短編ミステリ読みかえ史

2017.01.05

短編ミステリ読みかえ史 【第94回】(1/2)  小森収

 1947年に一冊のミステリが発表され、アメリカのミステリシーンは一変しました。ミッキー・スピレーンの『裁くのは俺だ』です。以後、51年の『燃える接吻』まで、スピレーンは7冊の長編を世に問い、それらは、一冊の例外『果たされた期待』を除いて、いずれもマイク・ハマーを主人公とする小説でした。スピレーンは、第二次大戦前からパルプマガジンに小説を書いたり、コミックブックの仕事をしたりしていたようですが、いまとなっては、実質的に『裁くのは俺だ』が処女作と考えられ(確かに処女長編ですし)、そこからがスピレーンの作家としてのキャリアと考えられています。『裁くのは俺だ』は、無惨に殺された旧友の敵討ちという復讐譚ですが、男を殺って女とヤるという一事にだけ集中し、拍手喝采を浴びました。スピレーンの長編ミステリは、破天荒な売れ行きで社会的な事件にまでなるのですが、一方で、サディスティックでエロティックな内容に、眉を顰める人も大勢いました。
 5年間で7冊の長編を書いたスピレーンは、その間に短編ミステリは書いていません。長編を書く方が金になるからというのが、その理由です。ミステリ・リーグのところで、飯城勇三が分析したように、ハードボイルドの読者は雑誌中心でした。つい10年ちょっと前には、長編を書きたくても書けない作家たちが、パルプマガジンに安い稿料で書き飛ばすことで、口に糊していました。その中から、ウールリッチが、ハメットが、ガードナーが、グルーバーが、本を出すことでライターからオーサーへの道を歩みました。ヴァン・ダインはちょっと違いますが、クイーンやスタウトやクレイグ・ライスといった、長編で世に認められた作家たちも、同時に、短編を書き、売っていきました。そして、戦後に到って、長編小説がミステリを主導する時代が完成したのです。スピレーンの小説はハードカヴァーで出版されましたが、翌年にはシグネットブックからペイパーバックが出版され、同社のドル箱となります。数年後には、ペイパーバックの書下ろしが――つまり長編小説が――新人作家の登竜門となるのです。スピレーンより一足早くデビューしたロス・マクドナルドが、ハメットやチャンドラーほどには、短編を残さなかったことを、思い出してください。
 スピレーンの評価は、この初期の7長編で下されています。60年代にスピレーンは復活するのですが、自らの模倣者たちと同列のような扱いで、もはや往年のショックはなかったようです。この50年代の沈黙の時期に、しかし、スピレーンはいくつかの中短編を発表しています。それらは小鷹信光の手で集めて翻訳され、70年代の初めに『スピレーン傑作集』全2巻として、創元推理文庫に収められました。もっとも、小鷹信光の解説は、少々、贔屓の引き倒しの感があって、無理な高評価であるように、私には思えます。ちょうど、そのころ世界ミステリ全集が刊行されていて、スピレーンも『裁くのは俺だ』が収録されました(同じ巻に入っていたのは、W・P・マッギヴァーンの『殺人のためのバッジ』とリチャード・スタークの『悪党パーカー/人狩り』でした)が、月報での瀬戸川猛資の評価は、当時にしてすでに、模倣者の群れに追い越された過去の作家というものでした。
 それでは、功なり名をとげたベストセラー作家が、沈黙の時期に書いた短編とは、どのようなものだったのでしょう。
 意外なことに、最初に書いた一編は犯罪実話でした。「慎重すぎた殺人者」は、1940年に湖から発見された女の死体が、義歯などのわずかな手がかりから身元が割れ、その夫の犯行であることが判明し、有罪になるまでを手際よく描いていました。話のオチのつき方には、この事件ならではの面白さが見られるものの、まずは平凡な記事で、スピレーンが書いていなければ、果たして翻訳されたものやら。同じく52年に発表された「ヴェールをつけた女」は、ファンタスティック誌に掲載されたSFでした。アフリカでの飛行機事故で行方不明になっていた、大金持ちでプレイボーイの冒険家が、常にヴェールをつけた女性を伴って帰国している。彼を何者かが襲撃するところから話は始まり、攻撃と反撃に終始するアクション小説で、どこがSFなんだろうと、終盤に到るまで疑問を持つ読者もいるかもしれません。悪い奴らは皆殺し、女はセックスアピールで主人公になびくという、スピレーンの公式はここでも健在というより、その揺るがなさに、ため息が出ます。ラストの委員会での査問が、時代を反映したSF味なのでしょうが、中身は安っぽい紙芝居。おまけに、後年、編集者のハワード・ブラウンの代作であったことが暴露されています。そのことは小鷹信光の解説でも触れられていますが、アシュリーの『SF雑誌の歴史』には、より詳しく、スピレーンに「緑の肌の女」という売り先のない不出来な短編があり、ブラウンが手を入れるという条件で買った上で、中身を無視して一から書いたものだと、はっきり書かれています。スピレーンは激怒したそうですが、ベストセラー作家の名前で商売をすることが、先行していると言わざるを得ません。

 このように、スピレーンの短編作家としてのスタートは、明らかに誰の目にも、いかがなものかと映るようなものでした。つづいて「殺しは二人で」という作品が、カヴァリアという雑誌(小鷹信光は「つねにナンバー2の地位に甘んじていなければならない群小メンズ・マガジンの栄枯盛衰をそのまま物語っているような雑誌」と形容しています)に53年に発表されました。ブロードウェイの人気女優の看板を横目に通り過ぎる男の語りが、一転、第二次大戦中のフランスを舞台に、戦略上重要な橋の爆破を単身命じられた主人公が、パラシュートで降下する話になります。そこでレジスタンスの女と遭遇し、手助けを受けるのですが、調子よく話が進みすぎる。ありていに言えば、美人のご褒美を「おれ」が手に入れて、めでたしめでたしというだけの話にすぎません。そして、実は、他の作品も、その範囲を一歩も出るものではないのです。
「狙われた男」は、マンハントに4回にわたって連載された、短い長編と言うべき作品かもしれません。「おれ」は暗黒街のボスへのメッセンジャーを頼まれたところ、それがボスへの死の宣告だったために、半殺しの目にあい、あげく、姿の見えない殺し屋を釣り上げる餌にされます。ここでも、主人公を助ける美女が登場し、小説の始めと終わりでは、「おれ」は――都合のいいことに――まるで別人です。「死ぬのは明日だ」は、乗っていた列車の30分の停車時間に、ビールを呑みすぎて、乗り遅れた町で、「おれ」が銀行強盗一味の人質となる話でした。「立ち上がって死ね!」は、操縦していた飛行機が故障墜落し、パラシュートで脱出した「おれ」が、排他的で地理的にも孤立した村人たちに、命を狙われる話でした。前者は強盗の一味の囚われの身から脱出できるか否か、後者は狩りの獲物のような状態からいかにして反撃するかという、冒険小説の状況設定としては、魅力充分なもので、事実、どちらも出だしは読者に身を乗り出させるだけのものはあります。しかし、いかんせん、小説の途中で、主人公が危機らしい危機に陥らない。でなければ、危機に陥ったところで助かるのに、ほとんど苦労がない。まるで、主人公には困難な状態があってはならないと、考えているかのようなのです。
 これらの3編に共通するのは、巻き込まれる形で窮地に陥った主人公が、そこから脱して反撃するということです。厳密には、中の一編は、そう見せかけて……という話なのですが、段取りの他愛なさもともかく、出てくるヒロインが、みんな、主人公の攻撃性という形で発露される男らしさに魅かれ、それに対するご褒美以上の存在ではないのです。確かに、白馬の騎士は姫君というご褒美を求めるものなのでしょうが、そのための艱難辛苦や禁欲的な態度というものが、騎士物語にはあったはずです。
 これらの小説は、過去のマイク・ハマーものの同系統とは言えるでしょう。それ以外にも、主人公の性的妄想が独白的に描かれる「性はわが復讐」や、殺し屋についての皮肉な――しかし、ありきたりな――話の「最後の殺人契約」といった短編もありますが、とりたてて見どころがあるとは思えません。
『裁くのは俺だ』に始まるスピレーンが画期的だったのは、独断的で残虐でさえある主人公のアクションが、乾いたまでにあっけらかんとした主人公の態度のうちに描かれ、破滅とは縁がないどころか、その過程で美女にはモテるという、都合のいい単純さにありました。ハメットやチャンドラーが多かれ少なかれ持っていた、時代遅れを承知の騎士道精神もなければ、ジェイムズ・ケインやホレス・マッコイの主人公たちが持っていた、現実と折り合いのつかない屈託もありません。キャロル・ジョン・デイリイのレイス・ウィリアムズを始めとするパルプ作家のハードボイルドヒーローが持たされていた、暴力をふるうための言い訳もありません。それどころか、そんなものは一切なくても、あるいは、一切ないからこそ、マイク・ハマーは世の中に受け入れられるという楽天的な確信めいたものさえ、私には感じられました。しかし、そのことは、結局、力の強い弱いや、価値観に対する節度の違いはあっても、登場人物の価値観がみな同じで揺るがないということでしかありません。
「立ち上がって死ね!」の前半は、主人公と敵対しているのは、アメリカ先住民なのではないかとさえ思わせる部分があります。原文では難解な地方訛りが使われていると、小鷹信光は書いています。しかし、結局は異なった価値観の敵ではなく、価値観の異なった人々の中から出た新参のアメリカ人との対決に収斂してしまいます。二冊の短編集を通した女性像の画一的なことは、男のわたしでさえ、うんざりするほどですが、「高嶺の花」という奇妙な復讐の顛末を描いた一編の、復讐の罠が根本に持つあっけらかんとしたまでの女性の美しさに対する認識の狭さは、差別的という以上に、現実を無視した観念的なもののように思えます。スピレーンの世界には「蓼食う虫も好き好き」という諺は存在しないのでしょう。
 かつて、片岡義男は、マイク・ハマーの存在の仕方を「(俺は自由だという)観念をつらぬきとおすためにはひとりでなければならない」と規定しました(「私立探偵はいかに廃業したか」HMM72年2月号)。そんな存在は、自分から選び取って戦争を遂行し、勝ち、成功した40年代後半のアメリカ人に、拍手をもって迎えられました。その結果、多くの模倣者も産み出しました。しかし、それらの動きとすれ違うかのように、実際のアメリカは、その後、朝鮮戦争、東西冷戦、ヴェトナム戦争と経験していき、スピレーンは50年代の中短編群と、60年代以降の後期作品を通じて、身をもって、限界を露呈していったのです。


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