SFのひとつの理想形

中村融 toru NAKAMURA


 英米SFの紹介を仕事にしていると、ある作品の評価がアチラとコチラで大きくちがっていることに面くらうことも多い。本書『宇宙船ビーグル号の冒険』などは、その最たる例といえるだろう。
 試みにジョン・クルート編著の『SF大百科事典』(グラフィック社)で作者A・E・ヴァン・ヴォークトの項目を引いてみよう。代表作としてあがっているのは、『スラン』(ハヤカワ文庫SF)、《非(ナル)A》シリーズ(本文庫)、《武器店》二部作(同前)である。
 つぎに横田順彌編著の『SF大辞典』(角川文庫)を引いてみる。代表作としてあがっているのは、『スラン』、本書、『非Aの世界』の三冊だ。
 これだけだと、たいしたちがいはないように思えるかもしれないが、オールタイム・ベストSFの投票結果をくらべれば、事態ははっきりする。資料が古くて恐縮だが、アメリカの〈アナログ〉誌一九六六年十一月号に発表された結果を見ると、ヴァン・ヴォークトの作品では『スラン』が第三位に位置しており、『非Aの世界』『イシャーの武器店』がそれぞれ十八位と二十五位に食いこんでいる。いっぽう、わが国の〈SFマガジン〉一九九八年一月号に発表された結果では、本書が十九位につけているのに対し、『スラン』は六十七位。ほかの作品はランク外だ。この手のアンケートをとるたびに、おなじような結果が出るので、ヴァン・ヴォークト作品の相対順位に関しては信用していいだろう。つまり、アチラの読者には水準作でしかない本書が、コチラでは作者の代表作として認められているのだ。
 では、なぜ本書がわが国の読者にそれほど強く支持されるのか。その理由を探っていくのがこの解説のつとめだが、その前に書誌的なデータを記しておこう。
beagle.jpg  本書は原題をThe Voyage of the Space Beagleといい、一九五〇年にサイモン&シュスター社からハードカバー(図版1)で刊行された。題名は、進化論で有名なダーウィンの名著『ビーグル号航海記』(岩波文庫)のもじり。千人近い科学者と軍人を乗せた巨大宇宙船ビーグル号が、宇宙の各地で途方もない超能力をもつ宇宙怪物(ベム)と遭遇するさまを描いた作品だが、じつは雑誌に発表された四つの中編をつなぎあわせて、加筆訂正のうえ長編仕立てにしたものである。
 参考までに、初出時のタイトルと発表誌を明記しておく。

 Black Destroyer〈アスタウンディング〉一九三九年七月号
 War of Nerves〈アザー・ワールズ〉一九五〇年五月号
 Discord in Scarlet〈アスタウンディング〉一九三九年十二月号
 M33 in Andromeda〈アスタウンディング〉一九四三年八月号

 このうち第一話と第二話は原型中編の形で邦訳されたことがあり、それぞれ「黒い破壊者」「神経戦」という題名がついていた。第三話と第四話には、とりあえず「緋色の不協和音」「アンドロメダのM33星雲」という仮題を付しておく。
 第一話「黒い破壊者」は、ヴァン・ヴォークトの記念すべきSFデビュー作である。SFデビューとわざわざ断わったのは、すでに作者が文筆業で身を立てていたからだ。実話雑誌に告白体の小説を書いたり、地元カナダのラジオ局にドラマの台本を提供していたのである。
 一九一二年にカナダのウィニペグで生まれたヴァン・ヴォークトは、十四歳のとき、創刊されてまもない〝世界初″のSF専門誌〈アメージング・ストーリーズ〉に出会い、たちまち熱心な定期講読者になった。しかし、編集長ヒューゴー・ガーンズバックが二九年に同誌を去ると講読をやめ、しばらくSFから遠ざかっていた。そんな彼をSFに呼びもどしたのは、三八年にドラッグストアでたまたま立ち読みした雑誌だった。問題の雑誌は〈アスタウンディング・サイエンス・フィクション〉八月号。この号に掲載されていたドン・A・スチュアートの「影が行く」という作品が、ヴァン・ヴォークトのSF的想像力に火をつけたのだ。
astounding.jpg  周知のとおり、この作品は同誌の編集長ジョン・W・キャンベル・ジュニアが変名で発表したもので、どんな生物にも変身できる異星の怪物が、南極のアメリカ基地にまぎれこんだ顛末を描いたSFホラーの傑作。ジョン・カーペンター監督の映画《遊星からの物体X》の原作にもなっている。それまでSFといえば、ガーンズバック流の「ボルト&ナット」小説だと思っていたヴァン・ヴォークトにとって、ムードとサスペンスで読ませるこの作品はショックだった。おまけに、なんにでも変身できる怪物というアイデアがいたく彼の興味をそそった。ヴァン・ヴォークトは、すぐに変身能力をもったロボットが登場する作品を書きあげ、〈アスタウンディング〉誌に投稿した。
 あいにく、この作品は書きなおしを命じられたが、つづく作品「黒い破壊者」はキャンベルに激賞され、同誌一九三九年七月号の誌面を飾った。人気作家C・L・ムーアの作品をさしおいて表紙絵(カバー・アート)の題材に選ばれるなど(図版2)、新人の第一作としては破格のあつかいだった。もちろん、読者にも圧倒的な好評を博し、ヴァン・ヴォークトの名前はSFファンの脳裡に刻みこまれることになった(ちなみに、この号には新人アイザック・アシモフの同誌デビュー作も載っている。こちらのほうはさしたる反響を呼ばなかった)。
 では、「黒い破壊着」の成功の秘密は、どんな点にあったのだろう。
 第一にケアルという怪物の魅力である。なにしろ、肩から太い触手を生やした大型の猫に似た生物だ。たくましさとしなやかさ、恐ろしさと美しさを兼ねそなえた「見た目のかっこよさ」に加え、高度の知性と電流電波を自在にあやつる能力をそなえているのだから、これだけでもSF史上屈指のモンスターである。しかも、ヴァン・ヴォークトはケアルの視点に立つことで、そのキャラクターを掘りさげることに成功した。したがって、この作品は――浅倉久志氏のことばを借りるなら――「凶悪な怪獣に滅びゆく種族の哀感をにじませることに成功し、それまでのおどろおどろしさだけが売り物だったモンスター小説のレベルを、はるかにひき離していた」のである。当時の読者が熱狂したのもむりはない。
 いや、熱狂したのは当時のファンだけではない。たとえば、高千穂遥氏はケアルに惚れこむあまり、その子孫を自作の《ダーティペア》シリーズ(ハヤカワ文庫JA)で活躍させているし、アイルランドのSF作家ボブ・ショウは、連作長編『見知らぬ者たちの船』(サンリオSF文庫)の第一話で「黒い破壊者」の模作(パスティーシュ)を試みた。またカナダのSFファンは、カナダSF&ファンタシー功労賞のトロフィーとしてケアルの鋳鉄像を受賞者に贈っている。これらの例に見るように、ケアルはいまだにSFファンの心をとらえているのだ。
 第二の秘密は、怪物の視点と人間の視点を交錯させた物語作り。こうすれば物語が立体的になるばかりか、両者に感情移入するので、怪物と人間の両方を応援したくなり、サスペンスも倍増する。
 第三は、両者の戦いを「知恵くらべ」として描きだしたこと。このとき重要になるのが擬似科学的アイデアの数々だ。センス・オブ・ワンダーはここから生まれてくる。
 なかでも注目されるのは、考古学者苅田(カリタ)の提唱する〈周期学説〉だ。ドイツの哲学者シュペングラーの〈歴史の循環理論〉を宇宙規模に拡大したものだが、要するに文明は直線的に発展するものではなく、春夏秋冬のように盛衰をくり返すという考えかた。苅田はこの理論を基にケアルの行動を予測することになり、あざやかな結末を用意する。この時点でヴァン・ヴォークトが、社会科学的なアイデアをSFに導入したことの意義は、もっと強調されていい。アシモフの有名な〈SF発展三段階説〉にしたがえば、アメリカSFは「冒険主流」時代をぬけ出して、やっと「科学技術主流」時代にはいったばかりだったからだ(「社会科学主流」になるのは五〇年代以降である)。
 第四に、濃密なSFムードをかもしだすテクノ・ポエティックな文体。「機関室の原子炉から出る激しい脈動が、楽しい声となってケアルの神経に語りかけてきた。電動ダイナモは力強い歌を低い声でうなり、檻の壁に張りめぐらされた電線と、ドアの電気錠を流れる電流が、彼にそっとささやきかける」(本書P44)というような文章は、当時としてはきわだって斬新なものだったはずだし、現在でも魅力を失っていない。
 これらの要素が密接にからみあって、「黒い破壊者」はSF史に残る傑作となった。なかでも重視されるのが第二の点だ。多くの論者が、「怪物の視点に立った物語作り」をヴァン・ヴォークトのオリジナリティとして高く評価している。
 だが、水鏡子氏が喝破したように、それは「SFという狭い世界のなかにおいて、類例を見ないというだけのこと」だった。氏は、ヴァン・ヴォークトが無意識のうちに『シートン動物記』に影響されていたと推測し、つぎのように書いている――
「怪物/動物の側から物語を書くということだけではない。こ一流の動物学者であり文学者だったシートンが、その小説のなかで共存させた文学性と科学性、そうした視点を自分のものとしたうえで、シートン/ヴァン・ヴォークトの視点からキャンベルのサスペンスフルな代表作のプロットを語りなおしてみせたのが『黒い破壊者』だったと考えることはできないか」
 この推測はおそらく正しいだろう。シートンがカナダ出身であること、ヴァン・ヴォークトが『スラン』執筆のさいに、シートンの作品をヒントにしたことなどが傍証となる。つづけて氏は、動物の視点に立った物語を読むことが、人類を種として見ることの訓練につながっていくと述べ、SF的思考との類似を指摘しているが、これは卓見というべきだろう。ヴァン・ヴォークトのSF感覚は、シートンを読むことで培われたのかもしれない。ともあれ、「黒い破壊者」はシートンの手法でキャンベルのプロットを語りなおしたものといえる。
 と書くと、まるでけなしているようだが、そうではない。新しいものはつねに換骨奪胎から生まれる。筆者はヴァン・ヴォークトの才能に脱帽しているのだ。
 ヴァン・ヴォークトのSF第二作は、本書の第三話に組みこまれた「緋色の不協和音」だった。ビーグル号を乗っ取ろうとする超生物イクストルと人間との必死の攻防を描いた作品で、テーマ的にも手法的にも前作をグレード・アップしたものだ。
 この作品についてはおもしろいエピソードがある。
 リドリー・スコット監督の《エイリアン》といえば、だれでも知っているSFホラー映画の傑作だが、一九七九年に公開されたとき、ヴァン・ヴォークトが映画会社を相手どって訴訟を起こした。宇宙船内に侵入した異星の怪物が、つぎつぎと乗組員をさらって卵を産みつけるというプロットが、自作「緋色の不協和音」の盗用だというのだ。けっきょく映画会社が折れ、ヴァン・ヴォークトに五万ドルを支払うことで示談になった。
 たしかに、プロットだけをとれば、この作品と《エイリアン》はよく似ている。だが、受ける印象はかなりちがう。原因は、(1)物語がイクストルの視点からも語られていること(つまり、恐怖を描くことが主眼ではない)、(2)怪物と戦うさいに苅田の〈文明周期学説〉が重要な役割をはたすこと、の二点である。要するに前作の長所とおなじだが、逆にいえば、このふたつの要素がヴァン・ヴォークトの作品を特徴づけているといえる。
 いま「ヴァン・ヴォークトの作品を特徴づけている」と書いたが、厳密にいえば、これは正しくない。というのも、この二作は、のちの作者の作品とは肌合いを異にしているからだ。
 一般にヴァン・ヴォークトの作品といえば、ゴシック建築の立ちならぶ石畳の都市の上空にロケットが飛ぶといったアナクロニズムの権化のような舞台設定、生まれつきすさまじい能力を秘めたミュータントに代表される超人志向のキャラクター、時空をゆがめるほど錯綜したストーリーなどの要素が渾然一体となったものとしてイメージされる。その典型が《非A》シリーズ《武器店》二部作であることはいうまでもない。したがって、科学者集団と異星の怪物との戦いに焦点を絞ったこの二作は、ヴァン・ヴォークトらしくないということさえできるのだ。おそらく、その原因は、作者が編集者のキャンベルを強く意識していたことにある。その意味でこの二作は、キャンベルとの無意識の合作と見ることができるだろう。要するに、ヴァン・ヴォークトの個性は抑え気味で、キャンベルの作りあげたSFの文法が前面に出ているのだ。本書が熱心なヴァン・ヴォークトのファンには物足りず、SF初心者に歓迎されるのは、このあたりに理由があるのだろう。
 本書の第四話にあたる「アンドロメダのM33星雲」は、三年半ほどあいだを置いて執筆された。この間にヴァン・ヴォークトは、『スラン』『武器製造業者』といった長編や、数多くの中短編を発表しており、同時期にデビューしたハインラインやアシモフとならぶ一流作家としての地位を不動のものにしていた。傑作ぞろいのなかで、この作品はマイナーなものとみなされたようだ。じっさい、銀河をおおいつくすほど成長した無定形生物アナビスとの対決を描いた本編は、風呂敷を広げすぎた感があり、アイデア倒れに終わっている。
 第二話「神経戦」が書かれたのは、さらに時間を置いて『字宙船ビーグル号の冒険』を一冊にまとめる構想がもちあがったころ。リーム人のテレパシー文明に接触したビーグル号内が、大混乱におちいるといった内容だが、ほかの三作と毛色がちがっているのがおわかりだろう。具体的にいえば、まず催眠術に強い関心を見せていること(洗脳をはじめとする人心操作の問題は、この時期のヴァン・ヴォークトにとって主要な関心事だった)。つぎに科学者同士、というか研究部局間の権力争いが前面に出てきていること。ビーグル号と宇宙怪物との戦いを本書の横糸とすれば、これは縦糸にあたる。  このときクローズ・アップされるのが、本書の主人公エリオット・グローヴナーと、彼が身につけている〈総合科学(ネクシャリズム)〉だ。
〈総合科学〉とは、専門分化が進みすぎて、深刻な視野狭窄におちいっている諸科学の橋わたしをするために創設された学問であり、その実態は――笠井潔氏のことばを借りれば――「社会学、心理学、教育学といった社会・人間科学諸分野を統合したもののように思われる。なかでもとくに、睡眠教育法が中心になっている。これを使って、近代科学のあらゆる成果を情報として頭につめこんでしまおうというのである」ということになる。船上でただひとりの総合科学者(ネクシャリスト)グローヴナーは、ビーグル号の危機にさいして諸科学の成果を柔軟に結びつけ、専門家からは絶対に出てこない発想で船を救うことになるわけだ。
 もっとも、学際的な未来学を予告したとして世評が高いわりに、〈総合科学〉のイメージはいまひとつはっきりしない。独自の哲学や方法論が示されず、いきなり宇宙怪物との戦いや船内の権力闘争の場で使われる「技術」として出てくるのだ。いや、正確を期すならば、ベムとの戦いで効力を発揮するのは、むしろ苅田の唱える〈周期学説〉であって、グローヴナーの〈総合科学〉は、もっぱら権力闘争を勝ちぬくための武器となっている。いったいこれはどういうことだろう。
 答えはあっけないほど簡単だ。じつは「黒い破壊者」発表の時点では、グローヴナーと〈総合科学〉は影も形もないのである。したがって、ケアルとの戦いでは科学者たちが集団として機能し、あざやかな連係ぶりを見せていた。〈周期学説〉は、そんな連係の一環として出てきていたのだ。
 とすると、個々のエピソードのレベルでは、グローヴナーと〈総合科学〉の出る幕はないことになる。だが、本書では両者が大きな役割をはたしている。このちがいは、いったいどこからくるのだろう。
 第一に考えられるのは、長編としてのプロットをささえる主人公が必要になったということ。さきほど指摘したように、ヴァン・ヴォークトは本書の縦糸に「部局間の権力争い」というプロットを採用した。当然、この過程でのしあがっていく人物が主人公になる。そして彼が成功をおさめるには、バラバラになりがちな諸科学をひとつにまとめる能力が要求される。こうしてエリオット・グローヴナーと〈総合科学〉が生まれたのだろう。ある意味で、グローヴナーはビーグル号の機能を一身に集約した人物なのである。
 第二に考えられるのは、ヴァン・ヴォークトの興味が、怪物と人間の戦いより「人間同士の権謀術数」に移っていたこと。『スラン』《武器店》二部作を読めばわかるが、これはヴァン・ヴォークトのなかでしだいに比重が大きくなってきた問題である。ただし本書では、時代錯誤的なゴシック調の未来を舞台に、超人同士が秘術をつくすという形ではなく、巨大組織の内部抗争という形で描かれている。そこが非常に現代的であり、また身近な問題として読者に迫ってくるのである。
 そろそろ冒頭で提出した疑問に答えるべきだろう。なぜヴァン・ヴォークトの作品のなかで、本書だけがわが国の読者に強く支持されるのか、という疑問だ。
 答えは本書の重層性である。宇宙探険にまつわるスペースオペラ的なロマンチシズム、ベムの描写に見られるホラー・タッチ、〈周期学説〉に代表される科学的なセンス・オブ・ワンダー、集団の力学を描くメイン・プロット。とくに最後の要素のおかげで、本書はヴァン・ヴォークトの作品としては類を見ない現代性とスマートさを備えることになった。それはヴァン・ヴォークト特有のアクが少ないということだが、逆にいえば、作家の個性とSFというジャンルの文法がバランスよくかみあっているということになる。わが国のSFファンは、本書にSFのひとつの理想形を見ているのである。 (1999年9月)



■ 中村融(なかむら・とおる)
1960年生まれ。中央大学卒業。SF・ファンタジイ翻訳家、研究家、アンソロジスト。主な訳書に、ウェルズ『宇宙戦争』『モロー博士の島』ハワード《新訂版コナン・シリーズ》など、また主な編著に『影が行く』『地球の静止する日』『時の娘』『時を生きる種族』《奇想コレクション》シリーズ(河出書房新社)などがある。