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パーティーが終わった後、控え室の伊坂さんに挨拶に行く。緊張するなー。一緒に写真を撮ってもらう。伊坂さんが面白いと言っていたと人づてに……というかオツボメンづてに……聞いた『白檀の刑』(莫言/中央公論新社)の話をしたら、同じ作者の最新作がすげぇ面白いと教えてくれた。帰宅して、さっそくパソコンをつけて、紀伊國屋書店BOOKWEBで検索してみる。これだと、本店と南店の、何階のどの棚にあるかわかるので、歩いてすぐ買いに行けるのだ。『転生夢現』(中央公論新社)。あったあった。一階の海外文学棚A37。 それから風呂に入って、うどんを茹でて葱と卵でかきたまうどんにして食べて、コタツに足だけ入れて(俺はコタツが本当に好きなので、足湯状態で膝下だけ入れるなどして、ギリギリの季節、4月中旬までむりやり入り続けるのだ)、出かける前にも読んでいた『ヒースクリフは殺人犯か?』の続きを読んだ。 これは、オクスフォード大学出版局から復刊されたペーパーバック版「ワールド・クラシックス」という、ヴィクトリア朝小説のレーベル用に書かれた解説を集めて一冊にした本だ。あまり小難しいことは書かず、読者の興味を引くような解説にしようと、古典の矛盾点を面白おかしくついたり、人間関係をワイドショー的に深読みしたりしたりしていて、なかなか面白い。 知ってる本と知らない本が混ざっているので飛ばし飛ばし読んだのだけれど、中でも自分が大好きなオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(新潮文庫)を“匂い”の観点から読み解いた「27 なぜこの小説は不安を誘うのか?」が目からウロコで超面白かった。 『ドリアン・グレイ』は刊行当時、イギリスでヒステリックなほどの反発を受けた。でもお話の中身は、美貌の青年が醜い魂を持ったことによってそのかんばせを汚していくというもので、じつは、堅苦しいヴィクトリア朝の人々を納得させる道徳主義的な作品だ。たとえ同性愛や、女性を堕落させる悪行が書かれていたとしても、それだけであんなにも激しく反発されるものか? この作品が嫌悪された原因はじつはほかにあったのではないか? よく読むと、『ドリアン・グレイの肖像』には全編“匂い”の描写が満ちている。作者がやたらと強調しているのだ。青年ドリアンが悪の先輩ヘンリー・ウォットン卿と出会うシーンでは、アトリエには薔薇の香り、ドアの外からはライラックとサンザシ、紙巻煙草の煙、キングサリの蜂蜜みたいな香り……が溢れ、読んでいてもむせるほどだ。 著者によると、もともとアングロサクソンの小説には匂いが欠けており、ヘミングウェイの小説にも一つも出てこない(そうだっけ……?)とノーマン・メイラーが言っていた、と言う。とくに19世紀、英語圏の作家にとって匂いとは下品な、そして不得意なものだった。またイギリス人は、香水や葡萄酒などの鼻の芸術分野は不潔な隣人たるフランス人に長らく任せてきた(そうなの……?)。だからこそ、香りの力をテーマにした二つの偉大な作品、ジュースキントの『香水』(文春文庫)や(おおー)ユイスマンスの『さかしま』(河出文庫)は(やばい、読んでない。また叱られる)いくら翻訳されてもイギリスでは人気が出なかった。 ドリアン・グレイはつまり、そのストーリーの道徳性ではなく、じつは、まずヴィクトリア朝の読者の“鼻から”、「道徳的・精神的腐敗の悪臭が立ち込める有害な作品」として憎まれたのだ。 でもオスカー・ワイルド(大好き!)は、意図的にそのような書き方をしたのだろうか。 ドリアンと悪の先輩の出会いシーンには、園芸的な不自然さもある。南イギリスではライラックが香るのは4月、サンザシは5月(だからこの花の別名は「メイ」)、薔薇は6月。ライラックと薔薇とキングサリとサンザシが同時に強い芳香を放つことがありえないと、イギリスの読者ならみんな知っている。ワイルドは時間を無視して書き、嗅覚によって物語に奇妙な同時性をもたせた。若さ、成熟、そして老いという正常な“時間の流れ”を消去するというドリアン・グレイの不道徳な欲望を、匂いの描写によって読者にこれでもかと提示しているのだ。ワイルドはその手法によって読者を不安にさせ、挑発しているのかもしれない。 ウー、そうだったのか。 すげぇなー。虚構。 わけもなく好きだった作品をこんなふうに解体されると、間近で魔法を見たようだ。こっちの本を一度置いて、玄関の伝道本棚に走って、もう一回ドリアン・グレイを読むことにした。夜更かしすると明日が心配だけれど、本気で読んでいる限り夜は明けない(気がする)。コタツ足湯で大の字になって、二冊目を開いた。
雨は止んだ。とても静かだ。
(2008年5月) |