『伏』の映画
【『伏』の映画】 公開された。うちから歩いていける場所だ… (桜庭撮影)

9月某日

「そういうものじゃないんだ」と父は言った。「欲深いというのは、たったひとつのものをほしがるのとはちがう。何もかもをほしがることだ。何がほしいのか自分でもわからないことだ。ひとつのものをほしがるのは問題ない。そういうのは欲深いとは言わないんだ」
「じゃあなんて言うの?」と僕は訊いた。
 そのときの父の答を覚えていたらどんなによかっただろう。どうして忘れてしまったのだろう?
――『フリント船長がまだいい人だったころ』


「そう……ねえ。人というものは思いもかけないことを信じるからねえ。しかし、わたしの話を終わりまで聞きたいなら、ぐずぐずしてはいられない」
「ええ、聞きたいです」とジョーンズ氏は言った。このばあさんは春の帽子みたいに狂ってる。

――『午後の死』

『伏』『無花果とムーン』のインタビューが交互に入る、合間。
『本のおかわりもう一冊』が刷りあがったので、サイン本づくりのために、夕方、東京創元社に出向いた。
 あれ。なんか、またここにきてるな……?
 会議室のパイプ机にどーんと積まれた本に、さっそくどんどんサインしていく。編集さんや営業さんにシール貼りを手伝ってもらう。半分ほど終わると、燃料代わりにケーキをもらう。
 と……。

Z嬢 「あーっ」
わたし「どうしました?」
Z嬢 「小さいほうのシールが、もうすぐなくなりそうです……!」
わたし「しっ、しまった!」

 後藤啓介さんのイラストを使ったおおきなシール(『物語る少女と野獣』の付録用のもので、K子女史が多めに作っておいてくれた)の横に、いつもワンポイントで小さなシールも貼るのだけれど、うっかり少なめに持ってきてしまったのだ……。

わたし「がーん……(ショック)」
K浜氏「そうだ。ちょうどFが、作家さんとの打ち合わせから帰ってくるところだから、買ってこさせよう(と、あいふぉんを取りだす)。……あ、F? いまどこ? あっ、そう。文房具屋さんによってシール買ってきて。……はいっ」
わたし「(電話代わる)す、すまぬ……。小指の先ほどのサイズのかわいいシールを、百個ぐらい……。って、こんなざっくりした説明で、わかりますかね……」
F嬢 「はい、了解しました!(←ほんとうか?!)」

 安堵と不安の中、電話を切ってK浜氏に返す。
 意気消沈しつつ、またサインを続けていると、K浜氏がほがらかに、

K浜氏「そうだ、Fといえばさ……」
わたし「むっ?」
K浜氏「ほら、紀伊國屋書店新宿本店で、いま『走って!帰ってきた!桜庭ほんぽっ!』やってるのと同じ場所でさ、ちょっと前までやってた『ほんのまくら』ってフェアがあったでしょ」
Z嬢 「あぁ! 小説の最初の一行だけを見せて、タイトルも著者名も伏せて売るっていう話題のフェアですね。新聞や雑誌でもずいぶん取り上げられてましたね」
わたし「知ってる本が入ってると、うれしいんですよね~」
K浜氏「そう、あれだけどさ。じつは、某出版社の入社試験が、まさに『ほんのまくら』状態だったことがあるんだよ。冒頭だけを見せて、誰のなんの本か当てさせるという……」
Z嬢 「えぇーっ」
K浜氏「そしてね、その年に見事、その入社試験に合格した、伝説の女学生というのが、後の……」
わたし「ま、まさかっ」
K浜氏「そう。――Fなんだよ!!」
わたし「きゃーっ」
Z嬢 「わーっ」
F嬢 「お待たせしましたー! ……ん? なにかあったんですか? みなさん、冬の小鳥のように怯えて(←いい笑顔で)」

 なんでだ。怪談みたいだった。
 無事に小指の先ほどのかわいいシールも届いて、Fさん、すごいじゃないですかという話題にもなって……。と、上の編集部から『製鉄天使』文庫のゲラを抱えたK島氏が、確認事項があるとワタワタと降りてきて……。
 リチャード・マシスンの『地球最後の男』がみつからないと話したら、映画に合わせて『アイ・アム・レジェンド』のタイトルで新訳版が出てるとF嬢に教えられたり、じつはマシスンは素っ頓狂な『奇術師の密室』(まるでマタタビを嗅いだ猫が書いたような酩酊ミステリ)しか読んでないと言ったらK島氏にすごい勢いで叱られたので、トイレに行くふりをして走って逃げたり、ばたばたしているうちに、なんとか終わった。
 今日は作家さんの来訪が多い日で、上の階で北山猛邦さんが大学のミステリ研の男の子たちのインタビューを受けてた(しかも学生さんの中に鮎川賞でデビューが決まったばかりの人もいたらしい)ので、K島氏と北山さんと連れだって、いつもの「鳥どり」で飲むことにする。
 ちょうど文春で、20年ぶりにミステリーのオールタイムベストのアンケートを取っていたので、その話をしていたら、おやっ、ケーキ部長のM澤氏ソックリの人が……いや、本人だぞ……きょろきょろしながら、

M澤氏「……あ、いたいた! 携帯、お忘れでしたよー」
K島氏「あらまぁ、ぼくったら(頬に手を当てて)」

 と、帰りがけらしく、鞄にコート姿で現れた。
 そのまま、ハイボール一杯だけ、と座って、アンケートの話題から、この作家のベストはなにか、という話になる。
 カーだったら、K島氏は『ニューゲイトの花嫁』、M澤氏は『ユダの窓』かなぁ、とか。(わたしは『妖魔の森の家』が好き……)

K島氏「じゃ、ラヴゼイならやはり『偽のデュー警部』ですか?」
わたし「いやぁ……じつは『つなわたり』のほうが……。あと『苦い林檎酒』も、ねぇ(ニヤニヤ)」
K島氏「じゃ、横溝は? 北山さんは?」
北山氏「『八つ墓村』ですね(即答)」
M澤氏「『獄門島』!」
K島氏「ぼくも『獄門島』! あっ、でも『悪魔の手毬唄』も……。桜庭さんは?」
わたし「うーん、子供のころに図書室で読んだっきりで、最近になって、角川文庫の期間限定復刻カバーで買い直したので、読み直そうと思ってるところなんですよね。ええと、子供のときいちばん好きだったのは、こうこう、こう、こういう真相の、やつ……(説明)」
三人 「それ『本陣殺人事件』だよ!(ハモる)」

 そうだったのか!  あと、女性向けには、女性誌連載だった『女王蜂』が入門編としてはお勧めらしい。
 そして、風太郎では、清張では、連城では、佐野洋では、鮎川哲也では……。と、個人的ベスト1の話題が続く。

K島氏「島田荘司は? ぼく『北の夕鶴2/3の殺人』
北山氏「『暗闇坂の人喰いの木』!」
M澤氏「『斜め屋敷の犯罪』!」
わたし「わたしも『北の夕鶴~』。確か、文春I井氏のお勧めで読んだような。呪いの鎧武者が、こうっ……くくっ(と、顔芸)。しかし、どの作家の話題でも、いい感じにばらばらになりますねぇ」
K島氏「くくくくくく。じゃ、麻耶雄嵩は? ぼくは『鴉』
北山氏「『夏と冬の奏鳴曲』
M澤氏「『神様ゲーム』ですかねぇ」

 わぁわぁ話していると、壁をはさんで後ろの席の人がお会計に立った。あれっ、創元営業部のS沢さんだぞ。と思ったら、お連れは、ワッ、作家の伯方雪日さんだった。でも残念、新幹線でもう大阪に帰る時間だった……。
 また、ワーッと本の話題にもどる。

K島氏「M澤くんがさ、桜庭さんに一冊勧めるなら?」
M澤氏「エッ。(熟考)『午後の死』ですかね(厳か)」
わたし「……アッ!」
北山氏「どうしました?」
わたし「ちょっと前に、新宿ブックファーストのポケミス希少本フェアで買ったきり、洗面台の上の棚(もう積本の置き場所がない……)にずっと置いてあるやつですよ。読まなきゃ!」

 あと、好きなキャラランキングだったら、フロスト警部が上位じゃないか、いやペリイ・メイスンか、いまならジーヴス執事も?とか、延々話しているうちに店が閉まったので、千鳥足で帰ってきた。
 帰宅して、あれ、これも前、K島氏とF嬢が話してたやつだっけ、と『フリント船長がまだいい人だったころ』をみつけたので、床に転がって、読んだ。
 アメリカ北西部の漁港。アラスカで漁をする男たちと、待つ女たちの町。一四歳の少年カルは、大人たちの罪を知り、とある選択を迫られる……。その町の大人になるための、苦い洗礼のように。
 デビュー作特有の濃厚さ。原液そのものみたいな、濃い文章がどこまでも続く。心理的な伏線が蜘蛛の糸のように張られて、ゼロ時間……起こるべくして起こった、しかし外から見たらとても不可解な事件の瞬間へと、町も、人も、転がり落ちていく。
 このあまりに理解しがたく、薄ぼんやりと滲む事件を、あぁなるほどと読者に納得させるように書くことは、とてもとても難しい。奇跡のようなバランスを保ちながら、全体に静かすぎる、夕暮れ時のようなこの傑作……。
 この人、これ、いったいどうやって書いたんだ? すごすぎるだろう、と頭を抱え、困って考えこみながら、寝た。



本格ミステリの専門出版社|東京創元社