Science Fiction

2013.02.05

牧眞司/フィリップ・K・ディック『空間亀裂』(佐藤龍雄訳)解説全文[2013年2月]

「むやみなアイデア、やりすぎのチープ、めくるめく混乱」
(2013年2月刊『空間亀裂』解説[全文])

牧 眞司 shinji MAKI


 本書は、一九六六年に単行本出版されたフィリップ・K・ディックの長編The Crack in Spaceの全訳である。初刊本の版元は大衆娯楽路線のペイパーバックSFを継続的に出版していたエース・ブックス。ディックにとっては第一長編『偶然世界』(五五年、邦訳はハヤカワ文庫SF)以来、つきあいの深い出版社だ。
 ディックはこの作品において、黒人アメリカ大統領の誕生を四十年以上も前に予見し、同国の抱えた外交や軍事の問題をスペキュラティヴに描いている。現実のバラク・オバマ大統領は「核兵器なき世界」の実現に向けた国際的な働きかけが評価され、二〇〇九年にノーベル平和賞を受賞しているが、『空間亀裂』でもいかに核戦争を回避するかがいちばんの山場となる。経済政策面などで批判にさらされたオバマ政権だが、けっきょく二〇一二年にはアメリカ国民の支持を得て再選を果たした。そんな現在だからこそ、私たちは『空間亀裂』の価値をいっそうアクチュアルに受けとめることができるだろう。
 ……なんていうのは、ほとんど冗談です。小説(にかぎらずフィクション一般)を論じるとき、時局や現況に照らして「いまこそ読まれるべき」「現代に生きる我々に切実なテーマ」などと、したり顔でのたまう解説者や批評家がいるけれど、分別のあるSF読者にそんなキワモノめいた煽りが通用するはずもない。アーシュラ・K・ル・グィンとかオースン・スコット・カードとかの正攻法でテーマに接近する小説ならまだしも、これは幻視者ディックの作品なのだ。題材の同時代性を褒めそやすのは無粋でしょう。
 ディックを「にせ者たちに取り巻かれた幻視者」と評したのはスタニスワフ・レムだ。レムは、浅薄なくせに価値があるかのように装う「まがいもの」がはびこるアメリカSFのなかにあって、ディックだけが文学的な高みに達していると断じている。レムが賞揚しているのは『ユービック』(六九年、邦訳はハヤカワ文庫SF)だが、皮肉なことにディックはまがいもの以前のSF――あっけらかんな娯楽小説――も量産している。レムは軽蔑するだろうが、じつはそんな臆面のなさも含めてディックはユニークなのだ。
 幻視とは、なにもこの宇宙の真理を洞察するだけではない。とてつもない異貌を鮮明に観てしまうのもまた幻視である。SFにおける異貌には、ゴシック・ロマンスと同源の崇高美や、ブライアン・W・オールディスが礼賛したワイド・スクリーン・バロックなどがあるが、ディックはさらに新しい境地を拓いた。そう、ディックは娯楽作に徹底しているつもりでも、どこかジャンル小説の規範をはみ出してしまう。
 そのはみ出しぶりがファンにとっては堪らないわけで、世間でマイナーな作品と見なされているものでも嬉々として読んでいる。ディック作品の大部分が邦訳されたいま、もう誤魔化すこともないので言ってしまうが、『空間亀裂』は失敗作と見なされることが多い。なにしろ作者本人が「ひどい小説」との烙印を押している。ディック評伝を著したローレンス・スーチンも、十段階で二点とかなりの低評価。まあ、完成度みたいなことを基準にして計れば、そのくらいが妥当でしょうか。しかし、ディック作品の魅力を知っている者にとっては、アバタもえくぼ。毒を食らわば皿まで(それはちょっと意味が違う!)。
 えくぼの秘密。キーワードは「チープスリル」だ。cheap thrillという表現は以前からあったらしいが、エンターテインメント小説読者に馴染み深いのは、これを表題にした(ただし複数形)ロン・グーラートのパルプ雑誌研究書だろう(七二年刊)。同書では探偵小説、SF、怪奇小説など総括的に扱っている。安っぽく扇情的な昂奮は、まさに読み捨てられるパルプ小説の特質にほかならない。ディック自身は年代的にはパルプ雑誌以降の作家だが、それでも「ウーブ身重く横たわる」をはじめとする初期作品数編は燃えつきる寸前のパルプ雑誌〈プラネット・ストーリーズ〉に発表されたし、長編主体に転向してから最初のホームグラウンドとなったエース・ブックスはパルプ雑誌の文化をそのまま継承した体質だった。
 おおかたのパルプ小説のチープスリルは、つかのまの刺激を求める読者に供されるマスプロダクツである。スペックが標準化されているので、スキルを備えた作家ならばそこそこの作品が生産可能だ。つまり、チープ(規格)とスリル(機能)が釣りあっている。しかし、ディックのチープスリルはほかとはひと味もふた味も違う。SF的スリルを貪欲に追求するあまり、勢いあまってチープになっているというか。ようするに「やりすぎ」なのだ。
 本書に即してみると、人口過剰で袋小路に陥った社会、根強い人種差別、メディア戦略を駆使した大統領選挙運動、人工冬眠と臓器移植、公娼売春をおこなう人工衛星、テラフォーミングによる新天地の創造、超高速移動機の欠陥によって発見された別世界、オルタナティヴな科学技術や価値観を備えた異種族との抗争……と、新しいアイデアや設定が次々と投入される。ひとつひとつを腰をすえて膨らませていけばそれなりに形のとれた物語(=標準化されたエンターテインメント)に仕上がるものを、ディックはそれでよしとしない。
 アイデアや設定ばかりではなく、登場人物も多く(しかも、それぞれに性格が歪んでいたり、クセが強かったりする)、場面の切り替えも頻繁で、いきなり新しいエピソードが挟みこまれたりする。要素の大盤振るまいというだけではない。要素と要素が思いもかけないかたちで結びついたり飲みこまれたりぶつかったりする、その急激な相互作用が醍醐味だ。とりわけ(ネタバレになるから詳述はできないが)クライマックスはあまりのテンポの早さに、読んでいて目がまわる。アメリカ側が全面戦争回避の切り札として持ちだした条件。敵を操っていた黒幕の正体を暴く一瞬の行動。敵側の頂点に立つ賢人の即座の判断。クイーン・ビー観測衛星を破壊したテクノロジーの秘密。主人公と悪党とのさらなる確執。こうした展開が十ページたらずのなかにみっしり詰めこまれている。もちろんかなり無茶をやっているので綻びはある。全編を通してみれば、構想が不充分(ペイパーバックライターの仕事にそんな余裕はない!)、伏線の手続きがはしょられている(ページ数の制限内でやりくりしなければならない!)のだが、その粗削りなところもじつは魅力だ。
 懐古趣味でいうのではないが、このごろの取り澄ましたSF(SFにかぎらず文芸一般)よりも、たとえ未熟でもディック作品のほうがずっと面白い。登場人物の心理的な掘りさげとか、設定やアイデアに説得力を持たせるための蘊蓄とか、物語を立体的にする情景描写とか、いいかげん辟易しているのだ。くだくだしい書きこみなんていらないから、どんどん先に進んでくれ。短兵急上等! 拙速歓迎!
 ……すみません、ディックにのめりこむあまり八つ当たりをしてしまいました。ちょっと頭を冷やして、解説者らしく本書の成りたちを記しておこう。
 『空間亀裂』はその前半部が一九六三年に執筆され、翌六四年「カンタータ百四十番」の題名で〈F&SF〉七月号に発表された。邦訳は短篇集『シビュラの目』ハヤカワ文庫SF)で読める。同短篇集の解説で、浅倉久志氏はつぎのようにふれている。

さまざまなアイデアをふんだんにぶちこんだ力作。てんやわんやの物語は、ディック作品にはめずらしいハッピー・エンドを迎える。だが、あまのじゃくな作者はせっかくの結末をわざわざぶちこわして新たな混乱が発生するくだりを書きたし、一九六六年に長篇のかたちで発表した。未訳の『空間亀裂』The Crack in Spaceがそれである。

 浅倉さんの紹介がいかにも面白そうで、「うわーっ、『空間亀裂』早く読みてー」と思ったファンもいるだろう。ちなみに「カンタータ百四十番」は冬川亘訳。本書の訳文はそれを踏まえてリファインされている。
 そしてディックは『空間亀裂』の後半部を六四年に執筆。三月十七日にはエージェントの元に完成原稿が届いているので、「カンタータ」が雑誌掲載される前に『空間亀裂』はできあがっていたことになる。『空間亀裂』の第七章の半ば(本書百三十八ページ)、ブリスキンが合成コーヒーを飲んで気分をやわらげるくだりまでが「カンタータ」との共通部分。「カンタータ」にはこのあと三ページほどの結末がついており、内容的には『空間亀裂』の最終章(第十四章)に相当する。もちろん、『空間亀裂』のほうは途中でいくつもの事件(浅倉さんの表現にならえば「新たな混乱」)が起きているので、それを回収するために結末部分がだいぶ長くなっている。
 なにはともあれ、作者ディックは「カンタータ」雑誌掲載の原稿料と『空間亀裂』単行本の印税と両方が得られたわけで、まことに喜ばしいかぎり。良く知られているように、一九六〇年代前期のディックは浪費家の妻アンと四人の子ども(うち妻の連れ子が三人)を養うため、いくら金があっても足りない境遇だった。ディックは生計を立てるために猛烈なペースで執筆をして、玉石混淆の作品群を送りだしたのだ。もっともアンが悪妻だというのはディックのつくりごと――自分が妻と子どもたちから離れることを正当化するための――だと、アン本人はのちに主張している。ちょうど『空間亀裂』を脱稿した六四年三月に、ディックは彼女と別居をしている(正式に離婚したのは六五年十月)。
 作品内容に作者の私生活を重ねて読むのは下世話だし、一般的にはさほど有益でもない(そんなことをしても読書は豊かにはならない)。しかし、ディックにかぎって言えば、たしかにそういうスキャンダラスな興味を助長するところがある。その理由のひとつは、ディックの人生が恋愛面の起伏、職業作家としての不遇や挫折、神秘体験、ドラッグ、謎めいた自宅侵入事件など、華々しいゴシップに彩られていることだ。そしてもうひとつ、小説のなかに不用意というか無造作というか、わかりやすくディックの現実が反映されているせいもある。小説家は多かれ少なかれ自らの体験を起点としながら、それを普遍的なかたちに昇華させるものだという考え方がある(ぼくは必ずしもそうは思わないのだが)。しかし、この部分に関するかぎり、ディックは昇華なんて手間はかけない。私小説ではないので露出的に書いてはいないものの、詮索好きのマニアや評論家には好餌だ。
 本書でとくに歴然なのは、ラートン・サンズ医師とその妻マイラ・サンズの壊れた夫婦関係だ。マイラは離婚に際してすべての財産を自分のものとすべく、サンズ医師が甚大な犯罪を犯している確証を得ようと術策をめぐらす。まさに猛女。いくら愛情が冷えきっているとはいえ、相手の失墜さえも辞さないとは。マイラは「明るい髪」と描写されているが、これはディックの当時の妻アンと同じだ。また、マイラは中絶コンサルタントとして地位を確立しており、中絶に対して割りきった考え方をしている。一方、アンはかつてディックの反対を押しきるかたちで中絶手術を受けており(ディックと結婚後二番目の妊娠時。ちなみに最初の子は出産している)、そのことをディックはずっと引きずっていた。
 夫婦間の問題は、作品後半でも構図を変えて取りあげられる。超高速移動機販売店の営業担当スチュアート・ハドリーは妻メアリにうんざりしており、娼婦スパーキー・リヴァースと恋に落ちる。婚姻関係に縛られたうわべだけの生活を捨てて、自分のことをほんとうに理解してくれる女性と新しい世界へ逃げたい。この願望はおそらくディック自身のものでもあったろう。おそらく『空間亀裂』執筆が佳境に入っていたころ、ディックはグラニア・デイヴィス(当時の彼女はアヴラム・デイヴィッドスンの妻だった)と文通をはじめている。グラニアからは熱烈なファンレター/ラヴレターが送られてきた。このやりとりを『空間亀裂』の挿話に結びつけるのは短絡かもしれないが、ディックがロマンチックな気持ちになったことは確かだろう。六四年六月にはグラニアがディックがいたカリフォルニアまで来て、ふたりは数カ月のあいだ同棲する。
 愛情や結婚のこと以上に注目されるのは、この物語で最大の悪役となる双子ジョージ・ウォルトの存在だ。ファンならばよくご存知のとおり、双子のモチーフはディック作品に繰り返しあらわれ、ディック自身の境遇(二卵性双生児だったが妹は生後一カ月あまりで亡くなった)と結びつけてしばしば作家論・作品論の材料にされてきた。批評的な解釈はともかくとして、本書のジョージ・ウォルトはずいぶんと破格だ。造形イメージ的にも、性格設定的にも、ストーリー展開で担う役割的にも、あまりに過剰ではないだろうか。「ひとつの頭部をふたつの身体で共有している結合双生児」という基本設定からして奇抜だが、それから悲劇的な喪失を経て、面妖な改造が加わっている(詳しくは本編をお読みください。ここで子細を明かすと吃驚/唖然の楽しみをそいでしまう)。もしかするとアメコミ・ヒーローの強敵にこんなやつがいるかもしれない。日本だったら永井豪がノリノリで描きそうな、ビザールでもギャグでもいけるキャラクター。本書では少なくとも五回はツッコめます。
 そのほか作者の人生とリンクするトリヴィアとして、易経[えききょう](ディック自身が日常的に筮竹[ぜいちく]を用いていた)、ハリー・パーチの音楽(ディックはアンと一緒にペタルーマの倉庫で催されたパーチのワールド・プレミア公演に出かけたことがある)、黒人大統領(ケネディとニクソンが鍔迫りあいを演じた一九六〇年の大統領選挙で、ディックは投票用紙にマーティン・ルーサー・キングと書いた)などがある。
 実生活がらみのことがら以外では、他作品との共通キャスティングが目を引く。『空間亀裂』の主役ジェームズ・ブリスキンは、もともと主流文学長編The Broken Bubble(執筆は五六年だが出版はディック死後の八八年、未訳)にラジオDJとして登場する。小説の設定はまったく異なるので同一人物ではないが、ディックはそれなりに愛着のあるキャラクターなのだろう。また、SF短編「待機員」「ラグランド・パークをどうする?」(ともに六三年の発表)では、ジェームズ・ブリスキンがニュースクラウン(おどけたトークを弄するキャスター)として活躍している。このニュースクラウンの設定は本書でも引きつがれている。さらに『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』(六五年、邦訳はハヤカワ文庫SF)にも、「待機員」と同じニュースクラウンのブリスキンが姿を見せる。ただし、ブリスキンが黒人という設定は『空間亀裂』だけのようだ。
 他作品との共通キャストがもうひとり。本書では端役のスチュアート・ハドリーは、もともと主流文学長編Voices from the Street(執筆は五二~五三年、出版は二〇〇七年、未訳)の主人公。ラジオ販売店の営業担当という役柄は、本書のそれとよく似ている。また、『ドクター・ブラッドマネー』(六五年、邦訳は本文庫)に登場するスチュアート・マコンキーも、テレビ販売店の営業担当で不全感を抱えており、まさしくハドリーの分身と言えよう。もっともハドリーは白人だが、マコンキーは黒人である。
 さて、本書ではじめてディックを読んだという方は、ぜひ別の作品(拙文中で言及したものなど)も試していただきたい。もっとバランスのよい小説もたくさんありますので。でも、繰り返しになるけれど、本書も捨てがたい。とびきりの怪作ですよ、これ。

(2013年2月)



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