Science Fiction

2013.04.05

会津信吾/〈ノット・アット・ナイト〉の世界(2)[2013年4月]

つまりこの〈ノット・アット・ナイト〉シリーズというのは、
出版エージェントの妻と出版業者の夫による
“コラボレーション企画”なのだ。

会津信吾 shingo AIZU


「蝙蝠鐘楼」の解説で「アーカム・ハウス社は二〇〇二年に娘のエイプリル・ダーレスが経営を引き継ぎ、現在も出版活動が続けられている」と書きましたが、エイプリルは二〇一一年に亡くなっております。御指摘くださったAmazonレビュアーさんに感謝。校正の際直そうと思ってメモしておいたのですが、メモしたこと自体忘れてました。あと「博士を拾ふ」のみタイトルが旧仮名なのは「作品名は固有名詞であり、編者がみだりに手を加えるべきではない」という会津の個人的見解によるもので、校正ミスではありません。念のため。


クリスティン・キャンベル・トムスン
クリスティン・キャンベル・トムスン
さて、今回は〈ノット・アット・ナイト〉シリーズ誕生の経緯について。最初に基本的なことを書いておくと、同シリーズは一九二五年から一九三六年まで、ほぼ年一冊のペース(二冊出た年もある)で刊行された。完結後、The "Not at Night" Omnibus という分厚い本が出ているが、これは既刊分からのアンソロジーなので、オリジナルの〈ノット・アット・ナイト〉シリーズは全十一冊。版元はロンドンのセルウィン&ブラント社。編者はクリスティン・キャンベル・トムスン(一八九七~一九八五)という女性。本業は出版エージェントで、小説やノンフィクションの著作もある。怪奇小説の創作も若干あり、それらは(戦後、ハーバート・ヴァン・サールのホラーアンソロジーに寄稿した一篇をのぞいて)“フラヴィア・リチャードソン”名義で発表されている。実はセルウィン&ブラント社の社長オスカー・クックはクリスティンの当時の結婚相手で、つまりこの〈ノット・アット・ナイト〉シリーズというのは、出版エージェントの妻と出版業者の夫による“コラボレーション企画”なのだ。従って同シリーズの成立背景を明らかにするためには、彼らの経歴を閲する必要がある。

「私は出版エージェント」
I Am a Literary Agent 書影
I Am a Literary Agent 書影
幸いにしてクリスティンには、三十数年におよぶ出版エージェントとしての人生を回顧した I Am a Literary Agent(1951, Sampson Low, Marston & Co.,Ltd.)という自伝がある。同書を参考に〈ノット・アット・ナイト〉シリーズの成立事情を説明しよう。──と思って読んでみたが、同シリーズに関する記述は一行もなかった。名前すら出てこない。なんでだろう。総計二十五万部も売れたシリーズだというのに。「ヴィクトリア女王を生で見た子供の頃の思い出」とか「とあるディナーでジョン・バカンと同席したときのエピソード」なんかは、うれしそうに書いてるのになあ。クックの名前が、まるで忌み言葉でもあるかのように、注意ぶかく伏せられているのも妙だ。子供(クックとのあいだには息子がひとりいた)にいたっては、その存在すら“なかったこと”にされている。この徹底ぶり、自分の人生からクックの存在を消したがっていたのではないか、と勘ぐりたくなるほどだ。いったい何があったのだろうか? ちなみに二人は一九三八年に離婚。その後クリスティンはハートリー姓の男性と結婚するが、一九六五年に死別した。夫の没後に彼女が刊行した二冊のオカルト・ノンフィクション本の著者名は“クリスティン・ハートリー”になっている。

文句タレても始まらないので、諸資料を参照しつつ、〈ノット・アット・ナイト〉シリーズ誕生までの道のりを、クリスティンの経歴を軸に、分かる範囲でまとめてみる。クリスティン・キャンベル・トムスンは一八九七年、H・キャンベル・トムスンとフレール姓の母親(名前未詳)の娘としてロンドンに生まれた。父親は医学博士で、ミドルセックス病院の神経科顧問。のちに母校であるミドルセックス病院附属医科大学の学長を十一年つとめている。母親は同病院で働く看護婦。母方の祖父ロバート・テンプル・フレールも医師(産科)で、ミドルセックス病院附属医科大学の初代学長だったが、クリスティンが生まれる前に亡くなった。余談だが、ソーンダイク博士の生みの親R・オースチン・フリーマンもミドルセックス病院附属医科大学の出身。もっともフリーマンとクリスティンの父親はひと回り近く年が離れている(フリーマンは一八六二年、トムスンは一八七〇年の生まれ)ので、二人が学内で顔を合わせている可能性は、ほとんど、というか、まったくないのだけれど。

クリスティン本人は医療従事者を志望せず、四年制のインデペンデント・スクール(私立学校)を出ると、専門学校に通って秘書の技能を習得。そして友人の紹介でカーティス・ブラウンという出版エージェント会社に就職する。正確な年度は不明(クリスティンの自伝には、なぜか具体的な年号がほとんど記されていない)だが、おそらく一九一六年と思われる。こうして彼女は五十四年におよぶ出版エージェント人生の第一歩を踏み出す。カーティス・ブラウンで彼女が担当したクライアントの中には『神秘のカバラー』『心霊的自己防衛』等の著作で知られる女性オカルティストのダイアン・フォーチュン(クリスティンはフォーチュンのフォロワーで、内光協会のメンバーだった)や、薄倖の女流ファンタジー作家ジェシー・ダグラス・ケルーシュ(彼女の代表作『不死の怪物』をセールスしたのは、他ならぬクリスティンだった)らがいた。またまた余談だが、一九二二年にロンドンのヒース・クラントン社から『不死の怪物』が刊行されたあとも、クリスティンは根気よく同作の売り込みをつづけ、一九三六年にはニューヨークのマクミラン社とロンドンのフィリップ・アラン社、一九三九年にはパリのル・エディション・ドゥ・フランセ社と、単行本だけで三回もセールスに成功している。これは、この作品に対するクリスティンの愛着だけでなく、持病の偏頭痛で作品の執筆が困難になったケルーシュを経済的にサポートする意味合いもあったのではないかと思われる。ちなみに当時のフィリップ・アラン社には、チャールズ・バーキンという社員がいた。一九六〇年代にグラン=ギニョル風のバイオレンスホラーで人気を博す、あのチャールズ・バーキンである。『不死の怪物』を介してバーキンとクリスティンが出会っていたかと思うと、胸が躍る。「嗚呼、俺には怪奇小説マニアの血が流れていたのだなあ。いることよ」と実感するのはこういう時だ。

ボルネオから来た男
オスカー・クック
オスカー・クック
閑話休題。オスカー・クック(一八八八~一九五二)も、こうしたクライアントのひとりだった。クックはスポーツ用品の製造を営むヘンリーと母アリスの次男としてロンドンのイズリントン地区に生まれた。一九一二年、イギリス保護領の北ボルネオに渡り、北ボルネオ会社(イギリス政府に代わって植民地統治を行う勅許会社)に勤務。ディストリクト・オフィサー(地方官)としてタワオ地区の行政を管轄する。当時、タワオには久原鉱業株式会社(現在のJX日鉱日石金属株式会社)所有のゴム農園があった。大正五(一九一六)年、南洋視察の途中で久原農園を訪れた博文館編集局長(のち取締役)の坪谷善四郎は、タワオ政庁のありさまを、次のように説明している。

レストハウスと同じ側に、青龍木といふ荳科の緑樹が、黄色の花を開いて、盛んに香気を発つが、少しく離れて椰子林の中に、木造の粗末な洋館が数棟ある。近づいて見ると、正面は間口七八間、奥行き四間ばかりで、床は五尺余り高く、前に廊下を設け、室内は三区に画し、屋外には装剣の銃を肩にし、カーキ色の軍服に、頭を太い布で包んだ印度人の兵が四人と、同じ様な服に汚れた帽子で、摺子木の様な棒を持つた巡査が四人、起て護衛して居る。聞けば中央の室が裁判所、右方は行政庁、左方は郵便局な相だ。其の背後に、一種の小屋が監獄で、少しく離れて稍や瀟洒とした家が、長官の私邸だ。ソコで此等の諸役所に、文武官吏は幾人ほどあるかと聞けば、地方官、裁判長、税関長、警察署長、守備隊長、典獄、郵便局長等一切を兼ねて、英本国人が僅に一人切りだ。其れが若し暴徒でも起れば、総数十二人の兵を率ひて、討伐にも出張し、盗賊があれば警察官を指揮して捕縛を命じ、民事、刑事の裁判もする。其の管轄区域は、海岸線百哩余、日本の和歌山県位の面積はあると聞いて、如何に政府が会社で、経費の節約を計るにせよ、平気で其任に当る人の大胆と勤勉とには頗る敬服す。(『最近の南国』大正六年・博文館)

タワオ政庁 hspace=
タワオ政庁
この「英本国人」がクックだ。坪谷に誉められてるよ、クック! 一九二〇年、クックは八年におよぶ北ボルネオ滞在に終止符を打つ。帰国後、現地での見聞記を執筆し、カーティス・ブラウン社に持ち込む。このときの担当者がクリスティンだった。これがきっかけで二人はラブラブに。そして一九二四年九月に結婚する。彼女いない歴=年齢の人は北ボルネオに行くべし。恋愛運が急上昇するかも。保証しないけど。なおクックの原稿は結婚の一ヶ月前にBorneo: The Stealer of Hearts としてロンドンのハースト&ブラケット社から出版されている。この洒落たタイトルは、クリスティンのアイデアだったという。

結婚直後、クックは当時のイギリスにおける最大手出版社のひとつであるハッチンソン社(この会社はロングマン・グループの子会社として、今でも存続している)に入社。同社発行の月刊雑誌〈ハッチンソンズ・ミステリー・ストーリー・マガジン〉と〈ハッチンソンズ・アドベンチャー・ストーリーズ・マガジン〉の編集長になる。この雑誌、残念ながら現物は一冊も見たことがないのだが、総目次を見ると、大半はどこの誰だか分からない、「ド」がつくほどのマイナー作家ばかりで、名前を知っているのは、クック&クリスティンは別として、あとはウィリアム・ル・キュー、サックス・ローマー、ベロック・ローンズ、H・ベッドフォード=ジョーンズ、オルツィ夫人、ガイ・デント、G・G・ペンダーヴスぐらいのもの。またまたまた余談だが、延原謙は〈ハッチンソンズ・ミステリー・ストーリー・マガジン〉誌を定期購読していたらしい。探偵小説マニア向けのエッセイ「探偵小説と洋書──古本漁りと新本漁り雑誌漁り」(〈新青年〉大正十四年八月五日夏季増刊号)に「Hutchinson Mystery story 表題の如き専門雑誌、月刊百頁位一ヶ年十志位」(「志」はシリングと読みます)とある。よくまあこんな雑誌まで読んでいたものだ。延原マジすごい。

〈ノット・アット・ナイト〉誕生
一九二五年、これまた正確な月日は不明だが、クックはハッチンソン社を辞め、セルウィン&ブラント社の経営者になる。ちなみに同社の設立者ロジャー・イングペン(一八六八?~一九三六)はウォルター・デ・ラ・メアの義兄(妹の旦那がデ・ラ・メア)で、デ・ラ・メアの著著を何冊か刊行している。さて、ここでようやく〈ノット・アット・ナイト〉シリーズが話に関わってくる。ある日クックは、セルウィン&ブラント社のための新しい企画について、妻クリスティンと話し合っていた。そのとき両者の頭に同時に浮かんだのが“ホラーパルプのアンソロジー”というアイデアだった。クリスティンの回想を読んでみよう。

そのアイデアは二階建てバスのオープンデッキ(当時の二階建てバスには屋根がなかった)で生まれた。午後六時。ピカデリーサーカスのバス停を発車した直後だった。同乗者はセルウィン&ブラント社の、当時の社長。彼は、世の出版業者の例に漏れず、目新しくて一般受けしそうな企画を模索し、それが見つからないことを嘆いていた。Not at Night(会津註:シリーズ名ではなく、シリーズ第一巻のタイトル)のアイデアは、その時、自分が思いついた。社長はこう主張する。だが実際は、二人同時に思いついたのだ。──少なくとも〈ノット・アット・ナイト〉というシリーズ名に対する責任は、この私にある!(The "Not at Night" Omnibus 序文)

こうして二人のブレインチャイルドは誕生した。なぜ怪奇小説アンソロジーだったのか? 理由は二つある。ひとつはクリスティンがホラー小説のファンだったから。でもなぜ伝統的なゴーストストーリーではなくパルプフィクション?クリスティンは、こう説明する。

最初から私は“文芸ホラー”には否定的だった。ホラー小説は目に見える具体的な“モノ”を描くべきなのだ。いくら文体が凝っていても、怖くなければ意味がない。インテリ向けの作品ならいくらでもある。私のこの考えは、お上品だが生ぬるい“スリラー”を排除するのに役だった。(前掲書序文)

そう、クリスティンがホラー小説に求めていたのは、実態のない“暗示”や“予兆”ではなく、明確な視覚的イメージをともなう“モノ”なのだ。たとえば"The Gray Lady"(1929)という彼女自身の作品。アパートに住むヒロインは、空き部屋のドアの前に佇む全身灰色の女幽霊を目撃する。幽霊はまるで吸い込まれるようにドアの中に消えてしまう。最初は恐怖を感じたヒロインであったが、その幽霊がかつてその部屋で起きた悲劇的事件の犠牲者であることを知り、かえってシンパシーを覚えるようになる。そしてある日、いつもはそのまま消えてしまう幽霊が、その日にかぎってなぜかちょっとふり返ってみせる。その顔は、目鼻の区別もつかぬほど無惨に叩きつぶされた肉塊だった……。クリスティンが読者に提供するのは、俗悪だが、ストレートでパワフルな恐怖だった。ホラー小説に対してこのような嗜好を持ったクリスティンが〈ウィアード・テールズ〉に惹かれるのは、ある意味、当然と言える。

もうひとつの理由は、クックの仕事に関係がある。彼が編集していた二種類の雑誌──〈ハッチンソンズ・ミステリー・ストーリー・マガジン〉と〈ハッチンソンズ・アドベンチャー・ストーリーズ・マガジン〉は、しばしば〈アドヴェンチャー〉〈ディテクティヴ・ストーリー・マガジン〉〈アーゴシー〉〈ブルーブック〉〈マンシーズ〉〈ディテクティヴ・テールズ〉など、アメリカのパルプマガジンから作品を“輸入”していた。仕事上、クックはパルプマガジンに接する機会が多かったのである。これが“パルプフィクションのアンソロジー”という当時としては画期的なアイデアの元になったであろうことは、想像に難くない。大陸系のテキストとちがって、翻訳の手間がいらないアメリカのパルプフィクションは、イギリスの出版業者にとって、都合のいい“資源”だった。テキストの入手も比較的容易だった。月遅れのパルプマガジンをイギリスに売る、専門の業者がいたからだ。これは一九三〇年代のデータだが、こうした海外向け月遅れパルプの売り上げは、一号あたり百ドルもあったという(Pulpwood Editor by Harold Brainerd Hersey, 1937, Frederick A. Stokes Company)。またパルプマガジンを、イギリスに向かう貨物船のバラスト代わりにしていたという説もある。実際に手に取ってみるとわかるが、パルプマガジンは見た目より軽い。密度の低いパルプペーパーに印刷されているからだ。こんなものがバラストになるのだろうか? 論より証拠、計算してみた。細かい数字はすっ飛ばすが、一立方メートルあたりのパルプマガジンの重さは約四〇〇キロ。砂利一六五〇キログラム、無縁石炭一五五〇キロには及ばないが、コークスの五〇〇キロ、杉材の三八〇キロとどっこいどっこいである。結論:充分バラスト代わりになります。

というわけで、次回は〈ノット・アット・ナイト〉シリーズの内容と、収録作品をめぐる“謎”について。実は、クリスティンはアメリカ本国での発売に先だって〈ウィアード・テールズ〉の内容を知っていたのではないか、と思われるフシがあるのだ。はたしてそんなことが可能なのか? 可能だとすると、どうやって? 読者よ、〈Webミステリーズ!〉五月号を刮目して待て! 待ちやがれ。待ってください。

(2013年4月5日)



■会津信吾(あいづ・しんご)
1959年東京生まれ。駒沢大学経済学部卒。少年小説、犯罪、映画など明治から昭和初期にかけての日本の大衆文化、社会風俗の研究・評論を中心に活躍。『海野十三全集』(三一書房、1988~1993年)の編集に携わる。著書に『昭和空想科学館』(里艸、1998年)、『日本科学小説年表』(里艸、1999年)など。


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