なぜ、過去を変えてはいけないのか?
現在というものが、守るに値するほど素晴らしいものなのか?
空前絶後、かつてない時間SF。
07年7月刊『不確定世界の探偵物語』創元SF文庫版あとがき[全文]

鏡 明 akira KAGAMI

 

 私は、規則を破りたかったのだ。

 この物語を書こうとしたとき、私の頭に在ったのは規則を破ることであり、それは解放を意味していた。

 何を何から解放するのか。

 SFをSFに縛り付けている無数の制約から解放したかったのだ。

 この物語が扱っている主題を例にすれば、なぜ、過去を変えてはいけないのか?

 過去に旅をするという極めて魅力的な、そして自由なアイディアが、現在に連なる過去を変えてはいけないという規則のために、いつも、現在を守るという退屈な物語になってしまうことに、耐えられなかったのだ。

 なるほど。過去を変えてはいけないという規則は、現在を守らねばならないという規則に連なる。が、その現在というものが、守るに値するほど素晴らしいものなのか?

 そんな疑問が、私には、あった。

 ポール・アンダースンの『タイム・パトロール』が典型なのだが、現在を変えないために幾つもの規則を作り、それを守る組織を作らざるを得なくなっている。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のような映画でさえ、現在を守るということがストーリーを支配しているわけだ。時間の中を自由に動き回れるという楽しさが、物語の核にならないのだ。

 そう考えてみると、時間旅行というアイディアを初めて示したH・G・ウェルズだけが、この束縛から自由であったことになる。

 そういう意味では、私の考えていたことは、先祖がえりということだったのかもしれないとも思う。



 私は、変化が好きなのだ。

 固定化され身動きできない世界よりも自由に変化する世界を、私は、好きなのだ。

 だとしたら、それをそのまま物語にしよう。

 それが、この物語になった。

 この物語の元イメージは、ある人がある選択をした瞬間に、二つの世界が生まれる、選択された世界とされなかった世界、並行世界というありふれたアイディアにある。これを、日常的な選択にまで膨らませるとどういうことになるか。たとえば、六十億の人が何かを選ぶたびに新たな世界が生まれるわけだ。人類だけがこの宇宙における知的生命体とは考えられないとすると、宇宙全体で、瞬間、瞬間に生まれる世界の数は無限にあることになる。それを考えると、めまいがするのだが、この常に生まれ続ける無限の世界の集合体、それがこの物語を考えていたときに、私が抱いていた宇宙のイメージだった。

 もちろん、そのような宇宙像は私の理解の範囲を超えている。もっと言えば、無限という概念は、私には具体的に掴みがたいものだ。が、それでも、便利といえば便利かもしれない。どのような世界もありうるということを示しているからだ。

 少々意味は違うが、こんな経験をした。中国向けの広告を造っていたときに、当日の掲載紙を見たら、キャッチ・コピーが誤植だった。真っ青になって確認したら文字は違っていたが、意味は同じだったので、事なきを得た。そのとき、中国人のコピーライターが、中国には、あなたが思いつくどのような漢字もあります。ですから、誤字はありえないのです、と言ったのだ。もちろん、それは、誇張であるけれども、気分としてはわかる。それと共に中国という世界の長い歴史の驚異と脅威を感じた。何でもあり、ということは、ほっとすると共にぞっとすることでもある。

 この物語を思いついたときに、無限をそのまま扱うという物語も考えなかったわけではないのだが、それが具体的にどのような物語になるのか、わたしの手に余った。結果として、ひとつの世界に焦点を当てることになったのだが、その世界は、独立して存在しているのではなく、極めて近い幾つもの、それこそ無限にある近接した世界との連続性の中にある。もしかすると、この物語の中であなたが感じるかもしれない疑問点のほぼ全ては、この宇宙像の中に答えがあると思ってほしい。

 私としては、可能な限り、不連続な事象の塊のような物語を目指したつもりだ。そのためにも、新しいもの、つまりは未来的なものと、現在的なもの、そして過去に属するもの、古めかしいものが共存している世界にしたかった。何かが欠落しその代わりに何か奇妙なものがある。その違和感を大事にしたかった。

 それに加えて、その全てがたった一人の人間の価値観で決められている。規則を破りたかったのに、結局、別の規則を創ってしまったことになるが、それはあくまでも、この物語の中の規則だ。矛盾ではないだろう。

 ああ、そうだ、もうひとつの物語を考えていたことを思い出した。無限ということを考えていく過程の中で、無限が存在しないという世界、無限の存在が否定されている世界の物語を考えたのだ。それが、どうしても宗教的な物語になりそうで、やはり自分の手に負えないと感じ、結局、放棄したのだが、もしかしたら違う展開があったかもしれない。この物語を読み返しているときに思いついた。

 けれども、この物語を書いているときの私には思いつかなかったのだ。逆に、今、この物語を書けといわれても、私には、たぶん書けないだろう。文庫にしてくれるという話をいただいた時に、いくつも書き加えたいことがあった。けれども、それをやり始めると、同じものにならないことがわかった。たとえば幾つか新しいエピソードを付け加えたくなったりする。自分では気が付かなかったのだが、自分が変わったのだと実感している。だから、最低限の変更だけにとどめた。

 それは、この物語を書いていたときの自分に対する礼儀だと考えている。そして、この物語に対する礼儀でもある。物語は書かれた瞬間から作者の手を離れていくからだ。

 そして、何よりも、この物語を読んでくれた読者の皆さん、これから読むであろう読者の皆さんに対する礼儀でもある。

(2007年7月)

鏡明(かがみ・あきら)
1949年山形県生まれ。評論家、作家、翻訳家。早稲田大学第一文学部卒業。大学在学中からSF同人誌〈宇宙気流〉などに所属し活躍。1970年、翻訳家デビュー。同年、短編小説を発表し作家デビュー。他の著書に『不死を狩る者』、主な訳書にビーグル『最後のユニコーン』など。