短編ミステリ読みかえ史

2015.07.06

短編ミステリ読みかえ史 【第76回】(1/2)  小森収


 前回、オーガスト・ダーレスの「淋しい場所」について、ついうっかりと「表題作(原著でも)」と書いてしまいましたが、短編の原題はThe Lonesome Placeで、短編集の原題はLonesome Placesなのでした。味な真似をやっているわけですが、つまり、単なる表題作という以上の意味をそこに持たせているということでしょう。子どものころ怯えた〈淋しい場所〉が、短編「淋しい場所」のキモであると同時に、ダーレスの短編の(少なくとも、ここに収録された短編の)キモであるという宣言だからです。
 たとえば巻末に配置されている「黒い髪の少年」は、学期途中から仕事についた教師の女性が、教え子の中に、奇妙に目立つ少年を見つけます。ここでも、やはり、見つけることが始まりになっています。邦題は「黒い髪の少年」となっていますが、原題はThe Dark Boyで、邦題よりも、やや含みがある。山本俊子訳では「ダーク・ボーイ」としていますね。ともあれ、下宿先の老姉妹の様子にも不可解なところがあって、やがて、夜の教室で、その生徒とふたりきりになる。
 小説は、ダーレスのお得意のパターンである、奇怪な現象(この場合は謎の少年)のもととなった過去の出来事が、主人公の(そして読者の)知るところとなって終わります。ロバート・ブロックなら、この少年を登場させることで、読者を怖がらせようとするか、少年の正体が最後に割れるところで、驚かせようとするかして、結果、その手つきが透けてみえるという仕上がりになってしまいそうです。レイ・ブラッドベリなら、少年の数奇さを、少年の側から描くかもしれません。「黒い髪の少年」は、過去の事件が明らかになった後で、主人公と少年の父親が言葉を交わす結末が、良い味を出していて(私はシャーロット・アームストロングの「敵」を思い出しました)、おかげで、この短編が秀作の域に達しました。こういう厚みを出せる作家なのです。
 不可解な事態の原因というよりも元になった出来事(スーパーナチュラルな事態に、因果はともかく、因果律をもとめるのは不自然な気がしますからね)が判明して、小説が終わるというのが、お得意と書きました。ただ、そのやり方は、そこだけが浮き立つ小説になってしまうと、オチ頼みの安直なアイデア・ストーリイに堕する危険性も充分です。「ポッツの勝利」「レコード録音機」「ヘクター」といった作品が、それにあたります。
 また「仮面舞踏会」「フォークナー氏のハロウィーン」は、ロバート・ブロックが書きそうなアイデアですが、ブロックよりも抑制が利いていて、悪く言えばハッタリに欠ける、地味な仕上がりになっています。アイデア・ストーリイには、ある種の明るさというか、ケレン味とかハッタリ――落語家が「臭い」と表現する感じ――が必要だと私は考えているので、向き不向きでいうと、ダーレスには向かないと思います。珍しくオチの楽しさが生きたのが「幽霊屋敷」――この題名も、さすがに「貸別荘幽霊も出ます」の方が、気分も出ていて良いでしょう。これまた山本俊子訳――です。最初からユーモラスなゴーストストーリイを狙っていました。
 人が怪異を発見することで、怪奇は起こる。その行き方のひとつのヴァリエーションとして注目に値するのが「もうひとりの子供」です。叶うことのなかった初恋の人が好きだった絵を、持ち続けていた老人が、森の中で遊んでいる6人の子どもを描いた、その絵の中に、7人目の子どもを見つけてしまう。私はブリューゲルふうの絵をイメージしましたが、たいへん魅力的な出だしで、すでにして一本取った感があります。「キングズリッチ214番」同様、結末のつけ方に切れ味がほしいところですが、ダーレスという人は事件が解決して終わるというミステリふうの結末が好きなのかもしれません。
 そして「淋しい場所」とならんで、ダーレスタッチがフルに発揮されているのが「森の空地」です。ただし、ここには「淋しい場所」の持つ、自分たちの怪異が引き起こしたことへの怯えにとどまらない、ある種の能動性が結末に書き込まれています。その怪異に対する能動性に、私はのちに出るスティーヴン・キングを連想しました。この小説の結びはいただけませんが、「淋しい場所」「森の空地」の持つ意味と大きさは、怪奇小説の歴史の中で見ても、なお留意する必要があると思います。




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