短編ミステリ読みかえ史

2015.09.07

短編ミステリ読みかえ史 【第78回】(1/2)  小森収


 ジョン・コリア、チャールズ・ボーモント、ロバート・ブロックというラインナップで、現在のところ三冊まで扶桑社ミステリーから出ている『予期せぬ結末』のシリーズは、単に、異色作家短篇集の後続作品集というコンセプトだけで、作られているわけではありません。ヒッチコック劇場やトワイライト・ゾーンといった、50年代から60年代にかけてのテレビシリーズの、原作や脚色を担当した作家の作品集という側面が、むしろ強調されています。そこには、現在の日本における、商業的な判断も入っているでしょうが、なにより、それらのテレビシリーズが良質な作品を産み出し、半世紀を経てなお、力を持ち続けているという事実が大きいものと思われます。イギリス流の怪奇小説から、モダンホラーを経て、ラヴクラフトの影響を受けた人々が中心となって担った、アメリカの幻想と怪奇の小説の流れは、怪奇小説のパルプマガジンにとどまらず、ミステリやSFへと波及し(のちに触れますが、その背後には、戦後のアメリカに到来する雑誌の黄金時代があります)、やがては、ブラッドベリやボーモントのように、スリックマガジンへ進出していく作家をも産み出しました。そこには、ウィアードテールズの廃刊に象徴される、ホラー雑誌の衰勢という面もありましたが、マニア層以外への読者の開拓と裏表のことでもありました。それらの小説が、商業性を認められていった過程を抜きには、前記のテレビ番組はありえないでしょう。
 では、そうした、一般的な読者層に開かれた怪奇小説(でも幻想小説でもSFでもミステリでもいいのですが)とは、どのようなものだったのでしょうか?
 チャールズ・ボーモントの『予期せぬ結末2 トロイメライ』は、第一部が幻想と怪奇、ユーモラスなクライムストーリイ一編を間奏に挟んで、第二部がSFという構成になっています。間奏というのは「殺人者たち」『残酷な童話』(扉裏の作品紹介に『危険な童話』とあるのは誤りですね。土屋隆夫じゃないんだから)に入っている「人を殺そうとする者は」の別ヴァージョンですが、作品の狙いは変わっていません。この短編集は、これまでのボーモントの個人短編集に未収録だったものを集めたそうですが、第一部よりも第二部のSFに佳作が多かったのには、少々驚きました。
 第一部は「血の兄弟」という63年の作品から始まりますが、精神分析医を訪ねてきた患者が、自分は吸血鬼になってしまったと訴えるという、ありきたりと言えばありきたりな話です。吸血鬼にはなったものの、どうも不適応らしくて、意識としては人間のままなので不便きわまりないという悩み(吸血鬼性同一性障碍とでも言うのでしょうか)は、ひとひねりしているとは言えますが、作品の出来を左右するまでには到りませんでした。  デビュー作の「悪魔が来たりて――?」は、あるスクープ記者が、なぜ特ダネをものすことが出来るようになったかを語るのですが、ブン屋の集まる酒場での話というのが、悪魔との契約ものにしては、近代的な明るさを持っています。このテーマは、数多く書かれていますが、ユーモラスなものになりがちなので、明るさはマイナスとは言えません。この小説もその例にもれず、にもかかわらず、たとえば前々回紹介したダンセイニの「悪魔の契約」のような、強烈なユーモアがあるわけでもなく、大ボラの爽快さもないのです。「秘密結社SPOL」もそうですが、ボーモントはユーモアを出すのが、あまり上手ではないように思います。この短編集外の作品ですが、艶笑譚の「艶男名残一膳(うわきおとこなごりのいちぜん)」や、パスティッシュの「マルタの鷹はどこに?」といった短編も、上手くいっていませんでした。「トロイメライ」は、唯我論者の死刑囚というアイデアがむき出しで買えません。こうして見てくると、第一部で面白かったのは、最晩年の一編「とむらいの唄」ということになります。ある村に突然現われては、一軒の家を選んで、そこでとむらいの唄を歌う盲目の男。しばらくすると、その家からは弔いが出ることになる。シンプルながら怪異として申し分がありません。やがて、男は主人公の少年の家の前で歌い、観念したかのように父親は亡くなります。死を予告する歌い手。前回もくり返し述べた、単純にして異様なシチュエーションを淡々と描いていく、ボーモントの勝ちパターンでした。

 SF作品を集めた第二部では、タイトルになった奇妙な生物を描くことにのみ終始した「フリッチェン」や、終末を迎えて、わずかに残った生存者が、生き残った人類が存在しないことを確認する一景と見せて、考えオチをきめる「集合場所」、全体主義と人間改造をブレンドしたディストピア小説「変身処置」、アンドロイドは宗教的に人間たりうるかと問いかける「終油の秘蹟」といった佳品が並びます。第二部随一の短編が「エレジー」でしょう。最終戦争目前の地球を脱出した一団が到着したのは、文字通りの宇宙の墓場――生涯の最良の状態を選んで、そのままの姿で永遠の不老不死を与えてくれるという〈霊園〉だったのです。 『予期せぬ結末2 トロイメライ』にSFの秀作が多いのは、単に、SFの作品数自体が少なく、これまでにまとめられていなかったということではないかと思います。ボーモントのSF作品(ホラーとの混淆かもしれませんが)にも、「ジャングル」のように、どう考えても俗な想像力の範疇を出ない凡作もあるのです。しかし、これらの幻想と怪奇の小説やSFに目を向けるとき、ボーモントの筆が活きるのは、やはり、前回も書いたような、具体性を持った異様さを発揮するシチュエーションを描かせたときではないでしょうか。上記のSF作品群で言えば、「フリッチェン」がそれにあたります。ただし、ボーモントの資質との相性を考えると、SFは良いとは言えないと思います。というのは、状況設定のフィクショナルな度合が強まるために、どうしても、その設定のもたらす異様さは、シンプルな力強さや具体性に欠けてしまうのです。確かに「エレジー」は秀れた短編ですが、それでも「とむらいの唄」の、死者を予見する盲目の歌手という、簡明な異様さの前には、一歩譲るのではないでしょうか?
 この短編集の、とりわけ第一部を読むと、ボーモントの、というより、このころの幻想と怪奇の小説の、ひとつの特徴が浮かび上がってきます。
 最もそれが表に出ているのが「悪魔が来たりて――?」でしょう。新聞記者たちが集まって、グチともホラともつかないお喋りに興じる酒場。そこでの打ち明け話という枠組みで語られるのは、父親の残した田舎町の新聞社を継ぐことになったいきさつです。悪魔との契約という、ひとつのパターンとなった話ながら、そこで舞台になっているのは新聞社であり、書いてしまえば、それがどれほどありえないことでも実現し、したがってスクープ記事になるという、新聞記者にとっては、打ち出の小槌のような取引でした。
 ここには、ロバート・ブロックの初期作品に見られたような、どことも知れないヨーロッパのどこかではなく、アメリカの日常的な社会が舞台となっています。「黄色い金管楽器の調べ」は、メキシコの話ですが、エキゾティズム(が商業誌の場合ひとつの売りになることはモームの『コスモポリタン』を読めばお分かりでしょう)が前提の作品なので、また別の議論になります。井上雅彦さんの言う「普通の小説」がそうなのはもちろん、「ロバータ」にしても、「とむらいの唄」にしても、アメリカ人の普通の生活感――都会人の感覚からは、ちょっと離れているかもしれませんが、しかし、都会の人からも受け入れられるものでしょう――から、微妙に逸脱した異様さであり、それゆえに怪奇性が増したのではないでしょうか?
 50年代はSF雑誌の黄金時代と言われ、そちらに足場を移したホラー作家は枚挙にいとまがありません。しかし、SF作家の肩書きからSFをはずすことで大作家となったブラッドベリや、SF作品が居心地悪そうに作品リストに並ぶボーモントといった人たちは、そこから脱することが、作家として急務でした。もちろん、SF作家として大成した人はちゃんといて(この連載に出てくるであろう人で言えば、ロバート・シェクリイやフィリップ・K・ディックやカート・ヴォネガットJr.)、そうした人たちがSFを支えていくことになります。ですが、そうでない、寄り道をした人たちが、やがてミステリに大きな影響を与えるようになります。SFを経由してホラーやファンタジーに回帰する。その典型を、私たちはリチャード・マシスンに見ることが出来ます。




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