ラウンジ

2006.11.06

本多正一『中井英夫全集』完結にあたって[2006年11月]

「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」
――中井英夫  

本多正一 shouichi HONDA

 

 

 創元ライブラリ版『中井英夫全集』全十二巻がようやく完結した。第一回配本『とらんぷ譚』が一九九六年五月のことだから、ちょうど十年を費やしたことになる。思えば東京創元社の看板文庫たる『日本探偵小説全集』もそのぐらい長丁場での刊行ペースだった。良書を丁寧に市場へ供給する良心的出版社の面目躍如といったところであろう。
 本全集発刊までの経緯は戸川安宣元編集長も私も幾度か書いている。たしか最初の話は一九九一年のことで、当初は『とらんぷ譚』全一冊本の創元推理文庫収録というプランニングだった。ちょうどその時期、講談社文庫の『幻想博物館』『悪夢の骨牌』『人外境通信』『真珠母の匣』が絶版となりかかっており、また創元推理文庫で出た紀田順一郎さんの『古本屋探偵の事件簿』が好調とのことで、そんな厚い文庫本で一冊、と戸川さんはお考えになっていたと記憶している。
 ところが、そのころから中井英夫の体調が急速に悪化し、入退院を繰り返すようになり、また引越しも余儀無くされ、次第に経済状態が悪化することになる。当時は戸川さん、講談社の宇山秀雄さん、『幻想文学』の東雅夫さんと、今後の中井英夫の生活をどうしたらよいか、幾度も会合を重ねた暗鬱な日々だった。そんなある日、戸川さんが中目黒の私の家の近くの喫茶店までいらしてくださり、「いっそのこと『全集』ということにして、これまで出たもの、これから出すもの、全部収録するってことにしたらどうでしょう」と申し出てくださったのである。
 十九世紀中葉のフランスの作家、ブルターニュ地方の名門貴族の出自を持つヴィリエ・ド・リラダンは、精神の孤高を持しながら、生涯赤貧洗うが如き生活を送ったという。その自尊心を傷つけぬよう援助の手を差し伸べるのに腐心したというエピソードが残されているが、戸川さんのお話はその逸話が再現されたかのような感慨を抱いたものだった。思えば、東京創元社の齋藤磯雄訳『ヴィリエ・ド・リラダン全集』を担当していたのは若き日の戸川安宣氏だったのである。
 それに文筆に生涯を賭けた中井英夫にとっても、最晩年に全作品が文庫本という入手しやすい形で出版されることが決定していたのは、うれしい知らせだったに違いない。私などがいうのも僭越だが、改めて戸川さんと東京創元社のお力添えに心から感謝申し上げたい。

 

 

 中井英夫が“全集”というタイトルに警戒的になっていたのは知られた話だろう。かつて『新思潮』編集時代に太宰治を訪ね、「いったい、まだ生きている作家が“全集”を出すぐらい滑稽なことがあるだろうか」と詰め寄ったというのである。戸川さんとは『コレクシオン中井英夫』とか『中井英夫集成』というネーミングを考えたが、発刊は歿後のこととなりお蔵入りとなった。
 十年という刊行期間には幽明境を異にする執筆者、関係者も多かった。ご高齢だった埴谷雄高氏、椿實氏、また『薔薇幻視』の写真家佐藤明氏。生涯ただ一度だけ三一書房版『中井英夫作品集』一巻本の装幀に手を染められた作曲家の武満徹氏。今回の私の全集装幀原案にサジェスチョンをいただいた装幀家の小倉敏夫氏。また一昨年にはまだお若かった小笠原賢二氏、さらにこの夏には宇山秀雄氏の急逝が相次いだ。改めて御冥福をお祈り申し上げたい。中井英夫の作品は決してベストセラーになるようなものではなく、少数の読者によって静かに読み継がれていく性質のものだと思うが、そこにはこういった多くの方々の力強いお仕事があったのである。うれしいことに創元ライブラリ版『中井英夫全集』は少しずつながら大半の巻が版を重ねている。
 今回の“全集”は中井英夫生前の刊本を集成するというスタイルを採り、決して本来的な意味での全集とはいえない。多くの単行本未収録作品、草稿、異稿、日記、書簡類を残しているが、他日を期すことにした。例外的に執ったのが第十巻『黒衣の短歌史』所収の「中井英夫中城ふみ子往復書簡」で、これは一九九三年の九月、小樽文学館の玉川薫さんが病床の中井英夫を訪ね、生前に諒承をいただいたことで収録することにした。中井英夫の死の三ヵ月前のことだった。この往復書簡のことで中城ふみ子の忘れ形見である愛娘、厚美雪子さんに、生前一度だけお会いする機会を得たのも忘れられない思い出である。
 編集実務には戸川さんの社長就任前後より、代わって伊藤詩穂子さんが担当してくださった。往復書簡の解読や『薔薇幻視』編集での熱心な作業など思い出も多い。記して感謝申し上げたい。

(2006年11月)

本多正一(ほんだ・しょういち)
1964年、栃木県宇都宮市生まれ。青山学院大学卒。中井英夫の最後の助手をつとめる。創元ライブラリ版『中井英夫全集』の校訂に携わる。著書に写真集『彗星との日々―中井英夫との四年半―』、写真+エッセイ集『プラネタリウムにて―中井英夫に―』。また監修した書籍に、中井英夫『中井英夫戦中日記 彼方より』、赤江瀑ほか『凶鳥の黒影(まがとりのかげ) 中井英夫へ捧げるオマージュ』がある。

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