桜庭一樹読書日記

2012.03.05

まだ桜庭一樹読書日記 【第1回】(1/3)[2012年3月]

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東京都下の雪だるま
【東京都下の雪だるま】カレー屋さんのテイクアウト用出窓においてあった雪だるま。今年は寒くて、東京でも1月と2月に雪が降りました。(桜庭撮影)

1月某日

 来世。それは人が死んだら行く場所だ。ひとたび魂が肉体から離れると、肉体は土に埋められ魂は来世に向けて旅立つ。

そこはティンブクトゥという名であり、ミスター・ボーンズが理解する限りどこか砂漠の真ん中にあって、ニューヨークからもボルチモアからも遠い、ポーランドからも、一緒に旅を続けるなかで訪れたどの町からも遠い場所にある。(略)ティン-ブク-トゥ。いまはもう、その音を聞くだけでうれしかった。

 あわよくば、日暮れ前にウィリーのもとに行けるだろう。


――『ティンブクトゥ』

 年が明けた。
 年末年始、長編(『無花果とムーン』〈野性時代〉で連載)執筆のために缶詰になってたのも無事に完成して、久しぶりにのんきな時間である。で、この日は、K島氏とF嬢と一緒に飯田橋の焼肉屋に行った。
 美味しそうに肉を焼いては頬張っているK島氏の顔をしみじみと見て、相変わらず忙しそうだなぁ、またちょっと痩せたなと思う。で、このねぎタン塩を飲みこんだら「痩せましたね」と言おうと、モグモグしていたら、K島氏がほっぺたに手を当てて「……はぁ」とふいに物憂げなため息をついた。

K島氏「ぼくったら……。5キロも太っちゃったんですよね」
わたし「ウホッ、むぐっ!?」
F嬢 「ん、どうしました?」
わたし「い、いや、なんでも……。タン塩がのどに……。あっ、あはは」

 あ、危なかった……。正月早々……。
 以前、8キロ痩せたのをぜんぜん気づかなかったときに“歩く節穴”と思われたことを、寒々とした気持ちで思いだす。しかしK島氏、太ったり痩せたり、太ったり痩せたり……。女の子みたいだなー。

わたし「あ、あははは」
K島氏「(ぎろり)なんでそんな笑ってるんですか。ぼくが太っちゃったというのに!」
わたし「いや、その、えーと……。あっ、そういえば、わたし、何年か前に牡蠣に当たって以来、ぜんぜん食べられなくなったんですよね」

 むりやり話題を変える。
 危機が去る。

わたし「生牡蠣に二度当たって、二度目はERで三途の川を見たのでそれっきりさけてたんです。ところが先週、集英社の野良犬編集さん(〈小説すばる〉編集長になった)たちと荒木町で飲んでたとき、牡蠣の土手鍋が出たんですよ。火を通したものなら大丈夫かもと思って、端っこのヒラヒラのところを三ミリぐらい箸で切って、口に入れたんです。で、野良犬編集さんがトイレに行って、出てきて、携帯で会社に連絡して、なんだかんだあって、席にもどってきた、とき……」
F嬢 「きた、とき……?」
わたし「わたしは、まだ、牡蠣のヒラヒラ三ミリを、黙って奥歯で噛みしめ続けていたんです」
F嬢 「えっ、まだ?」
わたし「ええ。で、野良犬編集さんは、モグモグし続けてるわたしの顔を無表情に見下ろすと、まさに野良犬そのもののハードボイルドさで、ニヤリと片頬を歪め……」
F嬢 「?」
わたし「『……クク、さては、飲みこむのが怖いんですね? クク、クク……』」
F嬢 「あらっ。しかし、ああいうのって、生涯に食べられる数があらかじめ決まってて、それを超えるともうだめという説もありますからねぇ……」
わたし「ウーン。そんなに食べてないはずなんだけど。もしや前世で食べすぎたのかな……」
K島氏「(とつぜん顔を上げ)フランスのルイ十四世は生涯に牡蠣を二百個食べたそうですよ!」
わたし「エッ。じゃ、わたし、前世がルイ十四世だったんですかねぇ」
K島氏「あれっ。でも、十五世か十六世だったかもしれません……?(と、首かしげる)」
わたし「なんてざっくりしたトリビアだ! うーん、十六世はやだな。んー」
F嬢 「ギロチンと言えばですね……」

 と、話題が先週の荒木町から革命前夜のフランスまで転がっていく。
 それからあっちこっちにゴロゴロ転がって、仕事の話にもどってくる。F嬢はいまカーの本を編集してて忙しいらしい。あと、K島氏が年明けに出たばかりのわたしの新刊『傷痕』を読み始めてくれてて、

K島氏「新たな興味がわきましたね。書き方が明らかに変わってます。なんというか、初期の代表作をということで『赤朽葉』をお願いして、その初期が『ばらばら死体』まで続いてたとすると、この辺りから二期が始まっていると感じましたが」
わたし「むっ、どこが変わりましたか。自分ではあまり……」
K島氏「人を書く姿勢が変わったというか、力を抜いても大きく描けるようになったというか……。ここからまだこんなふうに変わるというのは、面白いですねぇ」
わたし「えっ……」

 帰り道。
 一気に真剣になって、これから書くもののことを考えた。
 小説ってなんだろうな。わかった気になって勝手に偉くなったときに道は終わって、足も止まってしまうんだろう。考え、日々読もう。歩き続けよう。
 帰宅して、お風呂に入って、ポール・オースター『ティンブクトゥ』を開いた。オースターは何冊か読んで、『リヴァイアサン』『孤独の発明』がとくに気にいったきり、読破しないまま、この数年なんとなく離れてた。それが最近、文春の編集さんからこれを好きだと聞いて、久しぶりに手に取ったのだ。
 放浪の詩人の飼犬、ミスター・ボーンズの視点から描かれる、飼主の死と、孤独な彷徨の日々。それは次第に、生き残るための戦いから、生前に飼主が語っていた天国(のような場所)「ティンブクトゥ」に向かって走る魂の旅に変わっていって……。
 外国の映画を観てて、ときどき「キリスト教のことがわかんないと、ここが理解できてないのかも」と不安を感じることがある。たとえばポール・ニューマンの『暴力脱獄』とか、あとクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』でも、主人公が両手を広げて十字架のポーズで倒れるシーンが、じつは“キリストのように犠牲になる”ことの象徴だったり。『マノン・レスコー』でも、主人公が女の死体を逆さに背負って砂漠を放浪するラストシーンが、十字架を背負ってゴルゴタの丘を上がるキリストを模してるっぽかったり。最近だと『ラースと、その彼女』で、主人公のラースが人形の恋人を抱いて湖に入って一人だけもどってくるシーンが、じつは聖書のこういうシーンと同じでこういう意味があって、という解説を読んだような……。
 この『ティンブクトゥ』でも、夢に出てくる死んだ飼主がいつも優しかったのに、突然すごく辛く当たり始めて、それでもミスター・ボーンズの思いがまったく変わらないとわかるや、祝福の光が落ちてきて、ついにティンブクトゥへの道が見える……。ここが「えっ?」「ミスター・ボーンズ、待って!」なんだけど、かなり遠い記憶(わたしはじつはキリスト教系の幼稚園に通ってて、三歳から六歳まで、毎日子供用の絵本の聖書を読んでたので、もしやちょっと作風にも影響してるかも……。といってもカトリックかプロテスタントかもさっぱり覚えてないぐらいだけど……)が蘇る。こんな話、あの聖書の絵本になかったっけ? ほら、どこかの山でキリストが一人で修業してて、そこに悪魔が現れてなんだかんだ言うけどちゃんと無視したら、神さまがこっそり見てて、よし合格、さすが俺の息子だな、みたいな……。えっと……(あぁ、なんとざっくりした記憶……)。
 韓国の映画でも、韓国独特の「ジョン」という価値観(一度でも深くかかわった人とは好きでも嫌いでも縁ができて切れない)がわからないと「?」「?」となる、と『ジェノサイド』に書いてあったけど、確かに去年、それを知らずに『義兄弟』を観て「?」「?」となって、後から『ジェノサイド』を読んで「……あぁっ! ジョン!!」と納得したことがあったなぁ。
『ティンブクトゥ』はクリスチャンじゃない人が読むとバッドエンドとも思えるけど、そうじゃなくて、こういうふうに、心的に困難なミッションを越えた後に祝福されて天に召されることは、作者とこれが刊行された国では、じつは魂のハッピーエンドなんじゃないか、うーん、でもよくわからない、詳しい人に教えてもらいたいけど、いったい誰に聞いたらいいのかなぁと思いながら、光に照らされた道(高速道路)をどこまでも走っていくちいさなちいさなミスター・ボーンズの、喜びと悲しみに痩せ細った後ろ姿が、光に溶けてやがて遠ざかり、えいえんの国に向かって消えていく幻覚を、(……あれが欧米の死か? では、では日本で書かれるべきティンブクトゥとは? えいえんの国とはなんだ?)目を閉じていつまでも追っていた。



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