(これをやった後、俺は良心の呵責に悩まされるやろか。自分の犯した殺人に震えおののくやろか。生きた人間を生きたまま殺す。こんな大それた行為を果したあと、俺は生涯くるしむやろか)  ぼくは顔をあげた。柴田助教授も浅井助手も唇に微笑さえうかべていた。(この人たちも結局、俺と同じやな。やがて罰せられる日が来ても、彼らの恐怖は世間や社会の罰にたいしてだけだ。自分の良心にたいしてではないのだ)

 不気味といえば誇張がある。ふしぎのほうがまだピッタリとする。ぼくはあなた達にもききたい。あなた達もやはり、ぼくと同じように一皮むけば、他人の死、他人の苦しみに無感動なのだろうか。多少の悪ならば社会から罰せられない以上はそれほどの後ろめたさ、恥ずかしさもなく今日まで通してきたのだろうか。そしてある日、そんな自分がふしぎだと感じたことがあるだろうか。

 殺した、殺した、殺した、殺した……


――『海と毒薬』

7月某日


わたし「ほんっと、忙しいんですよ!」
K島氏「ぼくもですーッ!」
わたし「もう、顔がくっしゃくしゃのシワシワなんです。髪も切ったらオカッパみたいになったし。わたしの見た目、きっとこのまま、晩年の岸田今日子みたいになっていくんじゃないですかねぇ……」
K島氏「えーっ、晩年の岸田今日子……」
わたし「なに? なんですか? そんなに目をキラキラ輝かせちゃって……」
K島氏「い、いいじゃないですかぁっ!」
わたし「……」

 土曜の、夜。
 新宿の喫茶店である。
 ほんとうは、週末には打ち合わせはあまり入らないものなのだけれど、二人ともあまりにもばたばたしていて、どうもこの日しかなかったのだ。
 周囲は、週末に新宿で遊んでるぜというテンションの人たち。ちょうどバーゲンが始まっていて、疲労した横顔でアイス・ラテなどをすする大荷物の女性もちらほらいる。外を歩くと、旅行者らしき人たちの中国語や韓国語がひんぱんに耳に飛びこんでくるけれど、なぜか喫茶店ではほとんど聞かれない。
 目の前には、9月に刊行される『赤朽葉家の伝説』文庫化のゲラが、どぉーんとある。
 で、日程とか諸々の打ち合わせを済ませて、雑談などしてるうちに、なぜか岸田今日子の話になった。

わたし「たしかに女優としても、それに文才もすごい人でしたけど、でも、まだ半分ぐらいの年で同じ顔になるのは、やっぱり……」
K島氏「いやー、いいことじゃないですかー(ほくほく)」
わたし「あれっ。そういやこないだも、わたしが高峰秀子の話をしてたら、『でもぼくは沢村貞子のほうがいいですぅー』って言ってましたよね。K島さんって、ときどきよくわかんないなー、もう……」
K島氏「沢村貞子は、ほんっとうに素晴らしいんですよっ。まずですねっ、着物の着方が……襟を、こうですね……」
わたし「ぼー……」

 と、話題が難解かつ和風かつハイセンスになっていき、正直よくわからない。でっかいケーキをもりもり食べ終わり、ショーウインドウのマネキンのように静止して、地球温暖化のことや、ゴア元副大統領のとつぜんの熟年別居について考えていると、話がいつのまにか「20世紀イギリス小説個性派セレクション」についてになっていた。ハッ、と覚醒する。

わたし「なんですか、それ?」
K島氏「訳者が横山茂雄で、責任編集もこの人ともうお一方でやるシリーズなんです。ちょうど第一弾の『ヴィクトリア朝の寝椅子』が出たところで。この横山さんって、桜庭さん、知ってますよね?」
わたし「はて……」
K島氏「『アムネジア』の作者の本名ですよ。とんでもない本読みの方で、つまり、この人のセレクトということはですね……」
わたし「ほぅ!」

 メモメモ!
 帰り道、新宿駅南口の改札前で「ここ、K島さんがおじさんにお尻を触られて半泣きになってた場所ですよねー。あはは」「いやっ、ここじゃないです! ここは桜庭さんがとつぜんアビコタケマルーッて叫んだ場所でしょっ」「あれ、そうだったっけ……」と、モァモァの暑さが脳に回ったのか、よくわからない会話をしながら別れて、ぷらぷらと歩いて帰ってきた。
 風呂に、文春S藤女史からもらった「こびとづかん」というキャラクターのバスボール(青くて丸いやつで、お湯に入れるとシュワシュワ~と溶けて、中から不気味な妖怪の人形がポンと出てくる)を入れて、ゆっくり浸かった。
 で、風呂を出てしばしぼーっとしてから、とつぜん『海と毒薬』を読んだ。ずっと前からうちにあって、なぜかまだ読んでなかった本だ。
 第二次世界大戦末期、九州の大学付属病院で、日本人医師たちによるアメリカ軍捕虜の生体解剖事件があった。それをもとにクリスチャンの遠藤周作が書いた小説。罪と罰をめぐるこの物語は、著者のエッセイによると第二部が書かれるはずだったけれど、それは書かれないまま終わったらしい。
 あぁー!
 とにかく、上手い。
 いきなり舞台に入らず、遠くから遠くから核心に近づいていく。戦後のとある町の静かな風景。でも繰りかえし描かれる、洋服屋のウインドーで揺れている不気味な白人の人形。語り手も変わっていき、すこしずつ過去に……。“どうして事件が起こったのか”をじわじわと“具体化”させていく、作家の、つめたく冷えた鋼鉄の筆……。
 作者によって第二部が書かれなかったように、最後のシーンでひたすら口ごもり続ける主人公の顔が、こっちに迫りながらあいまいに滲んでいくようで、いつまでもそれを考えてしまいながら……ばたっ! 誰かにまた背後に回られて、電源OFFされた。もう、寝た。

(2010年8月)

桜庭一樹(さくらば・かずき)
1999年「夜空に、満天の星」(『AD2015隔離都市 ロンリネス・ガーディアン』と改題して刊行)で第1回ファミ通えんため大賞に佳作入選。以降、ゲームなどのノベライズと並行してオリジナル小説を発表。2003年開始の〈GOSICK〉シリーズで多くの読者を獲得し、さらに04年に発表した『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が高く評価される。05年に刊行した『少女には向かない職業』は、初の一般向け作品として注目を集めた。“初期の代表作”とされる『赤朽葉家の伝説』で、07年、第60回日本推理作家協会賞を受賞。08年、『私の男』で第138回直木賞を受賞。著作は他に『荒野』『ファミリーポートレイト』『製鉄天使』、エッセイ集『少年になり、本を買うのだ 桜庭一樹読書日記』『書店はタイムマシーン 桜庭一樹読書日記』『お好みの本、入荷しました 桜庭一樹読書日記』など多数。最新刊は『道徳という名の少年』。


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