日本初の世界SF大会Nippon2007でヒューゴー賞を受賞、
ローカス賞との二冠を達成した傑作の登場

(09年4月刊 ヴァーナー・ヴィンジ『レインボーズ・エンド』解説[全文])

向井淳 jun MUKAI

 

 本書はヴァーナー・ヴィンジ7年ぶりの新作となる長編Rainbows Endの全訳である。本作品は2006年に発表され、翌2007年には日本で初めて開かれたワールドコン(世界SF大会)Nippon2007でヒューゴー賞を受賞した。またこれに先だって、アメリカのSF情報誌〈ローカス〉の読者が選出するローカス賞も受賞している。

 時は西暦2030年代、場所は南カリフォルニア。この時代、特殊なコンタクトレンズと衣服を身につけることで、現実世界の上にコンピュータの作り出したイメージをオーバレイする拡張現実感(AR)の技術が極めて発達していて、現実の風景に様々な映像を重ね合わせるだけでなく、触覚的な効果すら模倣することが可能になっている。
 また、現代よりもコンピュータ・ネットワークがはるかに発達しているのも大きな特徴。帯域も圧倒的に広いし、なにより基本的にどこで何をしていてもネットワークに接続できるユビキタスな環境が整備されている。もちろんこうした技術の変化は人々の行動や社会にも大きな影響を及ぼしており、たとえば会話の途中で分からない単語や知らない言葉が出てくれば誰でもグーグルで検索して調べるし、今言おうとしている言葉ですら検索して言う、ということがすっかり身についている(それでもテストでは検索が禁止されているのはご愛嬌。今でもテスト中は携帯電話の電源を切ったりするが似たようなものですね)。また、実際に顔を会わせて会話をすることもあるが、アバターを飛ばしてオンラインでチャットするのも同じぐらい使われるか、あるいはチャットの方が好まれるぐらい。またみんなで会話をしていても授業を聞いていても、裏では互いに互いへサイレント・メッセージという、今でいうインスタント・メッセンジャーかtwitterのようなもので囁きあう。

 物語はサッカーの観戦者たちの奇妙な行動の報告から幕を開ける。この報告から人間の行動に影響を及ぼす細菌兵器、という可能性に気づいたインド・ヨーロッパ連合の諜報機関では、ウサギという名のハッカーを雇って調査を開始する……とはいえ、本作品の主な読みどころは国際的な謀略や謎のハッカーの暗躍といったところには存在しないのではないかと思われる。本作品の主人公の一人は、重度のアルツハイマー症から復帰した老人、ロバート・グー。彼は世の中のあまりの変化に戸惑いながらも、若者たちと社会復帰しようとしている老人たちが一緒に学ぶフェアモント校に通ったりしながら、次第にテクノロジーの発展したこの世界に順応していく。この南カリフォルニアの日常を描く中で明らかになっていくこの世界そのものこそが読みどころだ。
 ヴィンジの描く近未来社会は、ただしほかの先行するSF作品と比べると、妙に先鋭的だったり異様なところがあまりなく、私たちの今の社会からの飛躍がそれほどない。コンタクトレンズを使った拡張現実感にしても、コンピュータ・ネットワークの発達にしても、ユビキタス・コンピューティングを実現するようなインフラストラクチャにしても、それらを土台とした情報検索やコンピュータによる情報処理に依存した生活にしても、もちろん私たちの現在のテクノロジーだけで実現できるわけではないのだが、現在のテクノロジーからの考察としては非常に堅実で納得しやすいものになっている。もしかすると、ちょっとインターネットやこうしたテクノロジーに興味を持っている人ならむしろ確かさゆえに面白くないとすら感じるかもしれないほど。
 誤解して欲しくないのだがSFの役割は未来予測ではないし、いかに確かな発想に基づいていると言っても本作品で描かれているとおりに技術が発展するということはありえない。もちろんヴィンジ本人も、未来の社会がこうなるに違いないという予想を描いているわけではないだろう。本作品で描かれるのは、むしろこうした世界観にリアリティを感じる私たちの「今」なのである。そういう「今」の感覚をみごとに切り取り、小説の上に構築することに本作品は成功している。そして10年か20年経って改めて本作品を読み返したときには、予測が当たった外れたといった瑣末な事柄を超えた「当時のリアリティ」に思いを馳せることになるだろう。ちょうど30年近く前に発表された『マイクロチップの魔術師』(新潮文庫)を今読むことが、そのような機能を持っているように。

 もうひとつ、ヴィンジのテーマの一つである〈特異点〉と本作品との関わりについても述べておこう。
 〈特異点〉とはヴィンジがエッセイ(邦訳は〈SFマガジン〉2005年12月号に「〈特異点〉とは何か?」というタイトルで掲載された)で90年代初頭に提唱した概念である。英語ではtechnological singularity(技術的特異点)といわれることが多い。最近では発明家のレイ・カーツワイル氏の著書が翻訳されたり活動が紹介されたりしているので、そちらの方でご存じの方も多いかもしれない。
 〈特異点〉の基本的な考え方はこうだ。コンピュータの性能はどんどん向上しているが、このまま続けばある時点で機械(または機械と人間の複合体でもいいが)は人間の知能を本質的に上回ることになる。すると、そうした存在は自分の知能よりもさらに優れた知能を生み出す能力を持っていることになるから、知能が加速度的に発達し、急速に人間には太刀打ち出来ない存在となり、その結果として人類の歴史は終焉を迎えることになるだろう。
 このような考え方や、あるいは〈特異点〉という単語そのものは、ヴィンジのエッセイ以降、英米のSF作品に様々な影響を与えている。作中で〈特異点〉という単語が言及されたり、過去そのような事象があった後に取り残された人類を描いた作品などもある。
 ところが、実際に〈特異点〉そのものを描いたSF作品というのは意外と少ない。そもそも人間の理解を絶しているというのが〈特異点〉の定義なのだから描くことは原理的に出来ないという気もする。ただ本作品では、人類が〈特異点〉に遭遇する少しだけ前の時代を舞台として設定し、社会の変化はどんどん加速していき、技術もどんどん発展していくという、〈特異点〉に漸近していく様が正面から描かれる。稀有な作品である。

 本作品の著者ヴァーナー・ヴィンジは1944年生まれ。本職はサンディエゴ州立大学の数学教授だったが、既に退官している。
 ヴィンジは〈ニュー・ワールズ〉誌1965年6月号に「居留区」(ハヤカワ文庫SF『忘却の惑星』所収)。69年には最初の長編 Grimm's World、76年には第2作The Wiltingを発表した。
 もっとも、ヴィンジの名が一躍有名になったのは1981年に発表された中編『マイクロチップの魔術師』以降だと言われる。この作品はコンピュータが接続したネットワーク上に腕利きのハッカーたちがコミュニティを作って活動しているという、サイバースペースを舞台にした先駆的な作品である。今からするとなんとも当たり前なことに感じられるかもしれないが、81年当時、誰でも接続できるコンピュータ・ネットワークそのものが全世界を覆うというビジョンそのものがSFだった。ちなみに、先に挙げた「〈特異点〉とは何か?」は1993年に発表されたが、その内容もこの『マイクロチップの魔術師』と深い関係がある。
 その後ヴィンジは1992年『遠き神々の炎』でヒューゴー賞を受賞。そしてその7年後の1999年に刊行された『最果ての銀河船団』(どちらも創元SF文庫)でもまたヒューゴー賞を受賞した。この二作品は遠未来を舞台にした壮大なスケールのスペースオペラのシリーズである(もっとも、シリーズと言ってもどちらも独立した作品として順不同に読める)。
 このほか中短編作品も発表し続けており、とくに〈アナログ〉誌2003年10月号に発表された「クッキー・モンスター」でもヒューゴー賞ノヴェラ部門を受賞。また22001年に刊行した短編集The Collected Stories of Vernor Vingeにも“Fast Times at Fairmont High”という中編を書き下ろしとして発表し、これも2002年のヒューゴー賞のノヴェラ部門を受賞した。タイトル中のFairmont High(フェアモント・ハイ)という単語でピンときた方もおられるかもしれないが、これは本作品と同じ設定の中編である。また、本作品と同じ設定の作品には、もう一つ“Synthetic Serendipity”というタイトルの短編もある。こちらはIEEE SpectrumというIEEE(米国電気電子学会)の学会誌に発表された変わり種。どちらも舞台や設定、登場人物の一部などが本作品と共通している。本作品には、ちょっとだけ登場してあまり活躍しないキャラクターがいて、お読みになって「結局この人はどうなったんだろう」と疑問に思った方もあるかもしれないが、実はこちらの作品の方で活躍しているのである。

 作中の設定は親切に解説されているので概ね読めばわかると思うが、ビリーフ・サークルについてはちょっと説明をしておこう。既に述べたように、コンタクトレンズを装着した人の視界内には、実際の風景にイメージが重ね合わされ、全く違った視界を提供する。この世界では、オーバレイするイメージは、たとえばテレビのように少数の制作者が一方的に供給するだけではなくて、その場にいる人は(いない人でも)誰でも自由に加工したり付け加えたりすることができる。だから下手をするとイメージがぐちゃぐちゃになって収拾がつかなくなったりもしそうだが、ある種の集団がひとつの統一的なテーマを元にイメージを構築していることが多い。こうしたグループのことをビリーフ・サークルと呼ぶ。ビリーフ・サークルは今のウェブ上の活動のように様々な形態で存在しているが、その活動はみんなの注目を集めるということが主な目的のようである。
 また、本書で言及されている範囲ではビリーフ・サークルのつくるイメージは主にフィクションがベースとなることが多いようだ。架空の作家の名前も多いが、ヴィンジは実在の作家の名前もばんばん出している。たとえばH・P・ラヴクラフトやテリー・プラチェットなどが言及されているし、スピルバーグ/ローリングというのも出てきたが、もちろんスティーブン・スピルバーグとJ・K・ローリングのことだろう。また、作中には「イーガン・サッカー」という謎めいた競技をプレイしているビリーフ・サークルがあるが、これはグレッグ・イーガンの「ボーダー・ガード」『しあわせの理由』ハヤカワ文庫SF所収)に登場する量子サッカーが元ネタである。

 最後に、物語の結末まで読んだ読者向けに、あるキャラクターについての筆者自身の考えを少し述べておきたい。そのキャラクターとはもちろん、ウサギのことである。以下はあくまでも筆者の見解だが、ひとつの考え方としてお読みいただければ幸いである。
 物語の結末で暗示されているように、ウサギは本作品で描かれた事件によって大きく変化し、おそらく最終的にポストヒューマン(〈特異点〉に到達し人類を超越した知能を持つ存在)となるのだろう。ただ、あくまでも筆者の考えだが、ウサギの正体は作中で一部のキャラクターが疑うように人工知能ではないだろうと考えている。その根拠は、と問われると困るのだが、あえて言えば作中にわざわざそのような示唆があるだけで明示されないのは何か裏があるからではないか。また、筆者にはどうしても、ヴィンジ自身の〈特異点〉のエッセイの一節が思い出されるのである。

……コンピュータ・ネットワークやマンマシン・インタフェースは、AIよりも平凡のように思えるが、それでも〈特異点〉へと導くことができる。この対照的なアプローチを知能増強(Intelligence Amplification:IA)と呼ぶことにしよう。IAは多くの場合で開発者にはそれがなんであるか認識すらされないくらい自然に進行するだろう。しかし我々の情報にアクセスし通信する能力が改善されると、ある意味で我々は自然な知性の強化を実現できるのである。(「〈特異点〉とは何か?」拙訳)

 ウサギはAIではなくてIAなのではないだろうか。
 ウサギ自身の正体は謎であり、主要な登場人物であるわりにウサギが視点となることはほとんどない。ただ、その数少ない描写はいささか人間臭いところがある。少なくとも、読者に提示されている描写を読む限り全く自動化されたプログラムであるという気はしない。もっとも、IAというのは単に人間がすごいシステムを使っているというだけの話ではなくて、人間の知能とコンピュータの能力とがもっと高度に統合された状態を指していると筆者は理解している。
 その意味では、ウサギはもともとはIAではなかったのだろうと思われる。すくなくとも、物語の始まった当初のウサギはギュンベルク・ブラウンが評したように大したことのない腕前のクラッカーに過ぎなかったのだろう。立場は人を成長させるというが、本作品で起こった事件に巻き込まれることでウサギは急速に多くのことを学び、成長した。というより、そうすることができる位置にたまたま居座ることができた。誰が意図したというわけでもなく、たまたまそこに居合わせた結果として、ひとりの人間とその人物の使うコンピュータ・システムが統合されることで生まれたIAがクライマックスの時点のウサギであり、つまり本作品はIAによるポストヒューマンが生まれるという誕生譚なのではないか、というのが筆者の邪推である。
 いずれにせよ本作品は、様々な謎が明かされないまま結末を迎えているため、この手のことについては結論を出しようがない。実際、すべての謎が明かされていないためにヴィンジは本作品の続編を書くつもりじゃないかという噂もあるようだ。続編がどのような作品になるかとか、そもそも続編が書かれるのかどうかすらまだ分からないが、書かれるとすればそのときには筆者が述べてきたような点については決着がつけられるんじゃないかと期待している。
 でもそれもまた7年後、ということにならなければいいんですが。
(2009年4月)

■ 向井淳(むかい・じゅん)
1979年生まれ。ソフトウェアエンジニア、たまにレビュアー。http://www.jmuk.org/diary/ をのんびりと更新中。