3月16日

神話や伝承の価値は、それが事実か否かよりも、どれだけ多くの人がどれだけ長い間信じてきたかにある。ローマ人はずっと、自分たちはトロイの勇者の末裔だと信じてきたし、ギリシア人でさえもそう思っていたのだった。


――『ローマ人の物語1 ローマは一日にして成らず(上)』


F嬢 「いま、本が……」
わたし「……ン?」

 東京創元社。
 夕方である。
 地震当日に延期になったインタビューを受けに、ヘロヘロでやってきた。その後、SF班K浜氏と薙刀F嬢と三人で、近くのケーキ屋でぼけーっとコーヒーを飲んだ。初めて入った店だけど、ママさんともぺちゃくちゃとおしゃべりした。
 あれ以来、報道を通して被災地の状況を追っている。募金したり、個人からの救援物資をまとめてくれるボランティア団体を探してものを送ったり、できることを探すけどもすくない。実感がなくてフワフワしたまま、神経の覚醒状態が続いてるみたいだな……。
 首都圏ではお弁当やパンなど、すぐ食べられるものが不足している。自分で料理をしないお年寄りが困るから、買い占めないようにという呼びかけがある。水とかも、コンビニの前にトラックが停まっては商品を積んで、被災地向けに運んでいくからほとんどない。電力不足のために東京では計画停電も始まった。企業も個人も節電を心がけるから、夜の街はすごく暗い。誰かが、昔の灯火管制を思いだすなぁと言った。
 そんな中、K島氏が「パンはないけど、ケーキ屋は普通に開いてますよ」と気づいて指摘した。わたしもうっすら気づいていた……。するとK浜氏が「ぼく、普段から水じゃなくてビールを飲んでる」というので、そういやわたしもポンジュースばっかりだった、と思いだす。
 自粛したい気持ちは強くあるけど、外食産業も看板を暗くしつつ営業しているし、できる状態の人はいつもどおり外で消費をしないと、このまま経済が先細りになってしまうと危惧する声も出始めている。
 ケーキ屋でチーズスフレを食べながら、つい一月ほど前に、朝日新聞の記者さんから「日本のGNPが世界二位からついに三位に落ちた」ことについて取材を受けたばっかりだけど、このままもっと落ちていくんじゃないかな、といった話題が続いた。それから、これからの出版界の話もした。製紙工場の被害もあって、当面は紙不足が深刻らしい。本も雑誌も部数を落とすだろうし、その間にちいさな出版社から倒れていくかも。
 といった話から、徐々にそれぞれの状況の話題に変わり、

F嬢 「桜庭さん。いま、本が読めますか?」
わたし「う、ん……」

 ちょうど、〈週刊文春〉のフリル王子からも、いま読むべき本という特集に寄稿してほしいと連絡があったところだったので、ウーンと腕を組む。
 被災地とは比べるまでもなく日常を送れている、恵まれているけれど、テレビからは連日、津波の映像や悲惨な状況が流れてきて、ツイッターでは善意と正義が全裸で走り回っている。余震もずっと続いていて、平常時ならワワッと浮き足立つほど、一つ一つがおっきい。
 地下鉄はなんとなく怖くってJRでゴトゴトと帰った。
 帰宅してから、『ローマ人の物語1 ローマは一日にして成らず(上)』(塩野七生)を開いてゆっくり読み始めた。
 きっかけは、連日テレビに出ずっぱりの枝野官房長官の愛読書だと知って興味が沸いたからで、シリーズをまとめて買って枕元にポンとおいてたのだ。
 紀元前753年。一人の若者と彼に従うたった3000人によって建国されたローマは、七代も続いた王政によって国家の形を成していくが、後に共和政に移行した。古代ローマ帝国1000年の興亡の、長くて一瞬の物語――。
 一個人と国家をめぐる幾つものドラマ。幾たびの苦難を乗り越えて復興、発展していく巨人の如き古代国家。その中で沸き起こるそれぞれの正義の、眩しいほどの正しさ。つぎつぎ起こる悲劇。義侠心と激しい不安。愛。容赦のない時の流れ。……人の感情が生々しく溢れてくるのではなくて、著者と物語のあいだに、ある長い距離が取られたまま、あくまでも淡々と語られる。そのためか、ささくれだった心にも言葉が清涼に流れこんできた。読んでいくうちに、心がわずかに落ち着く。
 長い長いお話なので、いつまでも読んでいた。



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