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犬
【犬】引き続き犬がいます……。(桜庭撮影)

8月某日

「悪いのよ! もうわたしたちの顔がわからないの……壁紙のぶどうの葉が緑色の鳩に見えるなんていうこともいわなくなったのよ……いつものベスの面影がなくなったわ……そしてだれもわたしにこのつらさを忍ぶ力を与えてくれる人がいないのよ。かアさんもおとうさまもいらっしゃらないし、神さまだって遠くへ行ってしまって、見付からなくなってしまったわ」
 哀れジョーのほおには涙が滝のように流れてくるのであった。

――『若草物語』


「チェット、いっそマジでばかになろうぜ」
 ぼくは大賛成だった。

――『ぼくの名はチェット』


 知らないあいだに、あれ、もうお盆休みである。
 缶詰になって原稿を書き続けるのが終わって、でも走り続けたせいで急に止まれなくて、ジョギングのクールダウン的に、エッセイを片付けたりと働いてるうちに、ふぅっ……と、灯りが消えるように、辺りが静かになった。
 で、とくに予定もないので、のんびり仕事したり、ゴロゴロしたりしている。
 先月末の「ミステリーズ!新人賞」選考会で犬の話をしたら、後日、I垣女史が『ぼくの名はチェット』を送ってくださった。探偵の飼う大型犬チェットが語り手のライトミステリーで、犬の描写(人間より理性的で頼りになると思うと、あれっ……自分でも知らないうちにバウバウ吼えてたり、意識がおやつに飛ぶ)が愛ある面白さだ。これはいいなー、と床に寝転んで、にやにや読んでいた。
 と……。

わたし「クシュン!」
――ゴンッ!

 部屋の隅、エアコンの風がちょうど当たる位置で同じくゴロゴロしていた小型犬が、人間のクシャミにおどろいて振りむこうとして……鼻先を壁に打ちつけた瞬間を、確かに見た。ちいさな頭がぼぅんっとはねかえって見えるほど、思い切りの失敗だった。
 ……細い背中が、恥じている。
 いまのは見なかったことにしておいて、『ぼくの名はチェット』にもどった。うわ、チェットのほうはドゥンッと車にはねられたぞ。大丈夫か……?
 しかし、と考え始める。犬が自分の鼻の長さを忘れるなんてことがあるのか? そういえば、トイレの位置もすぐ覚えたけど、前足をトイレの真ん中に踏ん張って、ドヤ顔で、ぷりぷりぷりっ……と、いつもトイレからはみだして気づかない。鼻だけじゃなく、胴の長さもわからないのかな。むー、あれ、こんな話、昔どこかで読んだな……と本を床に置いて考える。
 小学生のころに読んだポール・ギャリコの『ジェニィ』だ。急に体が猫になっちゃった男の子の、猫世界での冒険譚。まず祖母が読んで、面白かったからと貸してくれたのだ。
 じーっと犬の後ろ頭を見る。
 もしやまだ犬の体に慣れないのか? 獣医さんによると「こりゃ歯が若いな、さてはまだ1歳前後だぞ」とのことだったけど……。
 本を途中までにして、近所の喫茶店に行って、仕事の続きをちゃちゃっとした。隣のテーブルで4、50歳の男女グループが、昼間からビールを飲みながら熱心にしゃべっていた。

女性「象って、1日200万円で借りられるのよ」
男性「象?」
女性「市川に象センターがあるのよね。わたし知ってるの。盛りあがるわよー。パーティーに象がきたら! ねっ?」
男性「ウーン……」

 なんのパーティーの相談だろう……? あぁ、ここは東京なんだなぁ、へんな日常を送る大人が普通にいるもの……と思いながら、粛々と仕事を片付けて、帰宅した。
 また同じ位置に寝転がって、本を読む。
 読み終わって、日も暮れてすこし涼しくなってきたので、犬を散歩に連れていった。犬はさっきまでアンニュイだったのが、別人のように元気になり、ピョンピョン飛び跳ねながらマンションを出て、騎馬隊の馬みたいに行進していく。
 お盆休みの新宿は、大通り以外はとても静かだ。と、開店直後のガラガラの立ち飲み屋の前に、13、4歳のお洒落な女の子が二人立って、口喧嘩……というか、一人が烈火の如く怒って、もう一人が呆然と立ち尽くしていた。

女の子1「もっと世間を知りなさいよ! ていうか、一般常識が足りない。いい加減にして。この、世間知らずーッ!」
女の子2「………(泣きそう)」

 怒ってる子のほうの、茶金色のポニーテールがブンブン揺れている。蛍光色のTシャツとミニスカに包まれた全身が、研ぎたての刃物みたいに眩しく光る。
 その後ろを、30代半ばらしきよれよれジャージ姿の男性が、使いこまれた水色のヨーヨーをすばらしく華麗に操りながら、ゆっくり、ゆっくりと通り過ぎた。
 犬が電柱めがけて金色のおしっこをし始めた。
 お腹が軽くなったからと、犬がはしゃいで走りだそうとしたとき、横のマンションから5、60代の男性3人組が出てきた。カランッと軽い音に続いて、男性の絹を裂くような悲鳴。

男性1「きゃーっ」
男性2「ウクレレが壊れた!」
男性3「あぁっ……」

 3人の足元に、遠目でよくわからないけどウクレレらしき茶色いものが転がっている。ケースの蓋がちゃんと閉まってなくて、転がりでてしまったらしい。「うそだろ!」「こんな大事な時に……」「あぁ、あぁ」悲しげな声がビブラートで響くのを、犬が不思議そうに耳をぴくつかせて聞いている。
 ……一般常識、か。まだ激しく喧嘩してる女の子たちと、ヨーヨーの男性がゆっくりと遠ざかっていく背中を見ながら、なんか、いま、わたしも入れて「この中で誰がいちばん大人でしょうクイズ」みたいだったぞ、と思う。
 帰宅して、汗びっしょりなのでシャワーを浴びて、出てきてご飯食べて、犬にもゴハンあげてから、さてもう一冊読もうと積本をゴソゴソした。先月『秘密の花園』が大当たりだったので、続けて『あしながおじさん』『少女パレアナ』と再読してて、その流れで買った『若草物語』を開いた。
 これも小学生のときに読んだっきりで、わたしは三女のベスが「湖に落ちたのがもとで猩紅熱になり、死んだ」と長らく思いこんでいて、なにかのインタビューでそうしゃべったところ、それを読んだ書評家の三村美衣さんが、飯田橋の角川書店の前でばったり会ったときに「ベスは死んでなーい!」と言いながら全力疾走してきた、という記憶がある……。
 読み返すと、確かに、湖に落ちたのは四女のエミリで、ベスは別件で猩紅熱になったけど、一命を取り留めている。エミリの事故のところはスッと終わるけど、ベスの闘病の描写は長く、重たく、すさまじい。
 物語のいちばん最初の四人姉妹紹介シーンで、ベスのところだけ、

 世の中にはたくさんのベスがいる。恥ずかしがりやで、静かで、だれかに呼ばれるまではすみのほうにすわっていて、他人のためにのみ働き、炉ばたのこおろぎが歌うのをやめ、陽気な愛らしい姿が沈黙と暗い影をのこして消え去ってしまうまでは、だれもそのぎせいに気づかないのである。

 と、まるでもう死んでしまったかのような描き方をされてて、書き手の抱える正体不明の悲しみが伝わってくるようだ。
 この違和感を抱えたまま読み終わって、解説に目を落としたら、著者オールコット自身も四人姉妹の次女で、元気いっぱいの作家志望の次女ジョーは自身がモデル、とあった。23歳のときに『花物語』でデビューしたが、その年の終わりごろに三女ベスが病死してしまった、とある。その12年後に、出版社からの“少女向きの健全な家庭小説”というオファーを得て書かれたのがこの本だ。これが大ヒットとなり、父の負債(作品内と同じだ)を返し、絵を描くのが好きな四女メイ(これも作品内のエミリと同じ)にイタリア留学をさせた。
 そうか、やっぱりベスは死んでたんだ、物語の外で……と思うと、この幸福な家庭小説になんともいえない読後感が残った。これは『ジェイン・エア』のローウッドにおけるヘレン・バーンズの死と同じじゃないか。
 物語の中で誰かが死ぬとき、外の現実世界でもすでに誰かが死んでいるのかもしれない。また、物語の中で誰かの命が危うく助かるとき、外の世界ではすでに死んでいることもあるのだろう。
 物語は時に誰かの個人的な鎮魂の祈りであり、知らない誰かの墓標でもある。
 そう、しんみりと本を置こうとして、それにしても原題『リトル・ウィメン』(編集者エッツェルによってフランスで出版されたときは『マーチ博士の四人の娘』になった)から、『若草物語』という邦題にした人はうまいなぁ、『嵐が丘』『風と共に去りぬ』『赤毛のアン』(もともとは『グリンゲイブルスのアン』と、住むことになった家の名前がついてた)もだけど……と考えて……ふいに、また……飯田橋〈鳥どり〉のお座敷で、地団駄を踏んでむずがるK島氏のイメージが浮かんだ。えっ、なんでだ……? 少女小説の話なんてK島氏としたことないけど……。それにしても激しい足踏みだ。まるでうどんの生地をこねるような動き……。
 あっ、わかった、8キロ痩せたのとはまた別のときに、ミステリの話になって、『マーチ博士の四人の息子』を面白いとキャッキャと騒ぎ、K島氏に「見損ないましたよ! 桜庭さん!」と本気で叱られたことがあったのだ。

わたし「でもブリジット・オベールの作品って、わたしパタリロの絵柄で脳内再生されて、笑っちゃうんです。ギャグとして面白くって大好きですけど……」
K島氏「……(ふるふる、ふるふる、ふるふる、ふるふる)」
わたし「あとリチャード・マシスン『奇術師の密室』も。表紙がなぜ魔夜峰央じゃなかったのかが理解できないぐらい、登場人物の口が全員ひし形の状態で、最後まで一気に……」
K島氏「『奇術師の密室』まで褒めるんですか!? 見損ないましたよっ……」

 わたしの脳内でパタリロで再現される面白ミステリは、K島氏のお気に召さない、という法則を発見する。
 えへへ、楽しいなぁ。すごく怒ってたなぁ……。
 遅くなったので寝た。
(2011年9月)


桜庭一樹(さくらば・かずき)
1999年「夜空に、満天の星」(『AD2015隔離都市 ロンリネス・ガーディアン』と改題して刊行)で第1回ファミ通えんため大賞に佳作入選。以降、ゲームなどのノベライズと並行してオリジナル小説を発表。2003年開始の〈GOSICK〉シリーズで多くの読者を獲得し、さらに04年に発表した『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が高く評価される。05年に刊行した『少女には向かない職業』は、初の一般向け作品として注目を集めた。“初期の代表作”とされる『赤朽葉家の伝説』で、07年、第60回日本推理作家協会賞を受賞。08年、『私の男』で第138回直木賞を受賞。著作は他に『荒野』『ファミリーポートレイト』『製鉄天使』『道徳という名の少年』『伏-贋作・里見八犬伝-』『ばらばら死体の夜』、エッセイ集『少年になり、本を買うのだ 桜庭一樹読書日記』『書店はタイムマシーン 桜庭一樹読書日記』『お好みの本、入荷しました 桜庭一樹読書日記』『本に埋もれて暮らしたい 桜庭一樹読書日記』など多数。


ミステリ小説、SF小説|東京創元社