に勤勉で、さすがに一週間連続で泊まり込むことはないだろうが、真摯に研究の日々を送っている。アウトリーチが充分かどうかはなかなか判断できないけれど、こちらが知ろうと思えばかなりのことが公開されている。今回の冒頭で紹介したニュースもその一環だ。
 見学ツアーではスーパーコンピュータ 《HOKUSAI》を見ることができたのだけれど、当然このスパコンは理化学研究所にいなければ使うことはできない。物理学は普遍性を追求する学問ではあるが、研究環境には地域的な偏りがある。ヘリウム3はアメリカから買うしかない。その出荷量は政治的な判断によって大きく削減されているのだった。
 研究は人間社会の中で行われる、極めて人間的な営為なのだ。

2ootsukasan_A.jpg
 大塚さんを紹介してくれた物理学科時代の友人は、泊まり込みの研究を経て無事に博士号を取って、今は企業で基礎研究をしている。ぼくは小説を書き続けている。物理学科にいたとき彼に読んでもらったこともある。結局ぼくたちは場所こそ違えど、二十歳の頃と同じことをしつづけているみたいだ。
 理化学研究所を出たときには夜も更けていて、和光駅までの10分ほどの道すがら、ぼくは報告と礼を言うために友人に電話をかけた。
 友人は週末に引っ越すための荷造りをしていた。なんでも彼の子供を幼稚園だか保育園に入れようとしたところ待機児童が何十人もいるため、待機児童が数人しかいない郊外に移るのだという。
 物理学の研究は物理的世界の真相を探していくわけだけれど、研究者は政治や経済といった社会的環境にその身をおいている。あるいはヘリウム3、は物理的特性のみならず、生産量や価格といった社会的属性をも持ち合わせているのだ。
 つまり何かを知るということは、ごくごく個人的な行為のように思えるけれど、実際はかなりの部分が社会的な行為なのだ。独力で何かを新発見することの困難さを考えれば、知る行為が社会的に支えられていることは明らかだろう。あるいは、ぼくたちの好奇心の方向さえも、社会的に規定されていると言えるのではないか。
 想像力は本来すべての知的規定から逃れていく、まったく自由な作用のはずだ。とはいえ、ぼくたちが社会的存在である以上、想像力だけが社会的な影響から逃れられると考えるのは楽観的に過ぎるだろう。むしろ想像力は、本来逃れるべき知的規定――つまりは社会的規定を基礎にして成立するのではないか。逃れるべき対象のことを正確に理解すればこそ、逃れることができる。闇雲に逃げれば、かえって捕まってしまう。相手の位置や速度を測りながら適切な距離を取れば――逃走範囲という形で行動はいくらか制限されつつも――自身の自由度を高めることもできる。

 ヘリウム3の価格高騰について話しているうちに、電話先で彼の子供がふえええんと泣き始めた。
 想像力にとって社会は必ずしも常に逃れるべき抑圧的なものではない。それどころか積極的に想像力を育む基盤ともなりうるものだ。
 大塚さんは〈実験的想像力〉の可能性を語っていた。
「実験では現実世界を使えますからね。頭の中だけで考えるよりも圧倒的に有利なんです」
 想像力は個人のなかに押し留めるより、現実世界で分有――パルタージュされたとき、その可能性が解放される。
 そして友人関係は、きっと想像力をパルタージュできる最小の社会だ。保育園や大学あるいは研究所は想像力のパルタージュを支える社会的構造体と言える。もちろんこうして生まれた想像力は無垢なものではなく、その社会のかたちが濃淡の差こそあれ刻印されているはずだ。
 人工知能や仮想現実がSFを超えた、というような言説がある。おそらくそれは事実の一面を突いていて、SFの危機と見る向きもあるだろうが、その反面、SFを超えるような事態があればあるほどそれらはSFにとって有利なものとなるに違いない。多種多様な想像力があって、それらが相互作用をするからこそ、それぞれの想像力は活性化し、複数の想像力は未知の世界を指し示すことができるだろうから。
 大塚さんは研究室を立ち上げる際にメンバー同士が交流しやすくすることを重視した。
「研究室や実験室のデザインは、メンバー同士がコミュニケーションを取りやすいように考えました。これまでに色々な研究所を見ていましたから、良いところを使わせてもらいました。研究や実験がしやすいことはもちろん、すぐに誰かに話しかけられる机の配置や、人の動線を考えた装置の配置にしています」
 研究室や研究所あるいは研究会を立ち上げるというのは、新しい想像力を生成し、それを分有するための人間的な工夫なのだ。グループ内の関係性が研究の想像力を決定する。
 インターネットやVR空間での交流は、これまでとは違う社会を生み出し、さらにそこにAIやロボットも混在して、まったく違う想像力がパルタージュされることになるに違いない。
 さて、そのぼくの友人だが、第6回でお話をうかがったAI研究者の三宅さんの記事を読んで、いまAIの研究を始めたという。彼は学生時代からプログラミングが得意なのだ。三宅さんが最近『人工知能のための哲学塾』を上梓されたのだけれど、ぼくが教える前に友人は購入していたのだった。――きっとこれもひとつの想像力のパルタージュだ。

(※次回は11月5日頃公開です。手塚治虫氏の最期の食事をつくった管理栄養士の方にお話をうかがってきます。)

大塚朋廣(おおつか・ともひろ/理化学研究所研究員・東京大学客員研究員)
1982年香川県出身。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了、博士(理学)。2010年~2013年東京大学工学系研究科特任研究員。2012年~2013年理化学研究所客員研究員。2012年~2013年IARPA交換プログラムでコペンハーゲン大学ニールス・ボーア研究所。2013年~2015年理化学研究所特別研究員。2013年より東京大学工学系研究科客員研究員(物理工学専攻樽茶・山本研究室)2016年より理化学研究所研究員(創発物性科学研究センター量子機能システム研究グループ)。ウェブサイトはhttp://tomootsuka.net

(2016年7月5日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。2016年10月劇場公開の『ゼーガペインADP』のSF設定考証を担当(『ゼーガペイン』公式ページはhttp://www.zegapain.net)。



ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!