短編ミステリ読みかえ史

2016.06.06

短編ミステリ読みかえ史 【第87回】(1/2)  小森収

 この連載の第22回から、しばらくの間、ブラック・マスクを中心としたパルプマガジンに書かれた、ハードボイルドミステリの黎明期の短編ミステリを読みかえしました。おさらいをしておくと、キャロル・ジョン・デイリーとダシール・ハメットによって、1922~23年ごろにその書き方が生まれ、あっという間に多くの模倣者が登場します。しかも、26年に、原稿料の問題で、ハメットは一度ブラック・マスクから離れますが、その秋に編集長に就任したジョゼフ・T・ショウは、ハメットこそがブラック・マスクの作家の手本となるべきだと認識し、同誌に戻り、長編を書くことをハメットに奨めます。20年代の初頭から作家稼業に足を突っ込んでいたアール・スタンリイ・ガードナーは、このとき、自分の原稿料を1語1セント削って、それをハメットにまわすよう進言しています。ともあれ、そこから『血の収穫』が産まれ『マルタの鷹』が産まれました。前者は27年から翌年にかけて連載され29年に本になり、後者は29年に連載され30年に本になりました。『マルタの鷹』が決定打となって、ハメットは売れっ子の作家となります。
 一方、ジョセフ・フォン・スタンバークが1927年に「暗黒街」という映画を撮ります。定説によれば、これがギャング映画の嚆矢ということです。この映画の原案を書いたのがベン・ヘクト。舞台、映画、小説をまたにかけた才人作家ですが、もっとも有名なのは、のちに何度となく映画化された28年の舞台劇「フロント・ページ」(シカゴ時代の記者仲間チャールズ・マッカーサーとの共作)でしょう。その少し前の24年、シカゴで起きた殺人事件の女性被告の裁判が狂騒的な様相を呈していました。それを追いかけた新聞記者が出来事の劇化を試み、26年にやはり大成功を収めます。半世紀後、芝居はミュージカル化され、ボブ・フォッシーの「シカゴ」という奇跡のような舞台となりました。同じシカゴのみすぼらしいホテルに勤めていた男が、29年に書いた小説が31年に映画化されました。映画の名は「犯罪王リコ」。W・R・バーネットのデビュー作です。同じ31年には「民衆の敵」も公開され、このあたりから、ギャング映画の隆盛が始まった――というのが、これまた定説です。20年代――とくに、後半――のシカゴは、31年に脱税その他で告発を受けるまで、アル・カポネが牛耳っていました。シカゴはアメリカの典型的な都市とされますが、その典型が示すように、犯罪組織は、都市生活とは不可分であったのです。もちろん、カポネが収監されたからといって、ギャングがいなくなったわけではありませんでした。また、ニューヨークを舞台にして、デイモン・ラニアンが滑稽なアウトローを描き始めたのも、30年代に入ってからでした。
 ダシール・ハメットの商業誌デビューが1922年。翌23年からコンティネンタル・オプものを書き始めます。以前にも書きましたが、フェアプレイをモットーとする黄金期の謎解きミステリに対するアンチとして、ハメットはディテクションの小説の書き方を模索したのではありえません。ハメットと黄金期の謎解きミステリの作家は、ともに、シャーロック・ホームズの模倣者たち(の、おそらくは堕落した姿)を反面教師としたと思われます。かくして、20年代の後半を通じて、ハメットがハードボイルドミステリを確立することで、アメリカ流のディテクションの小説の道を開き、同じころ、英米双方に優秀なタレントが出そろった謎解きミステリは、まず長編で開花し、30年代に入って、短編においても、技法的に洗練を加えていきます。
 アール・スタンリイ・ガードナーが、初めて短編をパルプマガジンに売ったのは、1921年のことでした。ハメットの1年先輩。まあ、同期生と言っていいでしょう。ハメットの成功を、どの程度意識したのかは分かりませんが、30年ごろから長編を書こうとしています。のちに『ビロードの爪』として発表される小説の第一稿が仕上がったのが、32年の9月。それが世に出るまでの経緯というか、売り込みの経緯というかは、ドロシー・B・ヒューズの『E・S・ガードナー伝』に詳しく書かれています。その中には、ストークスに持ち込んで断られた真の理由――エラリイ・クイーンという新人のミステリ作家を売り出すことに決めたので、競合しそうな作家は取らなかった。実際、この32年はギリシャとエジプトの2作を出すという勝負の年でした――が後日に判明したという愉快な暴露もあります。ガードナーは、まず、同じ主人公の中編三編を一冊にまとめることを、エージェントに勧められています。のちにチャンドラーが行い、カニバライズと呼んだものですね。誰でも考えることは同じということでしょうか。原稿はブラック・マスクのショウ編集長も読んだようですが、同誌に載せるのに消極的だったようで、必ずしも向いているとは言えないスリックマガジンへの売り込みが選択されます。いくつもの雑誌と出版社に断られ、最終的にウィリアム・モローに拾われますが、その過程でたびたび言われるのが、ハードボイルドタッチを薄めること、冷酷非情な主人公を、もっと読者の共感を得られる人間にすることでした。ガードナー自身は、主人公が悪と戦う闘争的な物語と、知的な謎解きの物語の、ふたつの道を試み、前者を意識的に選びます。こうして1933年3月、ハメットに遅れること4年で、ガードナーの処女長編が世に出ました。マガジンライターではなく、本の著者となったガードナーは、その後も、長編のスリックマガジン掲載を目指しての闘いが続きますが、大作家への道を歩み始めたことは、間違いありませんでした。
『ビロードの爪』が世に出た1933年の秋、前年に、傑作ばかり4作の長編を送り出して地歩を固めたエラリイ・クイーンは、雑誌創刊の挙に出ます。しかし、その雑誌ミステリ・リーグは短命に終わります。ミステリ・リーグ創刊の翌月、ブラック・マスクに「ゆすり屋は撃たない」という新人作家の中編が掲載されました。作者の名はレイモンド・チャンドラー。ブラック・マスクに蒔かれたハメットという種子から、いくつかの果実が収穫されようとしていました――ガードナーが『ビロードの爪』を世に問い、ベストセラー作家の道を歩むためには、ハードボイルドタッチを薄めることを、迫られたにもかかわらず。
 この年、フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任しましたが、アメリカは不況のどん底にあり、日本に続いて、ヒットラーが政権を手にしたドイツも国際連盟を脱退し、行く手には戦争が待ち構えているのでした。



ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社
バックナンバー