Science Fiction

2016.12.22

沼沢洽治/A・E・ヴァン・ヴォークト『武器製造業者』訳者あとがき[全文]

縦横の糸が千変万化の形で物語に生彩を与える、ヴォークトの中でも一、二を争う楽しみにあふれた大ロマン

沼沢洽治 koji NUMASAWA


 ヴァン・ヴォークトの《イシャー》二部作はこれで完結する。ただし、第一部『イシャーの武器店』でふれたように、作品としてはこのほうが先に書かれたものである。

 SFエピックとしての作品の結構からいえば、本作は『イシャーの武器店』より、またはるかにスケールが大きい。『武器店』の物語の中心には数千年をひと飛びにする時間旅行、つまり縦の糸があるが、この作品には横の糸として、恒星間動力による宇宙旅行という空間の広がりがある(なお、時間旅行の要素も巧みに取り入れられており、ヘドロックが武器店の最高評議会と対決する場面で生かされる)。また不死人をめぐるイシャー対武器店の確執には、巨大な歴史の流れ、同じくヘドロックと超生物蜘蛛族との戦いには、壮大な宇宙の背景と、この縦横の糸は千変万化の形で物語に生彩を与え、ヴォークトの今までの作品の中でも一、二を争う楽しみあふれた大ロマンとなっている。
 しかし、舞台がただ大きいだけでは、いくらSFというレッテルつきのジャンルにせよ、作品が空疎になってしまうことは当然で、また、こういう希薄なSFというものは次から次へと大量生産され、次から次へと読み捨てられていくのだが、ヴォークトのこの作品を米国SF界の代表的名作として数えさせているものは、やはりその大きな舞台の中に展開される人間ドラマのあざやかさであり、迫力であろう。

 この人間ドラマは、イネルダ女帝と不死人ヘドロックの対立、さらに愛情という形で、作品のアクションを推進する力を供給している。美貌で冷酷、驕慢な”じゃじゃ馬”女帝と、英知抜群、たくましき男性No.1としての超人とのからみ合いは、ヴォークトの好む設定で、一九五二年刊の『宇宙嵐のかなた』にも同様のシチュエーションが見られる。しかし《イシャー》二部作においては、この設定はありがちなメロドラマのお膳立てをはるかに越えて、充分に肉づけされ、重厚なドラマの素材としてふさわしいだけの性格の起伏、発展がある。一方が数千年の歴史を持ち、今や内憂外患に苦しむ大王朝の女性統治者として、他方がその祖先でもあり、夫でもある永遠の不死人として、この二人は宿命を背負った、孤独な、英雄的人物である。たとえばイネルダが子供の生命か、自分の生命かの二者択一を迫られ、産褥でヘドロックに見守られながら息を引き取る場面には、宿命対英雄という本来の悲劇を思わせる緊張感がある。

 この二人の関係が本質的には悲劇のそれなら、これを救う蜘蛛の姿をした超生物は、いわゆる〈機械から出る神〉に相当する。この蜘蛛族はいわば機械的論理の化身であり、彼らがイネルダやヘドロックに代表される人間的な非論理の論理と対照をなすところに、この作品のもうひとつの層があって、さらに劇的価値をそえている。超生物が主人公たちを救い、銀河系を去っていく大団円は、SFとしては当然のしめくくりであるが、最後の蜘蛛の〈思考〉は作品をふたたび巨視的視点に戻し、叙事詩的な完結をとげさせる。この中に〈村宇宙〉という言葉が登場するが、sevagramというこの語は英語にはなく、ヴォークト自身に照会したところ、ガンジーの言葉から引用したもので、ヒンズー語の〈村〉を英語の綴字に改めたものとのことである。はたして英語国の読者が一読して理解できる単語かどうか、どうも疑問ではあるけれども、ヴォークトの説明によれば、「すべての村は真の意味での宇宙である。そこでは生命が時間と空間との相関性を持つにいたるからだ」というガンジーの言葉を裏にこめたこの用語は、この大SFエピックの結語として、なかなか美しい着想である。

 追記――なお作者アルフレッド・エルトン・ヴァン・ヴォークト氏は、西暦二〇〇〇年一月、八十七歳で逝去された。訳者及び氏の長年のファンの一人として、哀悼と感謝の念を付記させていただくしだいである。
(一九六七年六月、二〇〇〇年三月追記)


■ 沼沢洽治(ぬまさわ・こうじ)
1932年東京生まれ。東京大学文学部英文学科卒。主な訳書に、ヴァン・ヴォークト『宇宙船ビーグル号の冒険』『イシャーの武器店』『非Aの傀儡』、ベスター『分解された男』、クラーク『地球幼年期の終わり』ほか。2007年没。



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