Scienece Fiction

2010.03.05

東浩紀「小松左京と未来の問題2」(4/4)

 しかしそれだけではない。実際にはそのうえにもうひとつ、母性をめぐる別の隠喩系が重なっているのだ。その水準では、『日本沈没』はむしろ、小野寺(日本沈没を前にした日本人)が、玲子(母=日本)の死を受け入れて摩耶子(子を産む少女)を選ぶ、そのような物語だと解釈することができる。『日本沈没』が最後に希望を寄せるのは、摩耶子にであって、玲子にではない。そして摩耶子は子を産むかぎりで母ではあるのだが、しかしそれはもはや、疲れた男性を包み込む、帰還の場所としての玲子=佐世子的な「母性」ではない。彼女は、たとえ「夫がどこかへ行ってしまった」としても、息子と交わり自分ひとりで子を増やすのだとはっきりと宣言している。
 母ではなく子を選ぶ。癒しではなく生き残りを選ぶ。このようなモチーフの選択が行われているかぎりにおいて、いくら『果しなき流れの果に』がセカイ系に近接していたとしても、小松SFの女性像を「母性のディストピア」の枠組みで単純に批判することはできない。
 言ってみれば『日本沈没』は、そもそも「母性のディストピア」そのものを沈め、その「あと」を考えるために書かれた小説なのである。

 玲子的な母と摩耶子的な母。象徴的な母と動物的な母。
 この対置はじつは、小松SFにおいて「未来」のイメージと密接に関わっている。玲子的な母性は、いままでも繰り返しているように、『果しなき流れの果に』において、男性主人公が孤独に投企する「世界の終わり」への旅、理念的で思弁的な「未来」からの帰還の場所として描かれていた。対照的に摩耶子的な「母」は、『日本沈没』において、男性主人公とともに、あるいはそれを捨ておいて淡々と進んでしまう即物的な時間、『果しなき流れの果に』の未来とはまったく異なった別の「未来」への出発の起点として描かれているからだ。
 その対立を確認するうえで、もうひとつわかりやすい作品を挙げておこう。
 小松は『果しなき流れの果に』と『日本沈没』のあいだの一九六七年に、「神への長い道」という有名な中篇を発表している。小松の作品のなかでもきわめて評価が高い、ハードSFである。
 この小説の主人公「フジ」は、二一世紀の男性。フジは、未来の可能性が信じられなくなり、退屈な平衡状態に入った(現在の思想用語で言えば「ポストモダン化」した)二一世紀の社会に飽き飽きして、無期限の冷凍睡眠に入る。そして五六世紀に強制的に起こされることになるが、困ったことに、「基本的に変わったところは、何一つなかった」。人類社会は、三五〇〇年前に彼が感じた平衡状態のままただずるずると時を重ねていただけであり、「その種と文明を超える可能性をなに一つ見つけることができなかった」(注13)。そこで絶望したフジは、同じく二二世紀から冷凍睡眠で五六世紀にやってきた「古代人」の女性「エヴァ」とともに、未来人たちに誘われるまま、異星人との接触の可能性を求めて、七〇〇光年の彼方への片道旅行に出ることになる。
 さて、この小説のSFとしての肝は、フジと未来人たちがその異星で出会う、異星人たちの高度な世界認識と、それに伴う一種の超能力の描写にある。ここでは詳しく紹介しないが、その設定は『果しなき流れの果に』と呼応しており、いわばそこでフジは、『果しなき流れの果に』で野々村が経験した時空の旅の入口に立つことになる。しかし彼はその旅を始めることができない。同じくエヴァも旅を始めることができない。理由は物語のなかでは、二一世紀人と二二世紀人の脳は、異星人の技術に生理学的に対応できないからだと説明される。
 つまりはこの小説では、退屈な現在から「未来」への脱出を夢見て、三五〇〇年の時間を超え、さらに七〇〇光年の空間を渡ってきたフジは、結局は、人間であるがゆえにその脱出に失敗することになる。
 しかし、小説は決して暗い印象を残さない。物語の最後、フジとエヴァだけが残された宇宙船のなか、小松が記すのはむしろつぎのような会話である。

セックスなんて……」エヴァは、かすれた声でいった。「もう、忘れかけちゃったわ――あなたは?――大丈夫?」
「君は、ぼくの子をうむんだ……」と、彼はいった。「ぼくたちの子を……」
「何のために?」エヴァはいった。「今さら……」
「とにかく、どんな偶然で、とんでもない時代に生きのこったにせよ、まだ生きて、子孫をつくる能力があれば、それはそれでやるところまでやってみるんだ」彼は服のボタンをはずしながらいった。「猿には猿の、いわば〝種としてのつとめ〟があるさ。――チンパンジーは、われわれより、たしかに低い段階の生物だ。だが、彼ら自身の限局は突破できなくても、精神の進化からいえば、一つの袋小路にすぎなくても、とにかく彼らはまだ頑張って生きている……」
「いくら、後世まで生きのこっても、猿はどこまでいっても猿ね……」
「いいじゃないか――おれたちも、子供たちといっしょにバナナを食おう。夕焼けをながめよう……」(注14

 小松はここで、猿のセックスが『果しなき流れの果に』の壮大な思弁に勝つのだと、少なくともそこには別の未来があるのだと明確に記している。
 この中篇ではエヴァの性格設定はそれほど明確でない。したがって、エヴァが摩耶子の分身とまで言うことはできない。しかしそれでも、ここで「子を産むこと」に、それも幼稚で動物的な性の行為の結果として、即物的に子を産み生き残ることに対して込められた肯定は、『日本沈没』の摩耶子の宣言とはっきりと響き合っている。
 摩耶子的な「母」、幼稚で即物的な生殖への欲望こそが、『果しなき流れの果に』の円環を食い破る。小松SFの「未来」のなかには、じつはそのような二つの未来の葛藤が刻まれているのだ。



13 小松左京、『神への長い道』、角川文庫、一九七八年、一六三、一六八頁。原文の傍点は省略。【本文に戻る
14 『神への長い道』、二一七頁。【本文に戻る
(2010年3月5日)

東浩紀(あずま・ひろき)
1971年東京都生まれ。東京大学卒。哲学者、批評家、東京工業大学世界文明センター特任教授。93年に『批評空間』でデビュー。96年に出版した思想書『存在論的、郵便的』で新世代の批評家として注目を浴びる。99年、第21回サントリー学芸賞を受賞(思想・歴史部門)。主な批評書に『動物化するポストモダン』『文学環境論集』『批評の精神分析』など。09年12月に初の単独創作長編『クォンタム・ファミリーズ』を上梓した。



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