短編ミステリ読みかえ史
2010.05.07
短編ミステリ読みかえ史 【第14回】(2/2) 小森収
クリスティの短編集は数多く翻訳が出ていますが、それだけに各社で収録内容が異なる場合が多々あります。しかし、創元で『検察側の証人』、早川で『死の猟犬』(原題ではThe Hound of Death)は、他からの追加や省略のない、原書のままの短編集となっています。シリーズキャラクターの短編集でないにもかかわらず。この場合、それは、ひとえに短編集としての作為があるからです。怪奇現象をあつかった作品が集められているのですが、クリスティのユニークなところは、怪談とパズルストーリイを両端に、さまざまな料理の仕方をしていて、それらを一冊の短編集に混在させているのです。
「赤信号」は予知能力を持つ男が登場し、人間の精神活動の神秘を扱っていますが、同時に狂気と精神病については、紋きり型の域を出ない。この作品の人間関係や事件の推移は、のちのクリスチアナ・ブランドの傑作「ジェミニー・クリケット事件」によく似ていますが、狂気と遺伝についての認識が、ふたつの作品で、そう異なっているとも思えないにもかかわらず、「ジェミニー・クリケット事件」のように、裏返しに描くことで息を吹き返すこともあるのです。両作品を慎重に読み比べることをお奨めします。
その他の作品については、どれがミステリで、どれが怪奇小説だといったことは書かずにおきましょう。ひとつひとつ、どんな弾丸が飛んでくるかと身構えながら読むべき短編集だからです。ビリー・ワイルダーの映画化であまりにも有名な「検察側の証人」にさえ、ヒロインのエキゾチシズムと精神病に対するおおざっぱな知見に基づく、あまり感心しない怪奇性が付与されていることだけ書いておきます。
うって変わって、創元で『白鳥の歌』、早川で『リスタデール卿の謎』は、コミカルだったり、結婚という形のハッピーエンドで終わるものが多かったりの、明るい短編集です。ここに「夜鶯荘」も収録されています。サスペンスに明るさは抵触しないとも言えるし、一連の能天気な話の中に、この作品や「事故」「白鳥の歌」といったものを交ぜたとも言えるでしょう。
このころの短編は、ポワロものも含めて、気軽に書かれているような気がしてなりません。クリスティに対する批判に、ボール紙をくり抜いたような登場人物で、人間が描けていないというものがありますが、私にはこの時期の短編に対する批評ではないかと考えることがあります。とくに、依頼(事件の提示)―訊問―解決という展開の話は、もともと、何かを描くには効率の悪い構成の上に、運びが単調になることが多い。枚数をとってゆったりと描くことで力を発揮するクリスティには、本来相性が悪いのかもしれません。いや、この欠点は、同時期の謎解きミステリの短編に多く見られるものなので、むしろ、その弱点を解消し、生き延びていく過程で生まれたのが、クリスティの長編ミステリの傑作群であったのかもしれません。そういう意味で「海上の悲劇」「砂に書かれた三角形」といった作品は、事件が起きるまでが、比較的ゆっくりと描かれていて、のちの長編の萌芽を感じさせます。とはいえ、このふたつが見事な短編ミステリかというと、そんなことはない。むしろ、「スズメ蜂の巣」という一編が、ちょっと興味深い。ポワロがある人物を訪ねるところから小説が始まり、殺人を防ぐためにやってきたのだと言う。といった話で、厳密には謎解きミステリではないでしょうが、しかし、名探偵がいなければ成立しない話でもあります。短いけれど奥行きのある短編になっています。これとても、異色の変化球といったところです。
「クリスマス・プディングの冒険」は1923年に書かれた「クリスマスの冒険」(邦訳は『マン島の黄金』
同じ改作でも「スペイン櫃の秘密」は書き改めることで、良くなったかというと、一概には言えないように思います。ただ、改作のポイントを被害者の妻の性格を描くという点に置いているのは、クリスティらしい。クリスティの長編ミステリに親しんだ人なら、この作家が被害者や犯人を描く巧みさに、舌を巻いた経験があるかと思います。事件の全貌を隠しながら、あるキイパースンを描く。事件が解明されたのちに、その描写は完成し、遡って人物像が浮かび上がる。その一点に、この作家の技術の洗練はあったと、私は思います。それは、通常の意味での人物を描くということとは異なっているかもしれません。ですが、そこで描き出された人物は、みごとに生き生きとしていました。『愛国殺人』
もう一編、あまり顧みられていない作品ですが、「四階の部屋」という短編も佳作です。さきに、依頼(事件の提示)―訊問―解決という展開の話は、運びが単調になることが多いと書きましたが、事件の起こっているところに、ポワロが居合わせるという形で、展開をクロノロジカルにした、堂々たるパズルストーリイです。事件が進行することでストーリイが駆動する。クロノロジカルな展開は、そのことを可能にするのです。この点は、クレイグ・ライスとレックス・スタウトを考えるところで、再び出てくることになるでしょう。
『ヘラクレスの冒険』は、ストランドマガジンに連載したものだそうですが、熟練の域に達したクリスティが、緩急自在にポワロの活躍を描いて、もっとも安心して読める短編集になっています。謎解きミステリとしての仕上がりがいいのは「エルマントスのイノシシ」ということになるのでしょう。「ヒッポリュテの帯」もいいのですが、冒頭での、別個のふたつの事件の絡ませ方が、少々安直なところが減点対象ですか。むしろ、フランスの警官がルファルジュという楽屋落ちが楽しい。犯人像の鮮明さという点でクリスティらしいのが「ネメアのライオン」で、実際、この犯人は再登場します。中には「アウゲイアス王の大牛舎」や「ゲリュオンの牛たち」のように、クリスティの手にあまる題材もあります。前者のマスメディア、後者の宗教団体、それぞれの現実は、クリスティの懸念を超えてタチの悪さを発揮しました。しかし、失敗作にも才能は表われます。クリスティの宗教に対する認識は、それほど深みを持っていたとは思えません。牧師の娘が長じて犯罪のアイデアを思いつくというアイロニーも、それほど驚くものではありません。にもかかわらず、「宗教というものは、心の支えになり、救いになるでしょうけど――でも、それは、オーソドックスな宗教であればの話です」という彼女の言葉に、ポワロは反応します。「オーソドックスというと、ギリシャ正教のこと?」と。作家の持つバランス感覚、ないしは、面白さへの嗅覚が、宗教という根源的な問題への認識を埋めた瞬間であったと思います。
アガサ・クリスティの短編は、その多くが、同時代の短編ミステリから、大きくはみだすものではなかったでしょう。しかし、彼女の長編ミステリが抜きんでたほどではないにしても、その短編ミステリも、彼女のストーリイテリングによって、現代の読者にも読まれる結果になった。これが、とりあえずの、私の結論です。しかし、私はこの稿で、ある短編集を故意に無視しています。それは『クィン氏の事件簿』(『謎のクィン氏』)です。というのも、このシリーズは、クリスティ自身が雑誌での連載を拒み、美食家好みと感じたものですが、どうも訳者にめぐまれなかったようです。この短編集の信頼出来る決定版を作ることが、必要なように思えるのです。
■小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』
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