桜庭一樹読書日記

2010.02.05

また桜庭一樹読書日記 【第8回】(1/3)[2010年2月]

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蟹の爪とわたし
【蟹の爪とわたし】『私の男』の取材で紋別に行ったときの写真。おっ、まだ髪が短い。撮影は紋別君。背景は、自分でとっ散らかしたままなすすべもなく年を越した仕事部屋の一部……。(桜庭撮影)

昔は、ある小路をはいってゆくと、物干し台が残っていたものです。真っ暗闇の中でその前を通ると、これは怖かった。物干し台が絞首台に見えるんです。

いまの若い人も、三業地だった雰囲気を感じ取っているんじゃないか。心が傷ついてしまった人間は、町の昔が見えることがあるんです。

――『人生の色気』

1月某日


 お正月が明けた!
 もう~、ヘロヘロである……。
 ようやくお仕事(〈小説すばる〉の編集さんに送る、六章仕立ての長編の二章め)が一段落したのが、年末の29日。で、元旦の夜中に、地元のマックでアップルパイを齧りながら必死で書いた年賀状への……苦情(?)が、あちこちの編集さんから、正月明けにどんどん届いた。
 まず、いちばん乗りは、角川書店K子女史である。
 トゥルルルル……。

わたし「(ガチャ)はい、はい」
K子「あけましておめでとうございます! あの不気味な大仏の年賀状ですけど、やっぱり、桜庭さんのしわざなんですよねっ?」
わたし「おぉ! 大仏の写真で、大仏型にくりぬいてある定形外のハガキですか。えぇ、わたしです」
K子「自分の名前、書き忘れてますよっ!」
わたし「えぇーっ!」
K子「ウーン(と、態度を軟化)、でも、新年いっぱつめに編集部に出社して、自分の机に置かれた年賀状の四角い束から、ひとつだけ変な形のハガキがはみだしてるのを見た瞬間、名前なんて見なくても、『桜庭さんだ!』となぜかピンときましたよ」
わたし「い、以心伝心……?」
K子「それに、新作のこと(四月に角川書店から、耽美な連作短編集が出るのである)も、わーっと走り書きしてあったし」

 そうだった。年末、仕事の合間に、ハガキを買いに世界堂に走っていったら、大仏型のおもしろいのをみつけてしまって、つい、K子女史と講談社のI井女史の二人分だけこれにしたのだった。
 ついで、ちょっとの時間差で、文春の紋別青年からも、いつになくおそるおそるの連絡がきた。
 トゥルルル……。

わたし「(ガチャ)はい、あけましておめでとうございます~」
紋別君「おめでとうございます! あのねぇ……『山月記』のような猛々しさの、虎の判子がベタベタと押してあって……ボールペンで、蟹の爪の絵が描いてあって……『天下国家!』『今年も4649!』とあり、なおかつ消印が、なぜだか鳥取で……堂々たる無記名の……今年いちばん謎めいていた年賀状は、桜庭さんのなんですよねっ?」
わたし「あぁ……ちがいます! と言いたいところですけど、わたしなんです……」
紋別君「やっぱりー! あらためまして、あけましておめでとうございます。今年も4649」

 虎の判子は、同じく世界堂でえらく気に入って買ったもので、どこまでも男らしく猛々しい。12年後も(もし生きてたら)使おうと思って、大事にしまってある。蟹の爪は、その昔、紋別君と『私の男』の取材旅行に行った折り、三階建ての家ぐらいある巨大な蟹の爪のオブジェ(夏祭の夜には海に浮かべてライトアップするらしい。隣に、貝のフタが開け閉めできるホタテのステージと、切り口を下にして屹立するシャケの頭もあった)を見て記念写真を撮ったものの、世界観がちがいすぎて作品中には使えなかったものだ。
 名前を書き忘れるなんて……さっき、K子女史からも……という話から、名前の話題で、なぜか盛りあがる。
 先月から〈週刊文春〉で連載中の『伏 -贋作・里見八犬伝-』を書くとき、「どうして大事な娘に、伏姫なんてつけちゃったのかなぁ?」と考えるところから始まった。原作にいろいろ理由は書いてあるけど、結局、人にして犬に従うという名前の呪縛か、姫は犬と夫婦になって、森で苦労して、八つの弾を放って夭逝しちゃうのだ。
 ところが、資料を読んでたら、なんと信長の妹なんか、もっともっとすごい名前で……娘も、あと側室も……と、盛りあがっているうちに、

紋別君「うちの本誌三月号での、巻頭エッセイコーナーで書いてみませんか。名前と、運命のお話」
わたし「本誌? あぁ!」

 そうだった。紋別君は〈週刊文春〉〈別冊文藝春秋〉を経て、いまは〈文藝春秋〉編集部にいるのだった。そのため、あだ名も紋別君から、最近、天下国家君に代わったのだ。
 締切と枚数を聞いて、部屋のどこかにあるその雑誌のバックナンバーをうろうろと探しながらも、名前の話が続く。

わたし「子どものころ、同じ小学校に、確か、大西洋くんって子がいたんですよ。そんな大規模な名前をつけられちゃって、どんな運命になったのかな、と気になってきました」
紋別君「ヘェ。そういや、ぼくも、黄金栄さんという名前を聞いたことがありますよ」
わたし「親が、知恵と言うかとんちをひねった名前ですねぇ。でも、子どもが自分の名前のいわれを聞いて、気に入ってることって、案外、少なくないですか。あっ、こないだね、〈AERA〉に載ってた中山美穂のインタビューがおもしろかったんですけど。いまフランスで暮らしてて、生まれた息子の名前を“意味をもたせてしまうとこの子を縛ることになるから”と、意味がなくて日本語でもフランス語でも自然な響きの名にした、と言ってて、ヘェ、いいなと思ったんですよねぇ」
紋別君「ひょー」
わたし「でも、その、肝心の名前を忘れちゃったなぁ……。なんだっけ、中山ムニャムニャ……」

 と、電話を切ったら、あれっ、締切が一本増えていた。ひゃあ……。
 この日はまとめて届いた『伏』のゲラをチェックしたり、連絡事項をまとめてしたりして、夜までばたばたしていた。
 夜。年が明けてから、近所のスーパーの三階にある本屋でふらっとみつけた本『人生の色気』(古井由吉)を読んだ。
 スーパーには、いつも小銭入れだけをポケットに入れて、四、五千円ぐらいしかもたずにふらふらと行くので、たまに、うっかり三階のゆるめの本屋さんでいい本をみつけると、悩む。た、足りなくなる……。あと、さいきんは携帯もなにももたずにいくので、もしも、帰りに車に轢かれたりしたら身元不明になっちゃうと思うと、背中の産毛がぞわぞわと立つ。でもそのぞわぞわをあえて維持(?)して、いつも、身元不明の買い物客になって、夕方、ふらふらと歩きだすのだ。
 そういや、『私の男』が直木賞の候補になりましたと連絡があったのも、夕方、この本屋でだったなぁ。あの日は、携帯、もってたのか。
 それはともかく、『人生の色気』は、前書きのエッセイがどえらいかっこよくて(七十代の自分が、眠りながら、耳元で誰かが話しかけるのを聞いてて、それは自分の幼少時の身の上話なのだが、はて、これは誰だろう……?)、そこだけ立ち読みしていさんで買ったのだけど(で、一階と二階で買いたかった、おいしそうないいお肉とかはあきらめた)、家で開いたら、エッセイなのはその前書きだけで、あとの本編は聞き書きだった……。や、やられた(?)……。がっくりくる。
 しばし本を閉じて肩で黙って耐えたものの、気を取り直して読み始めたら、文章こそあの羊水のでっかい海のようなすっばらしい文体ではないけど、中身はどこも、ビリビリ震えるほどおもしろかった。
 エロスとは男女の差異から生まれるものである、とか、家や親族との関係を背負いこんだ二人だからこその物語、とか、あぁ、あぁ、と思いながら、読む。
 同棲する男女や、飼主とペット、ともに暮らす家族は、相手がいなくなると、とても辛い。ひとり死ぬと後を追うようにほかのものもこの世から消えていったりする。学者は伝染病だとかいろいろ言うけれど、それぞれの体内細菌とでもいうものをまぜあわせて、ある種の系をつくっていたものの、バランスがくずれるのであって、だから、別れたくて別れたはずの男女がそれぞれ辛かったり、親元を離れた子も親もしばらくひどく寂しかったり、する……。
 おもしろいなぁー。それに、こんなに年も、性別もちがうのに、おぉ、その通り、そうー、そうー、と思いながら読むって、なんじゃらほい。と、布団に寝転がって(床だとさすがに季節柄、寒い)読み進めていたら、最後のほうに、

 僕らの仕事は、社会の留守宅を預かったようなものなんです。一人で部屋にこもって書いているようでも、別世界に生きているわけではありません。やっぱり、現代特有の忙しさの中に入っているんです。道路端に机を置き、座布団一枚持ってきて、座って物を書いているんじゃないかという心持です。昔の代書屋さんみたいなものです。あの人、何をしてるの、と通る人はよけて歩く。全然周りを構っていないようだけれど、人に見られているのは意識していて、あ、いいな、とか、おかしいんじゃないの、とかいう声を聞いている。

 このくだりを読んだら、急に、部屋で寝転がって本をめくっている自分の、耳元にまで、車の排気音や人の話し声、足音が近づいてきて、顔を上げたら、路上にひとりで寝ていて、通りすぎる人たちが「それ、どうなの」「面白いの?」「あ、そうー」とときどき覗きこんでくる……という幻が浮かんだ。こりゃ、お、落ち着かん。
ふっ、と起きあがって、コーヒーを入れに行った。
 で、

 儲けるということは、誰かから奪うことです。

 この一行で、ふいにこみあげてくるものがあり、この悲しいような生き辛いような気持ちの正体はいったいなんだろ、と、コーヒーがさめるのを待ちながら(猫舌なのだ)、からだのあちこちをごりごりと掻いてみる。
 天下国家。
 4649。
 大仏。
 屹立する、蟹の爪。
 四月の耽美な短編集。
 と、いろんなイメージまで頭の中をぐるぐるしだす。
 ――それに名前をつけたものは、まだ、いない。
 よし、今年も小説書くぞ、それやこれにばんばん、しかし下から謙虚に、名を、つける、と思いながら、コーヒーがさめるのを、いつまでも、ぼぉーっ、と待っていた。



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