短編ミステリ読みかえ史

2015.10.05

短編ミステリ読みかえ史 【第79回】(1/2)  小森収


 1950年にF&SF誌掲載の「モンスター誕生」でデビューしたリチャード・マシスンは、作家としてのキャリアを、SF作家として歩み始めました。前回、第一短編集を読んでみて、その最初の作品群の多くが、内容的にSFとして書かれたものを確認しましたが、掲載誌で見ても、F&SFやギャラクシー、ファンタスティックといった雑誌が中心となっています。一方でSFマガジン初登場となったのは、第一短編集に入っていた「チャンネル・ゼロ」ですが、創刊初年のサスペンス特集――という特集を組むこと自体に、翻訳ミステリの読者の取り込みを意識した、当時の日本の状況を観察することが出来ます――の中の一編でした。
 さて、マシスンの第二短篇集は、21世紀に入ってから日本で出版された『不思議の森のアリス』に、その13編中の8編が収められ、同書のベースとなっていて、その他の5編も翻訳はあるようです。ちょっと、集めるのに手間取っていて、それらのすべては読めていませんが、読んだ範囲でその在りようを確認していきましょう。
 もっともストレイトなSF作品は「終りの日」でしょう。地球最後の日を迎えて、主人公の行動をスケッチした短編ですが、一応は読ませるという以上の何かはありません。地球滅亡の原因は太陽との衝突のようですが、その点は最小限のほのめかしにとどめて、もっぱら、主人公とその周囲の人々の行動だけに焦点をあてた書き方をしているのが、特徴でしょう。このあたりも、前回指摘した特徴と同様の傾きと言えます。同じように、日常的な展開と描写に終始して、未来のディストピアを描いたのが「テスト」です。老人になると、五年に一度のテスト(記憶力はあるか、筋力はあるかといったもの)を受けて、テストに通らなければ、政府の手で殺されてしまうのです。テストの前日、その予習をしている場面から始まるというのは、ちょっと魅力的な出だしでしょう。老人の回答はおぼつかず、出題をして手伝っている息子も、その場で見ている嫁も、そして読者にも、明日のテストの結果は予想がついている。この小説が惜しいのは、そうしたテストがなぜ導入されたのかという点が、ごくわずかな苦しい説明で終わっている点です。読者をもっとも納得させなければならない部分がこれほど脆弱では、話全体のリアリティに関わるというものです。かといって、まったく説明を抜きに不条理な社会として描いて成立させるのも難しい。見どころのある失敗作といった結果になっています。
「奇妙な子供」は、主人公があらゆる身近なことを次から次へと忘れていくという発端が、マシスンの中でも上位に来る面白さです。その垢抜けたところ、後述の「服は人なり」ばりのシュールレアルな発端は、むしろ、マシスンに似合わぬ魅力的な出だしと言ってもいいでしょう。しかし、結末のつけ方――SFのあるパターンの強引なヴァリエーション――が、その魅力を裏切ること大です。「生命体」は、大陸横断のドライヴの途中のカップルが、アリゾナの砂漠で、不気味な男のやっているガソリンスタンドで銃を突きつけられ、そのまま檻に閉じ込められます。この作品もSF味の強いものですが、作品の手の内が早くから明かされるわりには、その後の展開も、型通りのことが型通りに進んでいく。このふたつの作品は、前回の「狂った部屋」がそうであったように、SF的な発想の部分が、却って作品を古めかしい凡庸なものにしています。
 むしろ、『ドラキュラ』を手に取ったことで、少年が自らの暗い欲望に目覚める「血の末裔」や、シュールレアルな冗談ないしはホラ話とでもいうべき「服こそ人なり」といった短編の方が魅力的に思えます。「賑やかな葬儀」「生存の図式」といった作品にも、ユーモアはありますが、「服こそ人なり」ほど突き抜けた野放図なところはありません。
 こうして見ていくと、第一第二短篇集に収められた作品の多くは、SF雑誌に書かれたSF作品ですが、SFとしてのアイデアを深めたり、思索を深めたりという、SFとしての評価軸の中心となる部分においては、ありきたりの域を出ないことが分かります。「旅芝居の火星人」「夕食には帰るよ」といった、秀れた作品においては、SFでしか書けないという意味において、SFとしてのアイデアや思索を深めているとも言えるのでしょうが、これらの作品においても、マシスンの資質の核がSFにあるというよりも、小説としての面白さに忠実な行き方が、SF特有のアイデアを得たことで、良質なSFを書かせたという印象を持ちました。そして、その延長線上に、マシスンの才能が第三短編集で開花します。

 リチャード・マシスンの第三短編集『13のショック』は、異色作家短篇集の第二期に入りました。1962年。原著刊行の翌年のことでした。私見によれば、この短編集はシリーズ18冊の中でも上位にくるものですが、第二期――フレドリック・ブラウン、ロバート・ブロック、ジェイムズ・サーバー、リチャード・マシスン、ロバート・シェクリイ、マルセル・エイメというラインナップ――は、第一期よりも、さらにミステリからはずれて、SF寄りにシフトしていることが分かります。ブロックもマシスンもSF作家と見られていました。にもかかわらず、マシスンの一冊として選ばれたのは、第一短編集でも第二短編集でもなく、この『13のショック』でした。慧眼というものでしょう。
 巻頭の「ノアの子孫」が、まず出色の短編です。休暇をニューイングランドの旅行で過ごした主人公が、深夜、人口67の田舎町ザックリイを車で通過しています。時速15マイル(なんでしょうね、邦訳では単位がありません)の制限を守るわけもないのですが、スピード違反で警官につかまってしまう。主人公にとっては、ちょっとした不運で、罰金を払わされて終わりと思っていると、運転免許証を取り上げられ、身柄を拘束されてと、次第に雲行きが怪しくなっていく……。かなり以前のことになりますが、フィッツジェラルドをとりあげた回で〈アメリカのあるところからは生きて還れない〉と表現したパターンの、「ノアの子孫」は代表作でしょう。徐々に高まっていく主人公の不安、一晩明けた朝の食事の持つ効果と意味の素晴らしさ、警官たちの制服の着付けが悪いというディテイルの巧さなど、見事なものです。一方で、この小説はスタンリイ・エリンのある短編と比較される運命にあります。エリンが巧みにほのめかした部分を、マシスンは主人公が路上に見つける旗という、アイデア一発で読者に暗示してしまいます。初出がヒッチコックマガジン(邦訳もそうでした)であることからも分かるように、日常のただ中から、突然、悪夢のような陥穽に落ち込んでしまう主人公のショックは、異様な魅力に満ちていましたが、ここにはSF味はありませんでした。
 二番目に来るのが「レミング」です。この短い作品を、中学生だった初読時の私は、思いつきだけが露出した作品だと思っていましたが、何を読んでいたのやら。たしかに、海辺の一場面を描いただけで、そこに起きている出来事は、ワンセンテンスで言い表せるひとつのアイデアにすぎないかもしれません。しかし、淡々と描かれるその異常な光景と、それを他人事のように眺める(しかない)ふたりの警官の対照的なまでの平穏さ。さらに、その平穏さのままに、それでも、彼らもその事態の異常さから逃れられているわけではないという結末。わずかな枚数の中に、終末の世界を切り取って、これは象徴性と含意に富んだ秀れたショートショートでした。
 自信を持って並べたであろう、冒頭の二編からして、第三短編集におけるマシスンは、ある脱皮を経た作家の容貌を見せています。もちろん、この短編集においても、SF作家マシスンがいないわけではありません。「天衣無縫」は主人公の頭が勝手にどんどん良くなっていくという発端が、たいへん魅力的で、科学的な(しかし、現実性から言えばありえない――つまりSF的なのですね)説明が学者によってなされはするものの、そんなことは主人公の不安を解消する役にはたちません。そして、突然訪れる結末によって、この作品がまぎれもないSFであることが判明します。なかなかチャーミングなサゲの一言で、主人公を襲った事件の大きさに驚くことになります。あるいは「死の宇宙船」のように、他の天体に探索行に出た宇宙船の乗組員が、降り立った星で見つけた墜落した宇宙船の中に、自分たちの死体を発見するという、これがSFでなかったら何がSFだというような作品もありますし、「死者のダンス」のように、第三次大戦後の近未来――といっても1987年のことらしいのですが――での若者たちの危険な遊びといった、あからさまにSFという作品も存在します。ただし、それらの未来や宇宙を舞台とした短編は、あまり芳しい出来ではありません。




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