短編ミステリ読みかえ史
2010.03.05
短編ミステリ読みかえ史 【第12回】(2/2) 小森収
「赤毛組合」は、私もホームズもののベストと考えていますが、中心となるアイデアがチャーミングですね。赤毛組合という、おいしいサイドビジネスに飛びつく心情は、不景気ないまこそ、共有しやすいというものです。この作品の美点のひとつは――それは「ボヘミアの醜聞」、またホームズ作品の多くにあてはまりますが――展開がクロノロジカルで、一直線にグイグイ進むところでしょう。ホームズのアクションに従ってストーリイが駆動するので、遡って事件をふり返るタイプの小説がしばしば陥る退屈さと無縁です。しかも、この「赤毛組合」は、奇妙な謎とその解決が、あくまで、そのチャームポイントなのです。
ここでドイルの腕前が出るのは、赤毛のウィルスンの質屋があるうらぶれた通りが、角をひとつ曲がるだけで、シティーへと続く大動脈へ出るという、街の描写です。マネーサプライは充分だったにもかかわらず不況から脱することの出来ない、貧富の格差が激しい世界一の大都会。その一角であることを手際良く示していて、そして、もちろん、そのことは謎とその解明に不可欠な要素でした。
ひとつひとつ書いていけば、キリがありませんが、驚いたのは「まだらの紐」よりも「くちびるのねじれた男」の方が面白かったことでした。「くちびるのねじれた男」は、初読時に、なんとミエミエな話と思ったものですが、そういう話を楽しめるようになるのに、40年かかったということなんでしょうね。「まだらの紐」もつまらなくはないのですが、むしろ「わたくしを取り巻いているこのどすぐろい闇のなか」とか「友人の顔が死人のように青ざめ、満面に恐怖とおぞましさとがありありと浮かんでいる」といった、半世紀以上前に日本の探偵小説特有の悪弊と言われていたもののルーツではないかというような文章を発見して、つい笑ってしまいました。もっとも、ドイルは「まだらの紐」をそういう話として書きたかっただけで、バカのひとつ覚えのように、そうした書き方ばかりしているわけではありません。「まだらの紐」で、依頼者の腕に日常的な虐待の痕を見つけたり、「ぶなの木屋敷の怪」の犯人の子どもの残虐性から、犯人の残虐性に思い当たるといったあたりは、非常にモダンな感じがします。現代の小説に登場してもおかしくないディテイルでしょう(正確には、後者は現代とでは意味合いが異なるかもしれませんが、そのことには、ここでは踏み込みません)。
解題によると、『冒険』の諸作品は、まず前半の6作が書かれ、ドイルはそこで打ち切るつもりが、もう6編書くことになったそうです。そして、最後の「ぶなの木屋敷の怪」では、ホームズを殺してしまうことを考えたとあります。そのことが関係あるのかどうかは分かりませんが、最後の一編とそれまでの作品とには、ひとつの溝が確かにあります。
最初の6編では、ワトスンはホームズとの同居生活を終え、家庭を持っています。しかも、1880年代の設定で、少し前の話を記録したとするものが多い。それが後半に入ると、「青い柘榴石」は同様ですが「まだらの紐」は、同居時代の過去の事件が、関係者の死により発表できるようになったという設定が加わります。「技師の親指」で開業医時代になり、「独身の貴族」で同居時代に戻ります。「緑柱石の宝冠」は説明ぬきで同居時代です。
おそらく、シリーズを続けていく上で、ホームズとワトスンが別居している事実が負担になってきたのだろうと、実際問題としては、そう推測がつきます。それでも、ある時点(つまり『四人の署名』事件)を境に、ワトスンはホームズとの同居を解消したという設定は、注意深く守られています。しかし、「ぶなの木屋敷の怪」に至って、ドイルはその設定を清算してしまいます。この原稿の冒頭で紹介したやりとりは、「ボヘミアの醜聞」以降の作品群に対する、それを読んだホームズの意見なのです。つまり「ぶなの木屋敷の怪」は1891年以降の時代設定なのです。にもかかわらず、ホームズとワトスンは同居し、しかも、小説の最後では依頼人の後日談まで描かれているから、事件そのものは過去のものなのです。
ドイルはホームズを殺すことはしなかったかわりに、現実の時間を踏み越えた世界に、彼を生かすことにしたのでしょう。ここに到って、ホームズとワトスンは、ベーカー街221Bで、いつともしれない時間を永遠に過ごすことになりました。その善悪は一概に言えませんが、最初の11編とそれ以後は、どこか区別されるのではないかという予感が、私には働いています。深町ホームズを読む楽しみが、またひとつ増えました。
■小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』
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