短編ミステリ読みかえ史

2015.05.08

短編ミステリ読みかえ史 【第74回】(1/2)  小森収


 日本ではそれほど数の多くないロバート・ブロックの短編集全訳のひとつ『血は冷たく流れる』は、異色作家短篇集の第二期に入りました。そういう日本での重要性は無論のこと、原著がサイモン&シャスターのイナー・サンクタムの一冊であるという点からも、この短編集が、ブロックの経歴中で重みのあるものになったと見ていいでしょう。ロバート・ブロックのサイモン&シャスター進出、すなわち、ハードカヴァーの作家としての歩みは、ハヤカワポケミス版『サイコ(気ちがい)』の解説で、都筑道夫が、その前後のアメリカにおけるミステリの出版事情をからめて、詳しく触れています。『都筑道夫ポケミス全解説』に収められていますから、興味ある方は参照してください。
『血は冷たく流れる』は、59年の『サイコ』で評価され、そのヒッチコックによる映画化(60年)も当たりをとったブロックが、50年代後半から60年にかけて雑誌に発表した短編を集めたもので、当時の近作を精選したものと言っていいでしょう。発表誌も、SF、ミステリ、ホラーの専門誌からスリックマガジンまで、多岐にわたっています。そこには、怪奇小説のファンライターからアイデアストーリイの職人作家へ変身した、ロバート・ブロックの姿を見てとることが出来ます。
『血は冷たく流れる』を読むと、ロバート・ブロックという作家の長所と限界がよく分かるというのが、今回再読して、私が得た結論でした。ここには達者に書かれた、さまざまなジャンルの短編小説が並んでいますが、達者に書かれているという以上のひらめきを感じさせるものは、ありません。読んで面白いものはいくつかありますが、アンソロジーに積極的に収録したいと思わせるほどのものは、残念ながら見当たらないのです。
 巻頭を飾る「芝居をつづけろ」は、マイク・シェーン・ミステリ・マガジン初出だそうです。ショートショートといっていい長さの、この短編ミステリは、幕間に一杯ひっかける役者の話と見せて、オチを用意した作品ですが、いかんせん、結末に辿り着きたいという作家の心持ちが隠しようもない。この長さで書くのは、これが限界かもしれませんが、登場人物ふたりの会話を検討していくと、結末から遡って作った手つきが透けて見えます。続く「治療」は、プレイボーイに書いたもので、クライムストーリイふうの出だしに、ホラーファン/作家らしいオチをつけていますが、やはり、結末のアイデアのみが浮かび上がって見える。これがSF作品の「こわれた夜明け」になると、核戦争による終末を描き、個人用シェルターから汚染された外界に出た主人公の彷徨が、丹念に描かれていて、やや手厚さを見せます。それでも、最後の台詞を読んだ瞬間、書きたかったのは、ここなんだと思わせて、そこがあざとさに見えてしまう。ひとつには、これは当時の核による終末観の限界かもしれませんが、地球上のすべての地域が一度に完全に死の世界になってしまうかのような、終末のイメージが、単純にすぎる(小松左京が『復活の日』で描いた終末像のリアルさと比較してみてください。短編と長編の差だけとは言えないものがあります)ためでしょう。つまり、結末に到る過程でのイマジネーションの働きに、細かさていねいさが欠けているのです。そして、それは、上記三作に共通する弱点でした。
 被害者を物色する異常者の話であることが、冒頭から明らかな「わたしの好みはブロンド」にしても、EQMMが初出で、ブロックが得意とする、生き馬の眼を抜くショウビジネスの世界でのクライムストーリイ「ベッツィーは生きている」にしても、やはり、芸人の世界を背景にした「最後の演技」にしても、フィニッシング・ストロークにばかり意識がいって、意外ではあっても、それ以上のものはありません。意外な結末であっと言えばそれでいいというレベルなら、確かに達者なものですが、そうした行き方の行き詰まりを促進したのが、ほかならぬ、これら一群の作品であったとは言えないでしょうか?
「あの豪勢な墓を掘れ!」「強い刺激」といった、芸術やそのムーヴメントが産み出すまがいものを題材にしたとき、ブロックの筆が拭いがたいのは、芸術そのものに対する理解の底の浅さでしょう。描く対象が、芸術家のだらしない側面であれ、似非芸術家であれ、そもそもの芸術に対する眼差しが俗な鑑賞眼を一歩も出ない――フレドリック・ブラウンはそうではないし、ブラッドベリの描くカーニヴァルのいかがわしさにさえ、得も言われぬ眩さがありました――のは、ロバート・ブロックの趣味そのものが、一流のものをオミットしていた結果ではなかったのかと、私は疑いを抱いています。




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