11月某日

 そのうちでした。白い書面から聞こえる言葉が『まだ生きちょるよ』から『まだ死ねんでおるよ』と変わったのは。


――『花の下にて春死なむ』

 昼過ぎに起きて、夕方まで原稿を書いて、ぷらっと散歩に出た。酷暑が終わったと思ったらもう冬かー、と思いながら、本屋に入ってあれこれ物色して、出てきた。大通りを避けて、薄暗い横道を無職っぽくへんに元気よく歩いていたら、
 ――キキーッ!
 うわっと!
 と、チャリンコにあやうく轢かれかけた。あの世に続くような細くて暗い坂道を勢いよく下ってきたチャリは、交番の前によく停まってる、後ろに白い箱みたいなのがついてる、あれ。乗っていたのは、警官の制服を着て……なぜか満面の笑みを浮かべた、70歳過ぎぐらいのおじいさんだった。
 あっ、どうも、と会釈しあってまた歩きだして、エッ、あれっと思って振りかえった。と、おじいさんを乗せたチャリンコはもういない。
 待てよ、あんなに年配のおまわりさんっているかな、と首をかしげながらも、まぁいいや、いたんだなとうなずき、とことこと家に帰ってきた。
 そういや昔、霊感があるという友達が、こないだこんなの見た、あんなのも見た、と話すのを聞きながら、わたしには霊感がないけど、もしなにかへんなものを見ても、性格的にぜんぜん気づかないかもな、と思ったことがあった。ちいさな緑色のおじさんが壁を這ってても、知らずに本を読んでるかもしれないし、風呂の湯の下から長い髪の女が顔を出しても、本読んでるかもしれないし、それに……。もし深夜のコンビニ帰り、首のない旧日本軍兵士とすれちがったとして、ちゃんと気づく人の割合は半分弱じゃないかな。日々、適度な緊張と半目の無関心のバランスを取りながら外を歩いてるから、気づく自信がない……。
 たしかカール・セーガンの本(『人はなぜエセ科学に騙されるのか』だったと思うけど……)で、アメリカでUFOの目撃談や宇宙人に誘拐された体験が多いのは、ヨーロッパなどとちがって歴史が浅くて、自分たちの不思議を支える妖精や伝説を持っていないからだ、という説を読んだことがある。宇宙人とは、歴史浅きアメリカ人専用の妖精的装置なんだ……。
 必然と興味と想像力がないと、見えない。なんだってそうだ。
 いますれちがった老おまわりさんもお化けだったりして、わかんないけど、と考えながら、うちに入った。ご飯食べて、ちょっと仕事してから、ジュンク堂で「書店員オススメ本」の帯がかかってたので、そういや前から気になってた、とふと買った『花の下にて春死なむ』(北森鴻)を読み始めた。
 ビアバー『香菜里屋』の客が、マスターの工藤に語ることから始まる謎解きの連作集。天涯孤独のまま死んだ俳人の、人生の謎とは……。セーターに空いたちいさな穴のような疑問が、それぞれの人生の、けしてちいさくない喪失の物語を広げていく。
 読み終わって、ちょっと周りを片付けて、郵便物を整理していたら、講談社から届いた荷物から、新刊の『MARVELOUS MYSTERY』が出てきた。雑誌に発表された短編を集めたアンソロジーで、わたしの「脂肪遊戯」が掲載されているやつだ。
 ぱらぱらしていたら、なんと偶然で、いま読んでいた『香菜里屋』マスターのシリーズ「ラストマティーニ」が収録されていた。おぉ、と思って、その場でしゃがんだまま読み始めた。
 最後の一杯に、失敗作のマティーニを出したっきり、どこへともなく消えた老バーテン。彼はなぜあの夜、失敗したのか? そしてどこに行ったのか……?
 シリーズの最初からずっと、一定のつめたい空気がある。静かで、悲しくて、でも情熱的なある曲が流れ続けてる、とでもいう感じ……。どんなジャンルの、なんて曲なのかはわたしにはぜんぜんわからない。音楽にひどくうといからだ。うーん、タンゴ、かな? 日本の本だけど、外国の音楽だと思える。
 読み終わってからも、音楽だけがずっと続いてるようで、この夜は部屋がなかなか、いつもの無音の状態に、いつまでももどろうとしなかった。

(2010年12月)

桜庭一樹(さくらば・かずき)
1999年「夜空に、満天の星」(『AD2015隔離都市 ロンリネス・ガーディアン』と改題して刊行)で第1回ファミ通えんため大賞に佳作入選。以降、ゲームなどのノベライズと並行してオリジナル小説を発表。2003年開始の〈GOSICK〉シリーズで多くの読者を獲得し、さらに04年に発表した『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が高く評価される。05年に刊行した『少女には向かない職業』は、初の一般向け作品として注目を集めた。“初期の代表作”とされる『赤朽葉家の伝説』で、07年、第60回日本推理作家協会賞を受賞。08年、『私の男』で第138回直木賞を受賞。著作は他に『荒野』『ファミリーポートレイト』『製鉄天使』『道徳という名の少年』『伏-贋作・里見八犬伝-』、エッセイ集『少年になり、本を買うのだ 桜庭一樹読書日記』『お好みの本、入荷しました 桜庭一樹読書日記』など多数。読書日記第2弾『書店はタイムマシーン』文庫版は好評発売中。


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