11月28日

 人間なんかに生まれなければよかった。
 鳥や獣に生まれて、お父さんやお母さんや兄妹たちと寄り添い合って、いつまでも仲良く暮らしていたかった。
 敵が反撃を始めた。

「おはようございます、大統領閣下」


――『ジェノサイド』

 夕方までお仕事して、着替えて、出かける。
 今日は角川書店で『GOSICK』『ジェノサイド』の対談である(高野和明さんには以前、角川文庫版『推定少女』の解説でお世話になったことがある)。昨日、ばっちり復習読みして用意したレポートみたいなのがあるので、勇んで鞄に入れる。
 と、駅の近くまでぷらぷら歩いたところで……。
 ハングル訛りの若い女の人の声が、耳に飛びこんできた。

女の人「やる、つったら、やんだよぉ! ……あぁん? 血なんか出るよぉ。あぁ? 病院? 行かねーよ。い、い、か、ら。やれよなぁーっ!」

 ……出入り?
 脳内で『製鉄天使』の「ぱらりらぱらりら……!」が蘇る。歩きながらちらっと見ると、ベレー帽をかぶったかわいい顔の子で、クリーム色のトイプードルを散歩させながら、ほっぺたに携帯電話を押し当てていた……。
 駅に着いた。飯田橋駅を目指して電車に乗ると、今度は、さっきと同じぐらいの年頃の日本人の女の子二人組がドア付近に立って、なにやら激論していた。

女の子「冷凍庫は上か下か。答えはだんぜん下だよ。ねぇ、なんでかわかる?」
連れ 「さぁ」
女の子「上に冷凍庫があるタイプの冷蔵庫だとさ、開けたときに、ぜったい、中のタッパーや冷凍食品がザザーッと落ちてくるじゃん! 床まで落下! これ悲惨だよね。だけど、下にあるタイプなら……(と、不敵な笑み)」
連れ 「あぁ」
女の子「フフフ、わかった?」

 若者たちがどのような苛烈な生を歩んでいるのかはわからないが、しかし、どちらの子にも不思議な勢いがあった。
 そんな街の声に耳を澄ましながら、飯田橋駅に着き、角川書店まで歩く。おぉ。新しい本社ビルが摩天楼のようにそびえている。かっこいいじゃないか。
 ビル内にある図書室みたいなところで写真を撮ってから、会議室で対談になった。
 今年のエンタメ界は、『ジェノサイド』の緑一色に見える。11月末の時点で、〈本の雑誌〉上半期の1位になって、山田風太郎賞受賞、〈週刊文春〉ミステリー国内1位……。「大きな物語」を作るのが困難なはずの今、著者はなにを成し遂げたのか? を、わたしは昨夜、探偵になったつもりで推理していた(小説の探偵には、事件とちがって答えがたくさんあってオモロイ)。
 この物語には研人、イエーガーという二人の主人公と、ルーベンスという準主役級の男が出てくる。著者インタビューによると、ルーベンスは最初は悪役だったが、途中から変わったという。探偵は問う。「……ルーベンスよ、君はなぜ悪役であることを拒否したのか?」
 ルーベンスは答えない。
 安楽椅子に揺られながら、推理する……。
 研人とイエーガーは物語のプロットの前段階、まだ豆粒ぐらいの胎児のときには、一人の人間だったのだ。善人で、心正しい主人公。そのため、運命的な敵ルーベンス(こっちは天才肌で、悪の華)も、別の腹から生まれた。しかし著者は、プロットを作る段階で、主人公を二人に分ける必要を感じたのだろう。頭脳と体、推理とアクション、日本とアメリカ、と双子は役割を分けられ、矢のように世界に放たれた。研人は「息子」として父を追い、イエーガーは「父」として息子を救おうとする。彼らは、互いの「父と息子」の関係、父を、息子を、取りもどすという人生の任務に深くコミットし合う。その「父と息子」という関係は、後に物語の大きなテーマでも反復されることになる。彼らの、とあるもののための戦いもまた、「父と息子」の似姿なのだ。
 しかし、こうして主人公が二人になったことで、一方のルーベンスは、物語から選択を迫られてしまった。「自身も二人に分裂する」(天才肌の頭脳担当とアクション担当に分かれ、主人公たちをそれぞれ追う)か、「悪役ではなくなる」か。ルーベンス(=著者の無意識)は、痛みにのた打ち回った末に(胎児が大きくなるほど、キャラクターの変質は著者の肉体を蝕む)、後者を選択した。そこで物語は、「主人公たちと準主役級の3人の男が真相を追う」ものになっていった。見回すともう人間の敵はどこにもいない。
 すると……。
 物語における「敵」は国家でも個人でもなく、巨大な「謎」そのものになった。このとき物語は大きな音を立てて化けたのだろう。最後、3人でついに「謎」を解くと、それは光りながら反転して、「未来への希望」に変身する。
 このブレークスルーを経て、研人は「父」を取りかえし、(ある意味では)「父」となることもできた。謎を解き、アクションでなにかを倒して終わるのではなく。現代の日本を舞台に、エンタメで、大規模なビルドゥングスロマンはこうして成立した(書き手から見るとこれはすごいこと)。
 さて、今、大きな物語作りが困難なのはなぜかというと、「敵」が作りづらい(冷戦も終わってる、敵はいるらしいけど目には見えない)ことや、恋愛関係でお話を牽引するのが難しいためかなぁ、とわたしは思う(『GOSICK』が「愛」と「敵」を獲得しているのは、舞台を過去に設定したからだ)。
 では、現代の日本を舞台にしたとき、どうやって書けばよいのか?
『ジェノサイド』に答えのうちの一つ(ほかにもいくつかあるはず! でもまだ発見されてない!)がある。
「敵」を「謎」そのものとし、未来に繋げること。「愛」を男女間の恋愛から「父と子」など家族の絆にシフトすること。
 なにより大事なのは、著者が小手先の計算(たとえば『ジェノサイド』を読んで真似するとか……)じゃなく、熊と戦うマタギのように無意識の領域で物語と格闘し、自分の道をみつけること。
 というのが、わたしの推理(いや、誤読……?)だ。
 と、「名探偵、皆を集めてさてと言い……」よろしく披露したところ、高野さんのお返事は「ふぅむ」だった(どっち? 誤読……!?)。
 対談がぶじ(?)に終わって、一同でぞろぞろとゴハンに行った。
 確かケストナーをお好きだというのをどこかで読んだような気がしたので、聞いてみたら、いちばんのお勧めは『雪の中の三人男』だという。児童文学の作品群を読み倒して、あっ、大人向けに創元推理文庫からユーモア小説も三冊出てるぞと気づいて、さっそく買って、コタツの上にポンと置いた……ところで、急にほかのを読みだしたりしてピタッと止まっていた。確かそのうちの一冊だ。おっ、ちょうどよかった、コタツの上にあるじゃん、読もう、とメモメモした。
 高野さんは若いころ、自在に宙返りができたらしい。
 夜は更け……。迷探偵は、帰りのタクシーの中で、付添いのK子女史に威張って「今夜はなかなか冴えてたでしょう。いつもあほじゃないんですよ」「はいはい……。それよりこの道でいいんですっけ?」「アッ、引っ越したばかりでわからない」「わたしだってわかりませんよ。人のうちだもの」「お、お客さん……!」と言いあいながらも、なんとか帰宅して、寝た。

(2011年12月)

桜庭一樹(さくらば・かずき)
1999年「夜空に、満天の星」(『AD2015隔離都市 ロンリネス・ガーディアン』と改題して刊行)で第1回ファミ通えんため大賞に佳作入選。以降、ゲームなどのノベライズと並行してオリジナル小説を発表。2003年開始の〈GOSICK〉シリーズで多くの読者を獲得し、さらに04年に発表した『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が高く評価される。05年に刊行した『少女には向かない職業』は、初の一般向け作品として注目を集めた。“初期の代表作”とされる『赤朽葉家の伝説』で、07年、第60回日本推理作家協会賞を受賞。08年、『私の男』で第138回直木賞を受賞。著作は他に『荒野』『ファミリーポートレイト』『製鉄天使』『道徳という名の少年』『伏-贋作・里見八犬伝-』、エッセイ集『少年になり、本を買うのだ 桜庭一樹読書日記』『書店はタイムマシーン 桜庭一樹読書日記』『お好みの本、入荷しました 桜庭一樹読書日記』『本に埋もれて暮らしたい 桜庭一樹読書日記』など多数。


ミステリ小説、SF小説|東京創元社