Scienece Fiction

2010.01.05

東浩紀「小松左京と未来の問題1」(2/4)



 いずれにせよ、ここで重要なのは、高度経済成長期の日本では「未来」という言葉が一種の流行語になっており、そして当時の小松がその言葉に深くコミットしていたという事実である。いまとなっては漠然と想像することしかできないが、『日本アパッチ族』『 復活の日』『果しなき流れの果に』といった代表作を書き上げ、『日本沈没』を書くまえの三〇歳代後半の小松は、おそらくは社会的には、SF作家としてと同じかあるいはそれ以上に、「未来」について語る知識人として認知されていたのではないか。
 小松はなによりも「未来」について語る文学者だった。そしてこの性格がふたたび、ゼロ年代の想像力と小松の想像力の遠さを際だたせる。
 あらためて指摘するまでもなく、少子高齢化やらデフレやらが連日紙面を賑わせるゼロ年代末期のいま、この国でもっとも肯定的に語られることが少ないのが「未来」という言葉である。一九九五年以降の一五年間、日本社会は長い停滞期に入っている。そのことを否定する読者はほとんどいまい。そしてセカイ系の想像力は、この一〇年間、まさにそのような現実への絶望、というよりも無関心に後押しされて影響力を伸ばしてきた。たとえばゼロ年代を代表するセカイ系SF、『涼宮ハルヒの憂鬱』の冒頭はつぎのように始まっている。

 中学校を卒業する頃には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業して、この世の普通さにも慣れていた。一縷の期待をかけていた一九九九年に何が起こるわけでもなかったしな。二十一世紀になっても人類はまだ月から向こうに到達してねーし、俺が生きてる間にアルファケンタウリまで日帰りで往復出来ることもこのぶんじゃなさそうだ。
 そんなことを頭の片隅でぼんやり考えながら俺はたいした感慨もなく高校生になり――、
 涼宮ハルヒと出会った。(注3

 主人公(キョン)は、現実の未来に絶望しいかなる夢も抱かなくなったところで、セカイ系の想像力を体現するキャラクター、ハルヒに出会う。ゼロ年代の文学的想像力においては、「未来」はもはや、物語が始まるまえに打ち捨てられ、忘れ去られるべき意匠となりはてているのだ。この点でも小松の想像力は、セカイ系の想像力からじつに遠くにあるように見える。

 しかし本当にそれだけだろうか。
 結論からいえば、ぼくはそうは考えていない。
 セカイ系の困難とそれへの応答を軸にさまざまな作品を読み解く、というのがこの連載の主題である。いくども繰り返しているように、「セカイ系の困難」とはここでは、小さな日常と大きな世界を繋ぐ、いわゆる社会を描写することがとてつもない困難に感じられるような、そんなメンタリティを意味している。したがって、ここまでの紹介を見るかぎり、小松はその困難からもっとも遠い作家のように思われるだろうし、またその判断は半分は正しい。
 しかし、その小松観は言ってみれば、社会派SF作家である彼の、「社会派」の部分しか見ていないもののように思われる。小松は社会派SF作家であると同時に、社会派SF作家でもあった。つまりは彼は、国家や社会の問題を描くために、あくまでもSF的な設定を導入すること、たとえば日本列島を沈没させることに拘り続けた。ぼくはここに、つまりSFの手法を選び続けたことに、小松にとっての「セカイ系の困難」が現れていると考える。一〇代半ばで終戦を迎え、焼跡の混乱と高度経済成長の狂騒を駆け抜けたこの作家にとって、SFの手法は、とりわけ「未来の思想」は、文学的想像力と社会の関係を再縫合するための一種のリハビリとして機能していたのではないか。
 そして、もしそうなのだとすれば、セカイ系の困難は決してゼロ年代だけのものではない、日本SFの歴史に最初から刻まれていたと言えるのではないか。
 どういうことだろうか。
 まずは、いま述べたばかりの常識的な小松観をひっくり返すところから、議論を始めよう。

 さて、じつのところ小松の愛読者は、ここまでの議論で苛立ちを感じていたかもしれない。
 というのも、いままでぼくは小松の想像力がセカイ系の想像力の対極にあると記してきたが、それには例外があるからである。しかもその例外は、『日本沈没』とはまた異なった文脈で、しばしば小松SFの代表作と見なされる作品での例外だ。
 問題の作品は一九六六年出版の『果しなき流れの果に』。『日本アパッチ族』『復活の日』『エスパイ』に続く第四長編で、高度な思弁性、遠過去から遠未来までを股にかけるスケールの大きさから、しばしば日本SFの最高傑作とも評価される作品である。そしてこの小説を貫く想像力は、一般の小松SFのイメージとは大きく異なり、じつはいまぼくたちが「セカイ系」と呼んでいるものにきわめて近い。この小説に注目すれば、小松を逆にセカイ系の先駆的な作家と位置づけることも可能になる。
 どういうことだろうか。小説の内容を見てみよう。
『果しなき流れの果に』は、強引に要約すれば、主人公の「野々村」がふとしたことをきっかけとして時空を超えた争いに巻き込まれ、過去から未来まで時代を転々とした挙げ句に父親に出会い、宇宙の真理を見極めるために精神の飛翔を試みて「燃え尽き」、最後はまた現在に戻って平凡な老人として死を迎えるという物語である。小松はしばしばこの小説をホメロスの『オデュッセイア』に喩えており(注4)、その比較のとおり、英雄が故郷を離れ、さまざまな試練を経てふたたび故郷に戻るという貴種流離譚の構造を採っている。
 さて、この小説を特徴づけるのは、まずはいまの要約からわかるように、国家や社会といった中間項の描写が物語内でほとんど重要な役割を果たさない、果たすはずがないという点である。
 そしてかわりに本作では、一方で、進化とはなにか、知性とはなにかというきわめて思弁的なテーマについて交わされる会話が、他方で、物語の全体を包み込む女性の存在が前景化することになる。
 野々村と父親はこの小説では、たがいの存在を知らないまま、時空を超えてさまざまな場所を渡り歩くことになる。時空を超えているから国家や社会も超えている。並行世界が存在するので単線的な歴史が描かれることもない。二一世紀の火星や二三世紀の地球も登場するが、それらの時代についての設定は簡単なものだし、またそれでいい。
 その描写の欠如、というよりも「歴史」の欠如は、『果しなき流れの果に』と同時期に出版され、しばしば比較されるもうひとつの初期日本SFの代表作、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』と比較するととりわけ際だっている。『百億の昼と千億の夜』は、同じように数億年単位の時を舞台にした壮大な叙事詩だが、あくまでも「ひとつの歴史」を描いている。他方で『果しなき流れの果に』では歴史の流れそのものが断片化しており、しかも物語の軸が歴史改変を阻止する父と歴史改変を試みる野々村の戦いにあるので、叙事詩が成立する余地がない。それゆえ、小説の展開は、野々村と父親がそれぞれの仲間と交わす、思想小説と見まがうばかりの会話劇に支えられることとなる。この性格が、『果しなき流れの果に』に独特の「哲学的」な印象を与えている。



3 谷川流、『涼宮ハルヒの憂鬱』、角川スニーカー文庫、二〇〇三年、七-八頁。【本文に戻る
4 この比較は随所で語られているが、最近の証言であれば、『小松左京自伝』(小松左京、日本経済新聞社、二〇〇八年)、第三章参照。【本文に戻る



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