Scienece Fiction

2010.01.05

東浩紀「小松左京と未来の問題1」(3/4)



 そしてもうひとつ、この作品を特徴づけるのが、「帰る場所」としての女性のイメージである。
 野々村はじつは、旅に出るにあたり、「佐世子」という名の恋人を現代の日本に残している。佐世子は長いあいだ(といってもこの物語は時空を超えているので、それはあくまでも佐世子から見た時間なのだが)野々村を待ち続け、老婆になってようやく、超越の次元から墜落し、記憶を失った老人となった彼に再会することになる。『果しなき流れの果に』という小説はじつは、佐世子が野々村を待つ月日を描写した二つの「エピローグ」が主要部分を挟むアクロバティックな構造を取っており(注5)、その「エピローグ」のひとつで試みられた和泉平野の時間経過の描写は、おそらくは小松のすべての小説のなかでもっとも美しい文章のひとつである。彼はそこで、進化し変化する文明の時間とその基底に位置する不変の自然の時間の対照性を、旅する男性=文明・待ち続ける女性=自然の対比と重ね合わせながら、わずか数ページの描写でくっきりと浮かびあがらせている。「アメリカへ三時間半で行けるジェット機が就航した時も、テレビの世界中継があたり前になった時も、彼女はそれほど興奮しなかった。[……]北の方へ行けば、そういった変化が目まぐるしく起こっているのが見えるのだが、南の方を見れば、葛城の山々は、あいかわらず四季の変化をくりかえしながらそこにあった」(注6)。
 男性の主人公が、ふとしたきっかけで日常から「世界の終わり」へ投げ出され、哲学的で思弁的な問いばかりを繰り返しながら異世界を転々とし、最後には「きみとぼく」の小さな世界に戻って物語を終える。
『果しなき流れの果に』はつまりはそのような小説であり、したがってその想像力はセカイ系にきわめて近いのだ。

 そして、この小説を梃子とすると、小松SFにおける「未来」の機能が、さきほどの紹介とは異なった視角のもとで見えてくる。というのも『果しなき流れの果に』で導入された未来観、「できごととは関係なく、さらにのびて行き、二十一世紀はやがて、二十二世紀につながり、さらにその先には、はてしない等質の時間がひろがっていた」と描かれるような時間観は、国家や社会を描くというより、むしろその存在を無化する契機として機能しているように思われるからである。
 小松において「未来」は、社会の確かさを確認するものではなく、むしろそれを揺るがすものとして機能しているのではないか。言い替えれば小松の「未来」は、登場人物を強固に設定された未来社会=中景のなかに位置づけるのではなく、むしろ彼らからその確かさを奪い、近景と遠景が短絡するセカイ系的な状況のなかに投げ込むために導入されているのではないか。
 この見方を確かめるために、「未来」という言葉をいったん横に措いて、小松作品におけるSF的想像力一般について考えてみることにしよう。

 まずは彼の短編第一作(商業誌に最初に掲載されたのは別の作品だが、実質的にはこれがデビュー作だと考えていい)、一九六一年の「地には平和を」を読んでみたい。
地には平和を」は、一九四五年八月一五日に無条件降伏しなかった日本を舞台に、少年兵の視線から本土でのゲリラ戦を描いた短編である。この短編は、小松作品のなかでもめずらしく(というよりも、のちに小松はその志向を封じ込めたと考えるべきだろうが)かなりはっきりとした政治性を帯びている。そこでは小松は明らかに、SF的想像力(歴史改変)を、戦後民主主義の無邪気さ、戦後社会の無自覚な肯定を転倒させるために導入している。
 たとえば小松は作品の後半、改変された歴史を「正しい歴史」に戻すために現れた未来人と、その歴史のなかで皇国史観を信じてゲリラ戦を闘い抜き、自決を覚悟する傷ついた少年兵(康夫)につぎのような会話をさせている。

「君はわからん子供だなあ……八月十五日の無条件降伏が唯一の正しい歴史だという事が、わからんのか?」
「なぜそれが正しいんだ?」康夫は歯がみしながらくりかえした。「お前らに、そんな事をいう権利はないぞ」(注7

 この会話ののち、未来のテロリストが引き起こした歴史改変は修正され、康夫は「正しい歴史」に戻る。
 短編の最後、物語の時間は現在(一九六一年)に変わる。「正しい歴史」を生きた康夫は、むろん皇国史観も本土抗戦の覚悟もすべて忘れ、幸せな家庭をもち平和な休暇を楽しんでいる。ところがあるとき、彼はふと少年兵の記章(別の歴史の残存物)を拾うことになる。そして「この美しい光景が、家族の行楽が、ここにいる彼自身、いや、彼をふくめて社会や、歴史や、その他一切合財が、この時代全体が、突如として色あせ、腐敗臭をはなち、おぞましく見え」る経験をすることになるのだ(注8)。そして短編は、その「黒い小さなもの」を、康夫の幼い息子が「ばっちい、バイ」と言って投げ捨てる場面で終わる。そこに込められたメッセージについて、もはや説明の必要はないだろう。
 小松の作家活動は、SF的な想像力を、架空の社会を緻密に構成しそのなかで物語を構築するためではなく、「この時代」の自明性を疑うため導入するところから始まった。この志向は、彼の第一長編、一九六四年の『日本アパッチ族』ではさらにはっきりと展開されることになる。



5 正確には、第二章と第三章のあいだに「エピローグ(その2)」が挟まれ(続く引用部分はそこから取られている)、そこから物語が第十章まで続き、そのあとにこんどは「エピローグ(その1)」が置かれるという構成になっている。【本文に戻る
6 小松左京、『果しなき流れの果に』、角川文庫、一九七四年、一〇〇頁。【本文に戻る
7 小松左京、『地球になった男』、新潮文庫、一九七一年、四二頁。【本文に戻る
8 『地球になった男』、五四頁。【本文に戻る



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