Science Fiction

2015.05.08

牧眞司/フィリップ・K・ディック『ヴァルカンの鉄鎚』(佐藤龍雄訳)解説全文[2015年5月]

「ディックSF、これぞ最後の一撃!」(2015年5月刊『ヴァルカンの鉄鎚』解説[全文])

牧 眞司 shinji MAKI


ヴァルカンの鉄鎚
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 本書は一九六〇年に刊行されたフィリップ・K・ディックの長編Vulcan's Hammerの全訳である。原書初刊はエースのダブルブック(ふたつの作品が背中合わせに製本され両面に表紙絵がついている)で、ジョン・ブラナーのThe Skynappersとのカップリングだった。
 タイトルの「ヴァルカン」とは超高性能の巨大コンピュータだ。初代〈ヴァルカン〉の開発は一九七〇年とされ、作中では「第一次核戦争の初期」と説明している。ディックが本作を執筆していた時期は冷戦下で東西両陣営が核兵器開発にしのぎを削っており、この設定には切実なリアリティがあった。作中の歴史では一九九二年に第一次核戦争が終わり、世界連邦(ユナイティ)のもとで新秩序が構築される。翌九三年に最新の〈ヴァルカン三号〉が造られ、すべての政策決定がこのコンピュータに委ねられた。ちなみに〈ヴァルカン三号〉は「米・ソ・英の共同開発」とされているが、これは現実の歴史で核兵器開発をおこなった最初の三ヶ国だ。
〈ヴァルカン三号〉を不動の頂点とする社会は、表向きこそ平和だが人間性を疎外するものだ。パトリシア・S・ウォリックは『サイバネティックSFの誕生』(ジャストシステム)のなかで、〔この長編はディックにとって、全体主義による統治をテーマとしたその後の長編小説群、とりわけ『高い城の男』(一九六二)の準備段階にあたる作品〕〔戦争機構、政治機構、経済機構。これらはディックにとって重要なテーマとなっている。『ヴァルカンの鉄鎚』は、厳密な機構にがんじがらめになって組織の犠牲となっている人間をディックがはじめて長編という形で検証したものであった〕(斉藤健一訳)と指摘する。
 全体主義ディストピアを描いた作品は多いが、本書はディック一流のひねりが凝らされている。体制をくつがえそうと行動を起こすのは、良識ある知識人や実直な民衆などではなく、胡散臭い〈癒しの道〉教団なのだ。彼らは血なまぐさい破壊活動さえ辞さない。それに対し、世界連邦側も一歩も引かない。とくに物語中盤では派手なドンパチが繰り広げられる。
「国際政治の覇権を握る秩序主導者」と「宗教的基盤を持つ反社会集団」との市街地における武力衝突。つい調子に乗って「二〇一〇年代の現実を予見した作品!」と旗を振りたくなる。なにしろディックは登場人物に暴虐の正当性を開陳させているのだ。いわく、「反体制(教団)も体制(〈ヴァルカン三号〉)も人を殺しているが、前者はそうするしかないから仕方なくやるのであり、後者はただやりたいからやっている」。もちろん、これは詭弁にすぎない。しかし、それを無邪気に信じてしまう罪なき魂(幼い登場人物)がおり、それこそが問題なのだ。教団指導者フィールズの娘マリオンは、教師が押しつける体制的思想を鵜呑みにしている同級生たちとは違い自主独立の精神を備えているが、無垢ゆえの過激さもある。個性が光る名脇役と言えよう。
 それに引き替え、主人公のウィリアム・バリスは地味だ。世界は十一の地区に分けられそれぞれの施政を弁務官が担当しているが、バリスは北部アメリカの弁務官である。弁務官は高級官僚だが、しょせん〈ヴァルカン三号〉の言いなりに動くしかなく、最高位の統轄弁務官を目ざして足の引っ張りあいをしている。そのなかでバリスはいちおうの節度を保っているとは言え、まあヒーロータイプではない。こういう一介の人物が異様な事態に巻きこまれていくのも、抑鬱的世界を描くうえでのディック特有の手法だ。
 かたや、敵(かたき)役である〈ヴァルカン三号〉の存在感は際立っている。とくに前半部は人びとの会話のなかに示されるだけで、その実体や所在が明らかにされない。「ヴァルカン」という響きにもラスボス感が漂う。SFで「ヴァルカン」と言えば、まっさきに思い浮かぶのは人気の映像作品「スタートレック」(一九六六~)の登場人物ミスター・スポックの出身惑星だが、このドラマ放映以前から架空惑星の名称としてしばしば用いられてきた。さらに遡れば、実際の天文学において、水星より内側の公転軌道を巡る想定上の惑星をヴァルカンと呼んでいた。太陽に近い惑星がそう呼ばれたのは、もともとのヴァルカンが火の神だからだ(「スタートレック」のヴァルカンも地球より高気温の過酷な環境だ)。
 ヴァルカン(ウルカヌス)はローマ神話に登場する神だが、ギリシャ神話の鍛冶神ヘーパイストスと同一視されることが多いため、しばしば鎚(つち)を持った姿で想像される。本書『ヴァルカンの鉄鎚』の原型となった同題のノヴェラ(長めの中編)が〈フューチャー・サイエンス・フィクション〉第二十九号(一九五六年四月)にカヴァーストーリーとして掲載されたときは、まさにそのイメージどおりの表紙絵がついていた。画家はこの前年、ヒューゴー賞に新設された画家部門を受賞した(彼はこれを皮切りに四回連続で同賞を獲得している)フランク・ケリー・フリース。この作品はのちに何人もの画家が表紙を描いているが、ぼくはこの最初のフリースのイラストがいちばん雰囲気に合っていると思う。ネットで「Freas Vulcan」をキーワードに画像検索すればすぐにヒットするので、興味があるかたは確認してみてください。ちなみにフリースが描くヴァルカン(擬人化されたイメージ)は左利きだ。トリヴィアついでに付け加えると、六〇年のエースダブル版の表紙はエド・エムシュウィラーの担当(これについては後述)、七二年刊行のエース版(ダブルブックではなく、この作品が単独で収録された)ペイパーバックではふたたびフリースが表紙絵を担当している。この再刊版のイラストは残念ながらあまり良くないが、やはり擬人化されたヴァルカンがフィーチャーされていて、こちらも左利きだ。なにか謂(い)われがあるのかもしれない。
 閑話休題。さて、本書はディックのSFでは最後の未訳作品である(→註参照)。これほどまでに紹介の進んでいる海外SF作家は珍しい。長編については、最初の『偶然世界』(一九五五年)から歿後(ぼつご)出版の『アルベマス』(八五年)まですべてが、創元SF文庫、ハヤカワ文庫SF、サンリオSF文庫、ちくま文庫で訳出されている。なかには絶版もしくは品切れのものもあるが、最近は新訳や再刊の動きもあり新しい読者もディックに接しやすくなってきて、まことに喜ばしいかぎり。短編に関しても、英米で編まれたものと日本で独自編集されたものをあわせてこれまで何種類も作品集が出版されており(重複して収録されている作品も多い)、ほとんどが網羅されている。あえて未訳を探すならばのちに長編化された作品(中編)の雑誌掲載版だが、そこまで追うのはもう文献研究の領域なので、むしろ原文にあたってテキスト比較をすべきだろう。
 というわけで、これまでずっとディックにおつきあいくださった愛読者のみなさんには、とりあえず本書が最後のお披露目。心ゆくまでご堪能あれ。一部には「ディックが死んで三十年だぞ! 今更初訳される話が面白いワケないだろ!」との意見もあるけど(施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』)、まあ、そう言わず読んでみてください。
 解説担当の欲目抜きにして、ぼくはだいぶ楽しめた。ディックの最高傑作は『火星のタイム・スリップ』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』など一九六〇年代中・後期の長編だと思うが、生活費捻出のため力任せに書いた作品にも捨てがたい味がある。すでに本文庫で出ている『未来医師』『空間亀裂』などを面白く読んでくださった読者ならば、この『ヴァルカンの鉄鎚』にもきっと大喜びなさるはずだ。ディックはやっつけ仕事でさえ(いや、むしろやっつけ仕事だからこその)ディックらしさが横溢している。
 繰り返しになるが、なんといっても〈ヴァルカン三号〉の異様なイメージが素晴らしい。圧倒的な演算性能を有しているうえに、次々にデータを蓄(たくわ)えて進化していく。人間なら堪えられない外界から孤絶した暗い場所にいながら、世界の現実を鮮明に描く能力を研ぎすませているのだ。もはや人智の及ばぬ神託装置と化している。そのうえ現代SFに描かれるようなスマートな機構ではなく、動力源、真空管、鋼管、導線、変圧器、自律性の機械類を周囲に配した重機械で、それ自体が放電までするのだ! その怪しげな超科学の威容は、A・E・ヴァン・ヴォークト『非(ナル)Aの世界』のゲーム機械に匹敵する。
 イメージだけではない。テーマの面でも〈ヴァルカン三号〉は重要だ。人間に反乱するコンピュータ、人間を支配する機械という図式は、パルプ雑誌に掲載される娯楽SFでさんざん扱われてきた題材だが、ディックはそこに根源的な恐怖を重ねあわせる。この作品ではまだ萌芽だが、それがのちのち「この宇宙に存在するものすごく冷たいもの=機械」なる強迫観念へと発展していく。
 もっとも、この作品の面白さを担っているのは、〈ヴァルカン三号〉本体ではなく「鉄鎚」のほうかもしれない。なんと「ヴァルカンの鉄鎚」は譬喩表現ではないのだ! これから読むひとの興をそぐので詳しくは言えないけど、当の場面では「そのまんまやないかいっ」とツッコミたくなることうけあい。ちなみにエースダブル版の表紙絵(エド・エムシュウィラー画)には問題の鉄鎚がばっちり描かれている。作品を読む前に画像検索すると、いろいろな意味で残念なことになるのでご注意を。物語進行では場面転換が多く、昔懐かしい連続活劇的なテンポの良さがある。「絶対絶命の危機一髪! この続きは次章を刮目して待て」みたいな。まあ、だれかとだれかが争ったり二つの勢力が鍔迫(つばぜ)り合いをしたりで物語が膠着状態に陥ると、どこからともなく(!)剣呑な横槍が突入してくる展開はちょっとイージーだけど、それもまたご愛嬌だ。
 テンポの良さだけではなく重苦しいサスペンスもある。登場人物はみな疑心暗鬼に囚われており、人類の最高地位にあるディル統轄弁務官ですら、部下に追い落とされる不安と、得体の知れぬ〈ヴァルカン三号〉に仕える重圧と、体制の転覆をもくろむ敵の脅威に苛まれている。ディルに次ぐ地位にある各地区弁務官十一人も、先述したように互いに足の引っ張りあいをしている。スキャンダルをほじくりかえし、隙あらば相手を陥れようと術策をめぐらせ、スパイ行為など日常茶飯事。職務よりもそちらが優先となり、ライバルを蹴落とすために反乱分子さえも利用する。主人公のバリスは誰が味方なのか、誰の言葉が信用できるのか、つねに不安定な状態にある。逆に、敵と思っていた相手の力を借りる場面も出てくる。そんなふうにストーリーにはいくつものドンデン返しが仕掛けられている。とくに十二章の最終場面で明かされる〈癒やしの道〉教団の起源に驚愕必至だ。
 人物造型については先ほども少しふれたが、いちばん注目すべきキャラクターは主人公を魅了するファム・ファタル、黒髪のレイチェル・ピットだ。黒髪の女性は作者ディックの偏愛であり、実生活においてもこのタイプに心を惹かれることが多かった。ディックの愛読者ならば、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の女性型アンドロイドの名前がレイチェルだったことを覚えておいでだろう。本書のレイチェルは内面性(精神的に不安定)も含め、その原型といってよい。欲を言えば、せっかくの謎めいたキャラクターなのだから、もっとストーリーに絡んだほうが良かった。まあ、そうした艶(つや)を醸しだす余裕は、この作品を書いていた当時のディックにはなかったのだろうが。原稿料を稼ぐためにマシンガンのように作品を書きまくっていた時期である。その代わり、物語の終盤に明かされるレイチェルの身の上はかなり衝撃的で、ヴァン・ヴォークトの代表作(『非A』とは別の。これからお読みになるかたのために作品名は伏せておこう)を彷彿とさせる。ディックはこの先輩作家を尊敬していたので、あるいは意図的になぞったのかもしれない。

[註]ただし、かつて「バルカンの鎚(ハンマー)」としてSF誌〈月刊バルーン〉に訳出が試みられており、休刊によって途絶した(一九七九年九月号~十二月号。翻訳は都筑明名義だが、これは美術・映画評論家の滝本誠氏の筆名)。また、アマチュア出版で『ヴァルカンズ ハマー』(荒川水路訳、二〇一三年)が刊行されている。

■ 牧眞司(まき・しんじ)
1959年東京都生まれ。東京理科大学工学部工業化学科卒。SF研究家・文芸評論家。書評や文庫解説を多数手がける。著書に『世界文学ワンダーランド』ほか、訳書にマイク・アシュリー『SF雑誌の歴史 パルプマガジンの饗宴』『SF雑誌の歴史 黄金期そして革命』、編著に『ルーティーン 篠田節子SF短篇ベスト』『柴野拓美SF評論集』、また大森望との共編で『サンリオSF文庫総解説』がある。
(2015年5月8日)



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