3月18日

 封筒の封をした箇所に、大きく見開いた睫毛の長い眼が一つだけ、ペンで丹念に描いてある。(略)
「つまんない手紙だな」
 と一郎が呟くと、傍らから一郎の手もとを覗きこんでいた大きい叔父は、
「この次くる手紙の封のところには、きっと瞑った片眼が描いてあるぞ」
 と笑いながら言った。


――「悪い夏」

 午後二時四六分。
 黙祷。
 地震から一週間。
 ぐっちゃぐちゃになった仕事場の床に落っこちたままとまってた壁時計の針は、二時五八分ぐらいだった。
 せまいほうの部屋(本棚とか資料溜めてる穴倉みたいなの)に篭もって、セーターとマタギジャンパーをモコモコと着こみ、節電しつつ仕事中だ。当たり前だけど、どの締め切りも一秒も延びない……。五月に出る『ばらばら死体の夜』単行本と、『青年のための読書クラブ』文庫と、『GOSICKs IV-ゴシック・冬のサクリファイス-』などのゲラを淡々とやっつけている。『ブルースカイ』(新装版)のラストの章“最後の三日間の話”を読むと、唸る。
 福島の原子力発電所から黒煙が上がり始めている。
 おっきい余震もずっと続いてる。揺れる直前に、みんなの携帯電話の地震速報が鳴りだすらしくって、編集さんから「空襲警報みたい……!」と聞いた。
 この日は夕方から〈野性時代〉で、新刊『GOSICK VII-ゴシック・薔薇色の人生-』のインタビューが入ってたので、ヨイショと出かけた。終わって編集さん、ライターさんたちとご飯を食べた。洋食屋さんは空いてて、店の人もメンツの一人みたいにどんどん話題に入ってきた。
 M宅氏(〈野性時代〉の編集長になった)が「これから作家の書くものは変わるのか?」と聞く。わたしはよく考えて「……変わる」と答えた。
 それにしても人と会って、ああだった、こうだった、と話したほうが気分が変わるみたいだなぁ、と言いあう。このころから人とご飯やお茶の約束をすることが増えた。
 久しぶりのお酒が回って、へろ~と帰宅して、本を読もうと手近なものをぱらぱらした。むぅ、なんだかなかなか頭に入ってこないなぁ。筒井康隆の『懲戒の部屋』という短編集を読みだしたら、「乗越駅の刑罰」というブラック・ユーモアに満ちた面白い短編で、あっ、でもいまはむりかも……と思って、一回閉じた。で、唐突に吉行淳之介に鞍替えして『悪い夏・花束』という短編集を読んだら、なぜかこっちは楽だった。いつもとどっかちがうみたいだな……。悪意を娯楽にした作品が、平常時にはケタケタ笑えるのに、いまはうまく消化できない。吉行淳之介のほうは、遠い夏の日々が霧の向こうにやさしくかすんでるような書き方で、あっ、こっちは大丈夫なんだ、と思う。
 K子女史から、先週は放映されなかった『GOSICK』のアニメが、今週は流れるようだと連絡がきた。吉行淳之介を布団の上にポコンとおいて、電気の使用量が少なくなる時間を待って、ばたばたっとお風呂に入った。お風呂が好きだー。でもすぐ出てきて、テレビの前に座った。
 先々週までとまるで同じように、アニメが元気よく始まった。
 いつもの舞台。いつもの顔。いつもの声。
 とつぜん、力いっぱいせきとめていた一週間の緊張や怒りや悲しみが決壊して、床に座ったまま大声を上げて泣いた。ここは被災地じゃないのに。恵まれてるのに。東京で働きながら泣くなんて自分勝手すぎるぞ、と思う。でも止めようのない濁流のような感情で、あぁ、面白いはずの本を読もうとしても、どうしてもうまくできなかったのは、小説の中の生の感情に映った、自分自身の“これ”のせいだったんだ、と気がつく。
 なにげない日常――。こうして好きな番組を見たり、誰かと出かけたり、働いたりするのは、なんてすばらしいことだったんだろう、と心の底から実感する。同時に、その本当のことが、言葉にするとやっぱりきっぱり大陳腐なことにびっくりして目の前がまっ黄色になった。
 ……起こってしまったことは誰にも変えられない。
 でも。だからこそ。
 K子女史から「がんばろう! 人力で世界を回すんだ!」とリプライがくる。
 そうだ、みんながんばらなくちゃ……。
 震えて寝た。



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