短編ミステリ読みかえ史

2016.09.05

短編ミステリ読みかえ史 【第90回】(1/2)  小森収

 ロス・マクドナルドの死後、生前書かれた短編が発掘されたと、前回書きました。2001年のことで、すぐにそれらはミステリマガジンに邦訳が載りました。「女を探せ」と同時にEQMMコンテストに応募された「溺死」がそのひとつで、あとのふたつが「よそ者」「怒れる男」です。後者の2編に共通するのは、公刊されているアーチャーものの長編の原型であるらしいことと、おそらくはそのために未発表に終わっているということでした。「よそ者」『象牙色の嘲笑』の、「怒れる男」『運命』の原型で、執筆時期もそれぞれの長編に先立っているようです。どちらの作品も、登場人物の配置はもちろん、人名も長編と同じものが多く、原型であることには、間違いありません。ただし、当然のことながら、長編の方が登場人物も増え、人間関係やプロットが複雑になっています。犯人が同じ場合でも、事件やそれを描く段取りが、より手が込んでいます。
「よそ者」『象牙色の嘲笑』と同じく、失踪した女性を捜してくれという依頼人が、アーチャーのところにやって来るところから始まりますが、やって来る人物が異なっています。この2作の場合は、短編から長編へ書き直されたであろうことが明瞭で、その成り行きも、まあ推測しやすいし、呑み込みやすい。双方の執筆時期も、比較的近いようです。問題は、のちに『運命』となる作品です。
 実をいうと『運命』の原型となった別の作品が、すでに発表されていました。「運命の裁き」という中編で、日本では短編集『ミッドナイト・ブルー』に収録されています。「怒れる男」は1955年の執筆だそうですが、『運命』が世に出たのは1958年のことです。「運命の裁き」はEQMM1958年10~12月号に連載が予定されていたものが、なんらかの理由(小鷹信光は「ロス・マクドナルドの要請のためか」と『ミッドナイト・ブルー』の解説で書いています)で、62年2月号に掲載が延期されたようです。最初の掲載予定のタイミングは、原型というよりも、コンデンス版の掲載のそれを思わせます。実際、『犠牲者を探せ』は、マンハントにコンデンス版が掲載された過去があります。しかし、この場合は、そうではありません。「運命の裁き」『運命』では、犯人が異なっているのです。
『運命』は、精神病院から脱走して来た男が、朝早く、まだ眠っているアーチャーを起こして、依頼人になろうとするという、この作家にしては派手な始まり方をします。そして、その点は原型の2作品も共通しています。人目を惹く始まり方としては、申し分なく、また思いつくのがそれほど困難なアイデアとは言えないでしょうが、誠実に書こうとするとはなはだ難しい冒頭です。執筆の順番としては「怒れる男」「運命の裁き」『運命』と考えるのが妥当と思われます。そして、「怒れる男」は、謎解きミステリのファンが好みそうな、仕掛けがほどこされていて、解決でニヤリとさせます。無論のこと、最初にアーチャーを訪ねる男や、その家族ととりまき、男の妻といった人物配置は、3作に共通しています。しかし、意表をつく冒頭と、膝をうたせる解決とで、ディテクションの小説を書いてみましたという佇まいの「怒れる男」は、さらに悲劇的な肉づけを経て「運命の裁き」『運命』へと姿を変えていきました。はっきり目立つのは、男の母親の存在が、どんどん大きくなっていったことですが、平行して男の妻に向けられる眼差しに深みを増したのが、より重要な変化でしょう。『運命』という長編は、事件そのものが直接にアーチャーの過去と関わり(アーチャーの過去に関するデータも他の作品に比べて豊富です)、アーチャーに内省を迫るという点で、この作家の中でも例外的かつターニングポイントになった長編です。作品そのものが、内容深みともにガラリと変わるのは、本人もそれと認めている通り、次の『ギャルトン事件』からでしょうが、それとは異なった次元で、『運命』は転換点となった作品なのです。『運命』があったから『ギャルトン事件』があったのではないかというのが、私の考えで、かつ、ネオ・ハードボイルドの探偵たちの多く(すべてとは、さすがに言いませんが)の、事件を通して自分の内面に向かう身振りが物足りなく見えたのは、『運命』を経て『ギャルトン事件』以降に歩みを進めたリュウ・アーチャーを、読んでいたからのように思えてなりません(と、今回気づきました)。
 ロス・マクドナルドは評価の難しい作家です。ストレイトノヴェルに擬せられ、本人もその気だったところ――あるいは、そもそも、そういう志向があった――にも不幸がありますし、リュウ・アーチャーを捨てるべきだったという大方の意見にも一理はあるでしょう(私は捨てろとまでは言いませんが、60年代のどこかで、アーチャーの出ない長編を、ひとつくらい書いておいた方が良かったのではないかとは思います)。一方で、ロバート・バーナードや瀬戸川猛資といったパズル小説としてのみ評価する(ここに法月綸太郎を私は含めません。彼はパズル小説としてのみ評価しているとは思えないからです)ことにも、賛同しかねます。瀬戸川猛資は「深刻な」ロス・マク作品を面白がることで「なんて非難されるかわからない、軽蔑されることだけは確かだろう」と書きましたが、そんなことで、瀬戸川猛資を非難や軽蔑するのは、瀬戸川猛資の良心くらいのものでしょう。面白がりつつ深刻な悲劇に胸を痛めることくらい、出来そうなものだと、私は思います。ロバート・バーナードの「カリフォルニアというところは、子供のときに殺人を目撃した青年がほんとうにあれほどひしめいているんだろうか」という揶揄は、揶揄ですらありませんでした。殺人を目撃したかどうかはともかく、あげられない悲鳴を胸に抱えた人間はひしめいていたのです。それは、あなたは安全なところにいて幸せだったねというだけの話なのでした。「怒れる男」「運命の裁き」から『運命』に到ることで、カールという青年の悲劇を見つめるのみならず、ミルドレッドの悲劇を視野に収めることが出来たのは、ロス・マクドナルドの作家としての良心の賜物でしょう。パズル小説として楽しむからといって、そこを捨象することは、私には到底出来ないことです。



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