8月某日

「いまのビデオね、愛があるよね。あたし、誰にも愛がない感じがする。美香さんにも、パパにも……ねえ、水沼くんて人、どうしてあんなに優しく、お祖母ちゃんを撮れるんだろう。あたし、なにか欠けてるんじゃないかな」
「欠けてるって、なにが」

――『海がきこえるII アイがあるから』


「私には大切なものが欠けているんです」

――『蒸発』


K浜氏「ぼくね、6時までにこの本、読んじゃわないといけないのよ。今度復刊するの。見て見て、50年前のSF! これがね~。……あれっ、桜庭さん。なんでいるの?」
わたし「……」

 夕方。
 東京創元社の、冷房の効いた会議室。
 パッと入ったら、SF班K浜氏が、でろーんとして隅で本を読んでて、手にはいまにも崩れそうな、茶色い、昔の本が……(すでに質感が紙じゃない感じの!)。
 数十年前のコーヒーの染みで表紙がマーブル模様になってるのを、思わず黙ってじっと見てたら、

K浜氏「いや、これはぼくがこぼしたんじゃないよッ!」
わたし「わかりますよっ。……今日は、そろそろ缶詰に入るのでその前に、K島氏とゴハンの約束をしてるんです」
K浜氏「あっ、そうー」

 この空間、この空気、なにかに似てるな、でもなんだろう、出版社じゃなくて、えぇと……と首をかしげてたら、扉がバンッと開いて、F嬢がさっそうと現れた。

わたし「こんにち……」
F嬢 「桜庭さん! ちょうどよかったです~。明日停電なので、アイス食べてってください~」
わたし「エッ、アイス? わたしが? アイス? ん?」
F嬢 「バニラと抹茶、どっちがいいですか?」
わたし「エッ、じゃ、抹茶……?」
F嬢 「K浜さんもぜひご協力を!」
K浜氏「ぼく、もう二本食べたもんね……(と、本読みながらくるっと背を向ける)」
F嬢 「ちぇっ。……じゃ、いま取ってきま、す……。アッ(小声)」

 なぜだろう。
 出ていこうとして、F嬢が、扉に挟まる。
 K浜氏がそれを見て、「ワッハッハ。挟まった~」と笑う。
 ……わかった!
 部室だ! 部室っぽいんだ。ここ……!
 K浜氏と「宮内くん、直木賞残念でしたねぇ」などと話していると、抹茶アイスバーを載せたお盆を掲げたF嬢が、今度は不思議なほどしずしずと現れた。齧りながら、こないだ借りてた本を返したり、新たなお勧めという『第七階層からの眺め』を借りたり。あと、「桜庭さん、アンジェラ・カーターお好きじゃないですか。『ワイズ・チルドレン』とかの人ですが~」と言われて、あわててあいふぉんにメモしたり……。
 ケーキ部長M澤氏が顔を出して「K島さん、やんごとない理由でちょっと遅れますー」と言う。
 と、F嬢がすっくと立ちあがって「桜庭さん、さっきの本、一度返してください。“自分への手紙”をはさんだままでした」「えっ、なに?」「あったあった~」と、本のあいだから謎の紙片を取りだした。「自分への手紙って?」「フフフ……(と、悪い笑顔)」
 しばらくすると、K島氏が、なぜか手の甲で涙を拭きながら現れた。

わたし「泣いてる!?(瞬きで心のシャッターを何度も押す!)」
K島氏「部屋の掃除をしてたら、ハウスダストで涙が止まらなくなっちゃったんですよ。ぼくはけっして泣いてるわけではなく……」
わたし「……(心のシャッターを夢中で押してる)」
K島氏「だから、泣いてるんじゃないですってば! もうっ、なんでそんなに静かにうれしそうなんですかっ! その、顔っ!!(悔しがる)」

 K島氏が泣きながらじたばたする。
 それから、部室(?)をいつのまにか占領して、わぁわぁ本の話をする。K島氏は学生時代に読んだ『夜ごとのサーカス』『マゴット』がロングセラー的なお勧めらしい。あと、

K島氏「今度出る『原色の想像力3』が、傑作が多いらしいですよ。K浜がいま作ってますけど。改稿してもらうたびにレベルが上がってるみたいです」
わたし「あらっ。そうなんですか、K浜さん? ……って、あれっ、いつのまにかいない?」
F嬢 「また人の自転車に乗って走り去ってしまったんでしょうか……」
わたし「しかし、『原色~』とか『NOVA』とかで、新人さんの短編読むのって妙に楽しい時間ですよね。またチェックしよっと」

 外が暗くなってきたので、部室(じゃなくて会議室……)のエアコンと電気を切って、外に出る。3人で近くのレストランに向かった。
 前菜、パスタ、お肉、で、また前菜からもう一度……。モリモリご飯を食べながら、

K島氏「さいきん、なにが面白かったですか?」
わたし「そうそう。夏樹静子を読み返すって、こないだ言ったじゃないですか」
K島氏「アッ。短編『宅配便の女』をお読みでしたよね。あと『特急夕月』も傑作なんだよなぁ!」
わたし「で、その後、長編もと思って、ツイッターで勧められた『蒸発』を読んだんですよ。すっごくよかった! ミステリとしてカチッカチッと安定したものを読まされてて、でも最後に事件が解決した後、心にとんだ大波が、ザバーンと……。わたし、ああいうの好きみたいです。思わず大岡昇平の『事件』の隣に置きましたよ」
K島氏「お~。長編だと、あと『黒白の旅路』『わが郷愁のマリアンヌ』もいいですよ~。あと『訃報は午後二時に届く』『天使が消えていく』とか」
わたし「世代的には、角川映画の影響で『Wの悲劇』なんですけどね。『わたし、おじいさまを殺してしまったぁ!』」

 とか話しながら、全部食べ終わって、デザートは喫茶店に移動することに。
 K島氏が薔薇のケーキ、わたしが抹茶ケーキ、F嬢が季節のフルーツスムージーを頼む。
 薔薇飾りつきのピンクのケーキとダークチョコが刺さった緑のケーキがやってくると、なぜかK島氏が、ベルばらのようなポーズをとった。目をきらきらさせてこっちをじっと見てるので、いったいどうしたのかなと、女二人で見守る。
 すると……。

K島氏「ぼくにぴったりの、すてきな薔薇のケーキ!」
わたし「!?」
F嬢 「!?」
わたし「……え、えっと、わたしにぴったりの、渋い抹茶のケーキ……? ちょっと、失敬な!」
K島氏「やだなぁ~。ご自分でおっしゃったんじゃないですか~。あははは。(貴婦人のように勝ち誇る)」

 ……。
 さっきの、なんだろう……、やはり勝てないのは、なんでなんだろう……、とまた首をかしげながら、帰宅した。
 で、久しぶりに、とこないだ一巻を読んでから、続きがジワジワと気になってた『海がきこえるII アイがあるから』を手に取った。あぁ、懐かしいなと思いながら読んで、途中でお風呂に入って、『毛沢東の赤ワイン』で、中国の白酒、フィンランドの黒パンサンドイッチ、シンガポールの肉骨茶……世界中のおいしいもののことを延々読んで、出てきて、また小説にもどった。でもいつのまにか寝てしまった。



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