短編ミステリ読みかえ史

2017.08.01

短編ミステリ読みかえ史 【第101回】(1/2) 小森収

 1956年、エド・マクベインという新人作家の『警官嫌い』という長編が、ペイパーバックオリジナルで出版されました。87分署シリーズの第一作です。当初、エド・マクベインは、正体不明の作家として売り出されましたが、そのわりには、エヴァン・ハンターの新しいペンネイムだということは、知られていたようです。手品師の袖口から鳩がのぞいていた類いのオソマツだったのでしょう。そもそもが、エヴァン・ハンターがクライムストーリイを書くのならと、年3本の書下ろしの契約を版元が結んだといいますから、商売としてカタいと見られていたとおぼしく、実際、すぐに、50年代に書かれた最高のシリーズという評価(アンソニー・バウチャーによる)を得ることになります。87分署シリーズは、50年代警察小説の集大成であるばかりでなく、それ以降の警察小説や刑事ドラマの典型を作り出しました。シリーズは約半世紀にわたって書き継がれ、結果的に、エド・マクベインという名前は、エヴァン・ハンターを超えて、この作家を代表することになりました。サルヴァトーレ・ロンビーノというイタリア系アメリカ人が、それを本名として選び改名したのは、エヴァン・ハンターの方であったにもかかわらずです。
 87分署ものの日本初紹介は何でしょう? こう尋ねると、たいていの人は『警官嫌い』と答えるはずです。1959年12月と、細かく答えるマニアックな人もいるかもしれません。しかし、正解は、マンハントの同年2月号に翻訳された「女が爆発する!」という中編です。原題はKiller's Wedge。『殺意の楔』のアブリッジ版なのでした。稲葉明雄のように、この作品で87分署に出会った驚きを語る人もいます。『殺意の楔』は、シリーズがハードカヴァで出版されるようになった最初の作品で、エド・マクベインとしても気合が入っていたであろうことは、想像にかたくありません。ところが「女が爆発する!」はエヴァン・ハンター名義になっていて、このあたりも、袖口に鳩がのぞいていたことの証左ではありましょう。これ以降、エド・マクベインの87分署ものの中編が、いくつかミステリマガジンに掲載されますが、多くは長編のアブリッジ版です。87分署もののリストを見ても、短編集は一冊だけ。それが62年の『空白の時』で、中編が3作収められています。
『空白の時』は、表題作と「J」「雪山の殺人」の三中編で一冊となっています。半世紀に及ばんとする87分署の歴史の中で、長編のアブリッジ版またはその変形――全体を縮めるのではなく、脇筋を取り出して中編を構成する――ではない、独立した中編作品として書かれ、それらを集めた短編集となったのは、この三編だけです。そこにはエド・マクベイン・ミステリブックという短命に終わった雑誌の影響があります。ありていに言えば、そこに書下ろしで87分署ものの新作がほしかったのでしょう。ちなみに、早川書房からホリディという雑誌が創刊され、一号で休刊になりましたが、その新雑誌は、当初エド・マクベイン・ミステリブックの日本語版を創刊するという企画だったものでした。「空白の時」の邦訳初出は、他の二編が日本語版EQMMであるのとは異なり、ホリディ創刊号でした。
「空白の時」は、暑い夏に、アパートの一室で黒人の女の腐乱死体が見つかるところから始まります。ところが、まもなく女は白人であることが判明し、死の直前に新設した銀行口座や貸金庫を使って、大金を動かしていたことも分かります。被害者を知る人さえ見つからない状況で、死の直前の被害者の行動を洗っていくという迂遠な足取りは、警察小説の特徴のひとつです。解決の糸口が一見無関係なところから見出されるのも、警察小説らしいところでしょう。ただし、当時の87分署シリーズの長編に比べれば三分の一の長さです。登場する刑事も人数が限られてくるし、事件の複雑さや事件が組み合わさる複雑さというものが、さすがに欠けています。
続く「J」は、ユダヤ人のラビが惨殺され、青と白のペンキまみれ(イスラエルの色。そういえば、国旗がその2色ですね)で見つかります。壁には真っ赤なJの文字。その夜、キャレラと非番を代わってもらった、ユダヤ人のマイヤー・マイヤーが呼び出されます。反ユダヤのレイシストが捜査線上に浮かびますが、すぐに友人という女が現われて、彼には当夜のアリバイがあると、逐一詳しく訴える。ところが、キャレラたちが裏をとっていくと、これが口からでまかせなのです。調べればすぐにバレる嘘などつかないだろうというのは、パズルストーリイでしばしば見られる論法ですが、それを嘲笑うかのように、口から出まかせのアリバイに、87分署の刑事たちは翻弄され、貴重な時間を奪われます。警察小説がミステリ全体に与えた批判的な意味が、小説の面白さと結びついた瞬間でしょう。しかし、作品そのものはフーダニットのディテクションの小説に傾斜しています。そしてそのことは、「雪山の殺人」にも言えます。休暇中のコットン・ホースがダンサーの彼女とスキーに出かけた先で、リフトに乗っていた女性スキーヤーがストックで刺殺されるという事件です。舞台もアイソラから離れ、他のメンバーも登場しません。ここでも、都会の刑事ホースと、地元の田舎もの保安官の対比という、警察小説らしい部分も見られますが、さらに、より単純なディテクションの小説に近づいた印象を与えます。
『空白の時』は、珍しい87分署ものの中編集という評価は可能でも、それがシリーズ全体の中で積極的な評価を期待できるとか、短編ミステリの歴史の中で、なにか積極的な意味を持ちうるといったものではありませんでした。これらの中編は、おそらくは商業的要請から書かれ、商業的にも芸術的にも、以後、その可能性を追求する必要はないと判断されたのでしょう。ここにも、ミステリが長編によって開拓されていく時代の貌が映しだされる結果となっています。


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