完全犯罪 加田伶太郎全集
某月某日 福永武彦『完全犯罪 加田伶太郎全集』のゲラを見ていた校正課Mさんが声を上げた。「お金持ちのお嬢さんが、輸入されたばかりの新刊の探偵小説を気前よく二つに引き割いた!」「二人とも同じところまで読んで、犯人の当てっこをする」ため。ペーパーバックだとしてもかなり大胆な行動だ。ハードカバーだったら驚くぞ。

某月某日 ドット・ハチソン『蝶のいた庭』カバー校正。袖の人物紹介に、監禁された少女たちの髪の色が記されている。黒髪、赤毛、ブロンド、薄茶色の髪……。黒髪と白髪、金髪、銀髪、赤毛以外の髪色は外来語を使うか、「○○色の髪」というしかないわけか、と気づく。
これまで日本人の髪の色はあまりバラエティがなかったからだろうか。だとすると「赤毛」という表現があるのがちょっと不思議かも、と思い、『日本国語大辞典』をひく。『和英語林集成』の1872年の用例が挙がっている。平安末期の説話集に犬や馬の毛色として用いられた例が挙がっているので、「赤毛」に関してはそちらの意味から人間の髪色に応用して使われるようになったのかも。
蝶のいた庭
同じく『日本国語大辞典』によると、「金髪」の古い用例は森鴎外の「うたかたの記」にある。ためしに「黄髪」をひいてみると、「こうはつ」という読みで「老人の黄色い髪。また、転じて、七、八十歳の老人」だそうで、1100年代から用例がある。
ちなみに「茶髪(ちゃぱつ)」は「染めたり脱色したりして、茶色に目立たせた髪の毛」(『広辞苑』)だそうで、本来的な髪色の表現としては使わないようです。

某月某日 編集者の机周りはたいがい物が多い。多くても整然としている人もあるが、混沌とした小山ができている人も。ひときわ大きな山を築いている(一部でなだれが起きかけている)編集部SF班K氏、裾野に放置されている4、5本の空ペットボトルを見た私が思わず、「ペットボトル集めてんの?」と言うと「うん、だいぶ」とのたまった。いやみスルースキルの高いお方だ。

悪女
某月某日 編集部翻訳班Sさんは、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」という言葉そのままのバイタリティあふれるごく陽性な人柄だが、作る本の好みは血みどろだったり、痛かったりえぐかったりというギャップのあるお方。
さて、Sさん担当のマルク・パストル『悪女』は20世紀初頭のバルセロナで実際に起こった事件を題材にしている。なんでも、次々に子どもをさらってきてはその血や内臓を使ってあやしげな薬を作って売っていた女性がいたのだとか。
今日も用事で校正課にやってきたSさん、元気よく打ち合わせしたあとに、『悪女』のあとがきを校正したばかりの校正課Hさんが、インターネットで調べ物をしていたら、当時の新聞記事その他とても恐ろしい資料がたくさん出てきてこわかったです、と訴えるのに、「大丈夫、そのぐらいの猟奇殺人者なんていくらでもいます!」と断言して力強く歩み去ったのでした。

某月某日 昼食の帰りに東京メトロ飯田橋駅で見かけた絵画展のポスターが気になる。 ルノワールの〈イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢〉に「絵画史上、最強の美少女。」というキャッチコピーがあしらわれている。目を引いたのは「美少女」の文字に「センター」とルビが振られていること。センター=美少女! いまどきそういう認識なのか、と校正課で話したら、「センター」は「最強の美少女」に対してつけるべきなのでは?というご意見を賜ったので、記しておく。

ドロシイ殺し
某月某日 責了間近の小林泰三『ドロシイ殺し』。巻末に付く『オズの魔法使い』についてのガイド(by編集部F嬢)がまだ入稿されていないので、本人に進み具合を聞くと「う~ん、あと一匙」と。
たちまち私の脳裏には、マクベスの魔女的ないでたちのF嬢が、怪しげな釜でなにかをぐつぐつ煮ながらかき混ぜている姿が……。
F嬢が渾身の力を振りしぼったガイド、なにか一匙加わっているらしいのでぜひご賞味ください。

某月某日 年も年なので、保険の話など聞く。最近できた「人生100年時代のための保険」なるものの説明を聞いていたところ、パンフレットにある「本保険はトンチンの考えを利用したもので」という文言に目が釘付けになる。
トンチン! 「イタリアの銀行家ロレンゾ・トンティが1653年に始めた年金組合の一種で、加入者が死ぬとその出資分からの配当は生存する組合員の利益となる」昔読んだ、探偵役がかっこいいミステリにたしかそんなことが書いてあって、それが殺人の動機だったはず!
それからというもの、「トンチン」の4文字が脳内をぐるぐるして、保険の説明はさっぱり聞いていなかったことを告白する。

某月某日 柱やノンブルを確認するときには、ゲラをひたすらめくる。そんな時には滑り止めクリーム「メクール」があると便利だ。
実はメクールは気温によって、少しだが固くなったり軟らかくなったりする。日がな一日室内でゲラを睨んで過ごす校正課の人間は、わずかにメクールの固さに季節の移ろいを感じるのです、というのはおおげさだが。
今年の夏は本当に暑かった。ある日メクールの蓋を開けると、なんと中身が一部液状に! メクールがとけーる夏、でした。

某月某日 最近ニュースなどで3Dプリンターが話題になることがあるが、ムア・ラファティ『六つの航跡』に出てくるのはフード・プリンター。なんと、食べ物が出力される装置だ。食材はもちろん、クラッカーやパン、コーヒーからローストビーフなどの料理までなんでもござれ。最新鋭機になると、その人がいままさに食べたいものを判断して出してくれるそうな。いいなあ!
(校正課K)

(2018年9月5日)



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