今回のインタビューはさながら哲学の講義のようで、哲学をこよなく愛するぼくとしては大変ありがたいものだった。
「ヘーゲル以降、ニーチェやハイデガーが指摘したことですが、私たちは名付けないと何も考えることができません。ヴィトゲンシュタインによれば、名指すだけなんだと。言葉を使わないとしても、ある対象を指差して、何らかのレッテルを貼っているわけです」
 古代から、哲学において言葉は真理を表すための道具と考えられていたが、十九世紀末あたりからは――言語がなければ思考すらできないのだから――真理や現実よりも先に言語があるのであって、むしろ言語こそが哲学の課題である、と考えられるようになった。これを〈言語論的転回linguistic turn〉という。言語は現実を認識するための道具というよりは、現実そのものであり、ぼくたち自身なのだ。
 ぼくの好きな哲学者リチャード・ローティが、その名もThe Linguistic Turnという論文アンソロジーを発表したのも1967年のことだ。ローティはその後1979年に出した主著のひとつ『哲学と自然の鏡』で、言語論的転回をも乗り越えている。彼によればこれまでの哲学は「自然の鏡the mirror of nature」としてすべての知識を基礎づける役割を勝手に自任しており、それは言語に対する哲学も同様だという。しかしそのような役割はすでに哲学ではなく自然科学のものであると主張し、これからの哲学は人間の生を新たに解釈し直す解釈学となる可能性を示したのだった。
 特に認識論と呼ばれる哲学的な考察は――自然を超えたものについての学である形而上学とも呼ばれるものであり――科学的な検証などは不可能だ。プラトンのイデア界を探しても仕方ない。しかしそうした哲学的な議論は、人間的な思想ないし理論としては十分に興味深いものだ。ただ、今のぼくたちは別の方向の議論をするべきだろう。
「言語論的転回以降に、形而上学的なものの見方はやめて、現実に合わせて科学的にものを見ていこうという哲学上の流れが出てきました。近世にデカルトたちが中世に対して同じようなことを言ったとも言えますが、私にとっては脳科学がそういう面があります。先ほどのハイデガーたちの〈レッテル〉の問題も、考えてみれば神経系がそういうふうにできあがっていると脳科学でわかってくれば、すごい哲学的な理屈をこねる必要もないわけで、そこから出発して何が考えられるのかなと思って研究しています」
 このエッセイのテーマである〈想像力〉にしても、既にある程度は脳科学的に明らかになっている。東京大学医学部の宮下保司教授の研究(http://www.physiol.m.u-tokyo.ac.jp/review/review_01.html)では、視覚イメージの想像力と知覚を区別し、それぞれの作用を科学的な現象として記述する。視覚イメージは側頭葉の神経回路に蓄えられているが――この事実もまた脳科学の成果だ――網膜からの信号を側頭葉が受けることが知覚であり、大脳前頭葉からの「トップダウン信号」が側頭葉に伝わることが想像力と考えられるという。

 さて、高橋先生はいよいよサイボーク化が加速している現状に合わせて、哲学をサイボーグ化するべきだと考えている。
 サイボーグとは〈創出〉だった。だから、これまでの哲学を現代的に解釈して書き直しても、哲学をサイボーグ化したとはいえない。新しい哲学を生み出すことこそが〈哲学のサイボーグ化〉なのだ。ただ、これはもちろん簡単なことではない。これまでの哲学を正確に理解することも不可欠だ。
「哲学というのは最初に入るときが大変だというのは、誰でも経験することだと思います。鋼鉄の球のなかに入っていくような感じです」
 ニーチェによると、哲学というのは直観を一生懸命に理論武装したものだという。「~とは何か」という本質については、実のところは自分の直観でしか語り得ないものなのかもしれないと先生は語った。だから、ある哲学者の哲学を学ぼうとすると、その哲学者の世界観が〈鋼鉄の球〉のように、自分の世界観にぶつかってくる。
 ぼくたち自身もまたそれぞれに〈鋼鉄の球〉を持っている。それは哲学的もしくは数学的に論理構造が明晰になってはいないものなのかもしれない。あるいはだからこそ世界観は〈鋼鉄の球〉のようになってしまうのか。
 世界のサイボーグ化が進めば、あらゆるものの存在様式が書き換えられて、理解不可能な〈鋼鉄の球〉が次々と現れてくるだろう。サイボーグは本性として自らを書き換え、そして新しさを〈創出〉するのだった。
 だとすればぼくたちが今しておくべき〈練習〉とは、ほとんど理解できないような様々な〈鋼鉄の球〉としての〈他者〉に触れ、〈表象不可能性〉に慣れていくためのものでなければならない。
 しかしそれはどうやって可能となるのか。
 自然や芸術に近寄りがたさとしてのアウラがあったとき、自然を不可逆的に改変する技術に基づく芸術作品は〈礼拝〉の対象だった。複製技術の登場によって、芸術はアウラを失い、人間は〈遊戯〉の対象として芸術作品に触れられるようになったのだった。
 VRやAIは自然を新たに創出する。それは部分的な改変や少数の複製ではない。サイボーグ化する世界においては、総体としての自然が丸ごと創り出されるのだ。そこでぼくたちが芸術や自然に対してできることと言えば、〈礼拝〉でも〈遊戯〉でもなく、〈選択〉することだろう。ぼくたちはどこに住まうべきなのか。鴨長明は『方丈記』で住居について論じたけれど、長明の時代と違って、ぼくたちは住所どころか、世界ごと選ぶことができるようになるのだ。
 人間の思考が――哲学的制限であれ脳科学的制限であれ――レッテルを貼ることからしか始まらないように、およそありとあらゆるものはどこかに存在しなければならない。
 VR技術によって新しい現実がサイボーグ的に〈創出〉され、すみやかに多元宇宙となる。〈サイボーグ的多元宇宙〉に存在するものは、どこに所属するかを〈選択〉しなければならないということだ。複数の世界にまたがるような特異な存在様式などもありうるだろうけれど、それでもどこかの場所を占めているはずだ。ぼくたちは自分の位置を〈選択〉しなければならない。
 そしてぼくはインタビュー前にあった疑問――様々に現れる新しい技術のどれに着目すればいいのか――に戻っていることに気づく。

cut_A.jpg  ぼくは〈選択〉できずに、言ってみれば〈迷子〉になっていたのだった。『城』『結晶世界』『氷』の登場人物たちのように。  しかしながら今回こうして高橋先生に導かれて、不可解なものへの二つのアプローチ――不可解さの理由を探り、不可解さの周縁を巡ること――によって、少なくとも自分がどのような意味で〈迷子〉になっているのかはわかってきたように思う。
 妻が幼稚園に通っていた頃、よく迷子になっていたという話を聞いたことがあって、今回改めて〈迷子〉について教えてもらった。
 妻によると〈迷子〉というのは、誤った道を〈選択〉し続けることで陥る結果なのだという。迷う前に誰かに道を訊けばいいのにと思うのだが――大人に話しかけづらいのとは別に――〈迷子〉になる子というのは自分の〈選択〉に自信があるから、〈迷子〉になったと自分で気付くまでは誰にも頼らないのだ、というのが妻の哲学的な考察だった。
 幼かった妻は〈迷子〉になるとその場にうずくまっていた。妻は静岡駅前に住んでいたのだが、いつも速やかに誰かが助けてくれたらしい。ある日などは、うずくまっていると親切なお姉さんに声をかけられて、彼女の家にあげてもらって、出されたあんパンを食べながら家族の迎えを待っていたという。微笑ましい気もするものの、あまり安全とは言えない方法でいつも助かっていたのだった。
 翻って、サイボーグ的多元宇宙における〈サイボーグ的迷子〉を考えよう。
 すべてがサイボーグ化された後の世界であっても、サイボーグ的主体が無数の世界の中から自らの位置を〈選択〉しようとするならば、きっと〈選択〉の果てに迷ってしまうこともあるはずだ。選択肢が多ければ多いほど、〈選択〉を誤る確率は上がる。〈サイボーグ的迷子〉になって、かつての妻のようにうずくまっていたら、親切なAIが助けてくれるのだろうか。
 ようやく、迷いに迷って、今回の結論のようなものが見えてきたみたいだ。
 ぼくたちは〈サイボーグ化する世界〉に慣れるために〈練習〉する必要がある。それは当然、〈サイボーグ的迷子〉にならないための〈練習〉でなければならない。現状のVRコンテンツについては、〈迷子〉になったときの〈練習〉するための安全な〈迷宮〉と見ることもできるかもしれない。

cut_B.jpg  ぼく自身、〈新しいSFの言葉〉を探している〈迷子〉みたいなものだ。ぼくとしては「親切なお姉さん」に助けてもらうことにやぶさかではない。しかし彼女にしても――あんパンをくれることはあっても――どこかわからない場所へ道案内することはできない。〈新しい言葉〉には自分で辿り着かなくてはならないのだ。
 ぼくたちはいつかきっと〈サイボーグ的多元宇宙〉で〈サイボーグ的迷子〉になる。ならば、せめて良い迷子になることを考えるべきだろう。良い迷子の第一条件は自明だ。どれだけ〈選択〉を誤って迷い続けたとしても、いずれは目的地に辿り着く迷子が〈良い迷子〉に決まっている。
 そして〈サイボーグ的多元宇宙〉においては、目的地だってサイボーグ的に〈創出〉することができる。目的地としての〈新しいSFの言葉〉が見つからなかったら、新しい世界を丸ごと〈創出〉すればいい。それはSFと現実世界のあいだの境界線を消し去る――〈SFのサイボーグ化〉に他ならない。

(※次回は8月5日頃掲載です。理化学研究所を訪ね、量子コンピュータ研究の最前線についてうかがってきます。)

高橋 透(たかはし・とおる/早稲田大学文化構想学部複合文化論系教授)
1963年東京都生まれ。早稲田大学文学研究科ドイツ文学専攻博士後期課程満期退学、文博(早大)。専攻は表象・メディア論、テクノロジーの哲学、特にサイボーグ哲学思想。著書に『サイボーグ・エシックス』(水声社)、『サイボーグ・エシックス』(NTT出版)、『ドイツ観念論を学ぶ人のために』(共著、世界思想社)などがあり、訳書にダナ・ハラウェイ『サイボーグ・ダイアローグズ』(水声社)、ジョン・D・カプート『デリダとの対話』(法政大学出版局)、ラクー=ラバルト『メタフラシス』(未来社)などがある。また最近の記事に【快感を貨幣に。「人類サイボーグ時代」の経済システム(http://www.sensors.jp/post/cyborg.html)】、【ハイパーAIを恐れながら、望んでやまない人間の限りない「欲望」(http://ironna.jp/article/3251)】がある。

(2016年7月5日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。2016年10月劇場公開の『ゼーガペインADP』のSF設定考証を担当(『ゼーガペイン』公式ページはhttp://www.zegapain.net)。



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