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 シオドア・スタージョンのミステリの短編や、ミステリに近しい短編を、もう少し拾っておくことにしましょう。
「強盗アラカルト」は、日本語版EQMMに掲載されたものですが、探偵小説のお伽噺と紹介されていました。主人公の娘が、オーナーの留守中のレストランを任されているところに来た客が、財布を忘れたと言い出します。折りしも、その界隈では強盗事件が多発していて、警官がすぐにやって来る。娘の機智が明らかにした真相と犯人は、ありきたりなものでしたが、そうした事件そのものもともかく、警察の温さ頼りなさが、20年代、30年代のかつてのアメリカ風でした。
「伯母さんを殺す方法」は、題名からも分かるとおり、陰険な暴君の伯母と甥の話――ある意味で、よくある話――ですが、スタージョンは、伯母さんの側から小説を組み立てました。彼女の目から見た甥は、気に入らないことだらけですが、それでも、日常生活で甥に頼っています。というのも、自分の鼻先で情を通じていた若い女中をあっさり首にしたのはいいものの、ある夜、階段でなにかに躓いた彼女は、車椅子に座ったきりになったのでした。それから11年。なんとも、不器用な方法で、甥は彼女が毎日聞いているラジオの故障をでっちあげ、新しいラジオと取り替えます。彼女はそれを自分を殺すための手段と見抜きますが……。主人公の性格が示すとおりの、ひねくれたクライムストーリイでした。
 うって変わって「死者はダイヤルを回さない」は、怪しげな動きで警察に自分をマークさせては、その裏をかいて、逆に誤認逮捕で警察に煮え湯を呑ませるという常習犯と、主人公の刑事の対決です。脅迫を受けたと訴える女性の保護に向かった主人公は、件の悪党と出くわしますが、そこで女性にかけた電話のおかげで、彼女が殺されたときの男のアリバイを成立させてしまったのでした。主人公は、通俗ハードボイルド的なタフガイ警官で、その言動は、ストーリイ展開同様、いささか荒っぽくも平凡で、ハウダニット(錯覚トリック)との組み合わせが、これまた、ありきたり(しばしばあるのです)でした。
 こうした、ミステリ作品は、凡庸なものですが、どれもスタージョンの生前に訳されたもので、ありていに言えば作品の選択を誤ったということでしょう。むしろ、クライムストーリイに、スタージョン流のファンタジーをからませた「特殊技能」「心臓」といった作品の方が面白く、前者は超能力者の子どもというスタージョン得意の一席ながら、いささか脱力もののサゲが愉快でしたし、後者は主人公のオールド・ミスのタイピストという、一種のクリシェですらある設定を、巧みに使った小品でした。
 没後に翻訳されたものでは、ハインラインのアイデア提供を受けたという「ニュースの時間です」が、怪作でした。ラジオ、テレビ、新聞のニュースを欠かさず、その間は家族の言うことにも上の空という男が、ある日、突然、自分の財産を整理して失踪してしまう。この小説の白眉は、新聞から文字が抜け落ちていくという卓抜な描写で、主人公の狂った世界を描いたところで、その後の精神科医が彼を追跡する展開と結末は、アイデアが生のままむき出しになっていて惜しい気がします。「ヘリックス・ザ・キャット」「君微笑めば」は、ヒトが人間以外の存在と出会ったときの奇怪な企みを描いたファンタジーでした。どちらも、いささか状況設定に理が立ちすぎていて、「ニュースの時間です」の持つショックがありません。結局、スタージョンの作品の優劣を隔てるのは、そういうショックの有無であるように思われます。
 
 ウィリアム・テンという作家は、現在、日本で読まれているとは思えませんし、そもそも、評価を目にしたことが、あまりありません。1973年に創元推理文庫から『ウィリアム・テン短編集』全2巻が出たときも、唐突な感じがありました。ミステリ読者の間で、話題になることも、ほとんどない作家だと思います。
 一方、ミステリマガジンは68年から70年にかけて、何度かブラック・ユーモアの特集を組んでいます。一種の流行があったのと、それに乗る形でブラック・ユーモア選集も刊行していましたから、その側面援助もあったでしょう。テリー・サザーンの「怪船マジック・クリスチャン号」は、ミステリマガジン連載でした。この特集・選集から出た最大の収穫はローラン・トポールでしょうが、この他、ブルース・J・フリードマンやジョゼフ・ヘラー、ウラジミール・ナボコフ、カート・ヴォネガットJr.といった作家の短編が、その特集や周辺で紹介されました。中央公論社の海に載っていても、おかしくない作家たちです。そして、その中に紛れ込むように、ウィリアム・テンの「おーい東へ!」が、伊藤典夫の手で翻訳されました。
「おーい東へ!」は、ある意味で単純な話です。核戦争で文明社会が一変したのちという設定は、ありきたりなものですが、この短編では核戦争後に適応したインディアン(アメリカ先住民ですね)たちが、白人たちより優位に立って(白んぼ呼ばわりしていて、ひとり南部の外交官として出てくる黒人も、そう呼ばれる!)いる。主人公の若者は、アイダホ州選出の上院議員の息子であることが誇りであり、現在の相対的にはましな身分を、そのために得ているようですが、インディアンとの交渉では下手に出る以外にはありません。ストーリイには特段のアイデアはなく、ネーミングや設定の風刺で、細かい笑いを取ろうとした作品で、サゲの余韻という点では、この作家でも随一のものでした。
「おーい東へ!」「針路を東へ!」の邦題で『ウィリアム・テン短編集1』に収録されています。訳者は中村保男です。創元推理文庫のこの2冊は、60年代の終わりに、アメリカでまとめられたものの邦訳で、著者が序文を寄せていますが、本国でもそれほど優遇されてきたようには見えません。さらに、自ら序文の冒頭に「本書に収めた短編の大半は社会諷刺であり、SFとして薄く覆面してある」と宣言していて、SFらしさの部分での新味はなく、あくまでサタイアを成立させるための手段にすぎません。
 そうした特徴が、吉とでるか凶と出るかに、この作家の成否はかかっていて、読んで印象に残るのも、その点で成功したものということになります。
「ブルックリン計画」は、題名からして、マンハッタン計画のもじりですが、タイムマシンのアイデアが、まずは笑える。ふたつの振り子の球が、ぶつかることで、一方が過去へ他方が未来へ向かい、過去に行った方からはデータ写真を撮影して送ってくる。戻ってきた球は、再度衝突し、その反動で、またも過去と未来へ旅立ちますが、今度は振れ幅が半分になっている、つまり、最初が40億年前に行ったら、次は20憶年前というように。過去に向かった球の働きが、現在に何の影響も与えないのは、わずかな数秒の移動の実験で確認ずみと、広報官は胸を張ります。そして、いよいよ、実験が始まる。広報官の解説の通り、実験は進みますが、果たして、過去に向かっては返ってくる鉄球は、本当に何の変化も現代にもたらさなかったのでしょうか?
 もう一編「宇宙のリスボン」は、スミスという、ありふれた名前のありふれた男が、ホテルにチェックインするなり、見知らぬ男女の訪問を受けます。これが、先に泊まっていたスミスとの人違いらしいのですが、訪問者は宇宙人が地球人に変装したスパイで、戦争状態の自分たちの星を優位に導くための工作活動を行っているらしい。主人公は変装が巧いなどと褒められるルーティーンのギャグがあって、密命である鉛管工の仮装パーティに潜入することになります。ところが、何をやっていいのか分からないままに、パーティをさまよっていると、怪しい女の手にかかる(スパイ活劇の定石ですね)。これがなんと、別の宇宙人で、工作員と見破られ(る理由が楽しい)拉致された先で、自分が間違われた本物の宇宙人と出会うことになる。彼から巧みに聞き出したところによると、覚えきれないくらいの種類の宇宙人が、複雑な対立・同盟関係のうちに交戦中で、地球は中立地帯(というか、地球人はカヤの外らしい)ながら、手近にあるために、スパイたちの謀略の主戦場になっているというのです。出てくる宇宙人が、みな英語を喋っているご都合主義といい、サタイアというよりも、スペースオペラのパロディとして、最後のグロテスクなオチまで、まずは楽しい一編でしたが。

 もっとも、作者自身は、序文において、巻頭作「ノアの世代」の不遇(SF誌ではない一般雑誌から突き返された)を愚痴ったり、「暗い星」が、実際に有人宇宙船が登場する以前の作品であると主張したりして、さらに、自分が好むのは「非P」「男性の反乱」だと記しています。
「ノアの世代」は、以前読んだ、P・K・ディックの「フォスター、おまえ、死んでるところだぞ」を思わせます。どこにいても、警報が鳴ったら3分以内に戻って来なければ、シェルターの扉が閉ざされて、入ることが出来ない。今日は時計を片手に、息子が走って来るのを見守っていると、3分を切ることが出来ません。こういう核戦争の恐怖の在り方というのは、どこか古めかしい。つまり一発の核兵器が、次から次へと報復を呼び、あっという間に、地球は人が住めなくなるというイメージです。実際の核による被害は、確かに広範囲だけれど、それでも限定的で、むしろ、小規模ながらジクジクと長く続き、長期化することで、食物摂取などによる内部被曝の方が恐ろしい。半世紀経って、よりリアルな核の恐怖とは、そういうものになってしまっています。ありていに言えば、3分と3分30秒に、決定的な差はありません。
「暗い星」は、宇宙飛行士を襲ったジレンマの物語でした。有人宇宙船の最初のパイロットが、5人の候補から選抜されます。成功して帰還する可能性の必ずしも高くないミッションのため、その能力はごく些細な差まで考慮され、結果は主人公が選ばれます。ところが、出発前日、重大な事実が告げられます。旅行中に浴びる放射線の影響で、帰還後はほぼ間違いなく無精子症に陥るというのです。彼にはフィアンセがいて、残された一日の間に、式をあげ、わずかなチャンスに賭けることで、ようやくひとりだけなら、子どもが持てるかもしれない。彼は、そう決意し、フィアンセに会いに行きます。そこで、彼女はどう答え、彼は、どんな選択をしたのでしょうか?
「非P」は、著者が好むというわりには凡庸な作品に思えます。アメリカ社会が、平均的な能力特徴に向かって、価値観が集中していき、あげく権力までが平均的なものへと集中していくという、サタイアです。半世紀経って、反知性主義が実社会で問題となっている現在、このサタイアはあまりにも微温的で、これで済むなら結構なことだということでしかありません。「非P」はSF味の薄い、サタイアが生のまま出たような作品(だから、著者のお気に入りなのかもしれません)ですが、「脱走兵」「ベテルギューズの橋」「『もう少し速く歩いてくれないか』」といった作品は、よりSFの覆面が厚いのでしょう。ですが、これらもサタイアを狙ったであろうことは、簡単に読み取れます。しかし、サタイアにしてはユーモアに欠けるのが、この作家の弱点だと思います。もっとも、これは翻訳の難しさもある上に、中村保男との相性もあるでしょう。正直、あまり良い翻訳とは思えませんし、訳者自身あとがきで、テンの文章を硬質でアカデミックとしながら「砕いて翻訳してしまうと、それがよくわからないが」と書いています。訳文が砕かれているとは、あまり思えませんが。「宇宙のリスボン」も、本当をいうと、もうちょっと哄笑したかった。
『SF雑誌の歴史』のマイク・アシュリーは、風刺作家としてのウィリアム・テンは、シェクリイよりも上で、60年代半ばで筆を折ったことを惜しんでいます。アシュリーの教えるところによると、「アルジャーノンに花束を」の結末を、ハッピーエンドに書き換えることを求められたダニエル・キイスに、思いとどまるように説得したのは、ウィリアム・テンだということです。もしかしたら、それが彼の最大の貢献だったかもしれません。

※EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)