Science Fiction

2010.03.05

東浩紀「小松左京と未来の問題2」(1/4)

ミステリーズ!〉に連載中の、東浩紀氏の「セカイから、もっと近くに!――SF/文学論」最終章として、vol.39(2010年2月号)に発表された小松左京論を、ウェブ上に転載いたしました。なお、このページ上で太字となっている箇所は、紙の誌面上での傍点を示します。(編集部)



 前回の議論では、小松左京の想像力が、セカイ系の対極のように見えて必ずしもそうではないこと、そこでは「未来」へのSF的視線が、近景と遠景を繋ぐ確固たる社会=中景を再構成するというよりも、むしろその存在を揺るがすために機能していることを指摘した。
 小松は短編第一作「地には平和を」と長編第一作『日本アパッチ族』で、ともに未来への視線を現代社会の自明性を疑わせる契機として導入している。前者では、未来人の出現が第二次大戦で無条件降伏しなかった仮想の日本を生み出し、後者では、戦後日本が抑圧し切り捨てた暗部が顕在化した架空の未来図が描かれている。そして、その両者にはともに、一〇代で敗戦を迎え、「焼跡闇市派」として作家のキャリアを始めた小松の、高度経済成長に入り始めた戦後社会への複雑な感情が刻まれている。
 小松の未来は、敗戦が生み出した「廃墟」「無」を埋めるためにこそ要請された。それが、ここでの小松論のとりあえずの出発点である。

 そのうえでぼくは前回、『果しなき流れの果に』における佐世子という登場人物の役割と、『日本アパッチ族』の最後で滅びゆく日本が「飛田で買うた初見世の女郎」に喩えられている場面に注意を促し、議論を終えていた。今回はそこから始めよう。
 あらためて確認しておけば、そこで問われていたのは、「未来」への視線と性差の関係である。『果しなき流れの果に』と『日本アパッチ族』はともに、圧倒的な速度で未来へと突き進む科学技術文明とそこで置き去りにされる人間の情緒を対比させ、前者を「男性的なもの」に、後者を「女性的なもの」にはっきり振り分けている。そしてそのうえで、女性のイメージを、未来を失った男性が帰還する場所として、あるいは未来へ進む男性が追憶する対象として導入している。
 進む男性と待つ女性。西洋的原理を体現する男性と日本的風景を体現する女性。この対立はじつは、小松のほかの小説にも広く見いだせる。
 たとえば小松には「女シリーズ」と呼ばれる一連の短編が存在する。「待つ女」「旅する女」「流れる女」「歌う女」など、タイトルに「女」の文字が入っていることが共通点の、おもに一九七〇年代前半に書かれた作品群だ。
 それらの作品は、SFありホラーあり歴史物ありとジャンルはさまざまで、世界観や登場人物を共有しているわけではない。にもかかわらず、それが読者にシリーズとして認知されているのは、『湖畔の女』の文庫版解説で田中光二が鋭く指摘しているように、そこに「ふるい日本の女」という共通のモチーフが存在するからである。一方に男性の主人公が巻き込まれる文明の時間があり、他方に滅びゆく女性がいる。小松はそのような対立で動く物語を、手を変え品を変え、繰り返し書き続けた。「これは、[……]小松さんの心に息づく永遠の女人像なのであろう。“ふるきよき日本”、古典の形象とともに彼女たちもほろんでゆく。この二重の挽歌が、たくまずして重なり合い、二重焼き(オーバーラップ)されながら、低い朗々たるしらべでうたわれてゆく。/それが、“女シリーズ”における基調旋律ではないだろうか」(注1)。
 小松は多くの小説で、女性を、男性を待ち滅びる存在として、儚く美学的な対象として描いた。そして、日本的自然や日本の伝統文化への愛を、そのイメージに重ねて男性が抱く女性への愛として表象し続けた。
 小松のすべての作品のなかで、そのような彼の想像力の特質がもっとも赤裸々に表れているのが、おそらくは、『日本沈没』のクライマックスの場面である。そこでは、物語のなかで日本の沈没をいちはやく予言し、避難計画の中核を担ってきた主要登場人物のひとり(田所博士)が、ある老人に対して心情を吐露している。田所は、日本が沈没する可能性について「黙っていようと思った」と告白する。「もっとたくさんの人に、日本と……この島といっしょに……死んでもらいたかった」と苦しそうに語る田所に対して、老人は「あんた……この、日本列島に恋をしていたのじゃな」と答える(注2)。田所は日本を愛している。だから「心中」したいと考える。日本人はみな一緒に心中するべきだと考える。ここには、小松の日本観、というよりも(厄介な表現だが)政治的な態度決定と表裏一体になった性愛観がきわめて簡潔に表現されている。
 さて、二〇一〇年代に小松SFを読み直そうとするものとして、これはいささか厄介な特徴である。
 というのも、このような女性/日本への視線は、現在の常識で振り返れば、たぶんに批評的かつ政治的な問題を抱えているからである。たとえばカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムと呼ばれる文学理論に少しでも触れたことのある学生であれば、西洋=男性、日本=女性のその対立が植民地主義の内面化にほかならないことをすぐに指摘するだろうし、そうでなくても、小松の美学は、日本浪漫派の思想をどうしても連想させる(注3)。
 そもそも小松の小説では、一般に女性の登場人物が驚くほど存在感を発揮しない。かろうじて女性が目立つ場合も、それはつねに男性主人公のパートナーとしてである。その傾向は、『エスパイ』『復活の日』のような一九六〇年代の本格SFから、『時間エージェント』のような一九七〇年代のドタバタコメディ、さらには『さよならジュピター』のような一九八〇年代の大作まで、年代やジャンルを問わず一貫している。小松の文学は、女性を物語を動かす能動者として描かない。彼はつねに女性を、SF的で未来的な状況に巻き込まれる主人公の、独特な感傷の対象として導入している。前回紹介したように、『果しなき流れの果に』における佐世子は、何億年もの時空をめぐる主人公にとってあくまでも「帰還」の場所でしかない。ポストコロニアリズムの理論や日本浪漫派をめぐる政治的な論争に無関心な読者も、この特徴には鈍感ではいられないだろう。
 つまりはひとことで言えば、小松SFが描く女性は、いまの視点からは、あまりにも男性に都合よく、受動的に造形されているように感じられるのである。



1 小松左京、『湖畔の女』、徳間文庫、一九八三年、二七八頁。【本文に戻る
2 小松左京、『日本沈没』(下)、小学館文庫、二〇〇六年、三六九、三七二頁。原文の傍点は省略。【本文に戻る
3 笠井潔、『機械じかけの夢』、ちくま学芸文庫、一九九九年、一五五頁参照。【本文に戻る



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